「
泡なしの ビールは不味く 世も同じ あぶく事あり 与も楽しめり」、「選ばれし 人になりたし エラを張り 四角の顔で 資格得りしか」、「慢心し 蕁麻疹に 見舞われし 紳士真摯に 用心要し」、「指折りて 歌を考え 湯に浸かり 曇るガラスに 丸を描きし」
正月休みが明けてからは「風風の湯」の客は激減した。ホテル「花伝抄」が改修中で、それが一因でもあろうが、昨日の夜9時頃は脱衣場やサウナ室も含めて筆者ひとりの時間が20分ほど続いた。初めての贅沢な経験だが、さびしくもあった。利用時間帯がほぼ同じ常連客は、嵯峨のFさん、地元嵐山の85MさんとMさん、それに上桂のTさんくらいで、ほかにあまり話さない4,5人と週に一度ほどは顔を合わせる。筆者の趣味と合う人がおらず、で少々物足りないが、他愛ない話に終始して角が立たないのがよい。85Mさんは酒好きで、去年のクリスマス前に「電気ブラン」をプレゼントし、その1か月ほど前にも珍しい酒を「風風の湯」の脱衣場で手わたした。後者を85Mさんは正月に飲み、おいしかったという感想を聞いた。それでまた陶器瓶入りの酒を差し上げようと考えているが、こういう酒の話は、酒を全く飲まないFさんには絶対にしない。先日久しぶりに金閣寺のKさんが「風風の湯」にやって来て、筆者とFさんを見て例のごとく茶化しながら湯舟で話に加わった。Fさんは毎週場外馬券を買いに祇園に行く。Kさんも競馬好きで、ふたりは筆者と85Mさんのそばで話が盛り上がり、そのままサウナ室に直行した。いいことだ。大いにはしゃぐFさんは珍しく、Kさんのおかげで気晴らしになったであろう。筆者は競馬に関心がなく、Fさんは物足りないだろう。70歳台ともなるともう趣味は完成していて、他者の別の趣味に介入することは無理だ。筆者は聞き手になって話をうまくつなぐが、相手は初歩からの説明にうんざりしているかもしれない。Fさんは株の売買で食べていて、趣味の競馬と同じく、賭け事が好きだ。ところが以前にも書いたように、会社を辞めた後、趣味を持とうとし、碁の本を買って学び、碁会所にも通ったが、若い女性にいつも負けることに才能がないと思って諦めた。それでより運が支配する競馬一本に趣味を絞り、1日に1万円以上は使わないと決めている。趣味のない人がいるかどうか知らないが、父親を早く亡くしたFさんは競馬以外の文化資本と呼べる芸術系のことに全く関心を持たなかった。本も読まず、家の中は驚くほど殺風景だ。その点筆者とは正反対で、それでいて「風風の湯」の常連の中では最も親しく話す間柄であることは面白い。これはお互いある程度我慢しているからだ。そういう関係を面白くないとして口を閉ざす人は多いだろうが、何となくウマが合って世間話が出来る関係も珍しくない。そういう関係は多いほうがいいに決まっている。それで仲間に引き入れたい数人が自治会にいるのに、家風呂で充分と素っ気ない。 大手の商社に50歳まで勤務していたFさんは数字に強い。Fさんによれば日本に会社がざっと50万ほどあって、そのうち一部上場企業は3000として、1パーセント弱の人間が言うなれば一流だと言った。この話になったのは、昨日書いた17歳の高校生が東大受験生を刺した事件からつながってのことだ。1パーセントの人間が一流に値するというFさんの意見に、筆者は首を傾げたが黙って頷いていた。というのは、社員を数千人抱えた家電メーカーのナショナルでは中卒の工員があたりまえにいたし、筆者が最初にサラリーマンとして勤めた設計会社は株を公開しておらず、また会社の上層部は全員京大の工学部卒であったからで、上場企業の社員のみが一流とは言えない。とはいえ、Fさんにすればそういう会社に四半世紀勤務したことが自慢なのだ。また勉学の成績のよかった者は顔つきでわかるので、「風風の湯」の常連客の誰とも等しく話をする思いには毛頭なれないようだ。そこが筆者と違う。筆者は人間的に優しいかどうかを判断して話す。Fさんはとても辛辣だが根本は優しい。その辛辣さはおそらく家庭的に苦労したからだ。またその財産のなさからひとり立ちしたことを筆者にも感じているのだろう。それで筆者には優しいのだと思える。さてコロナのために相変らず限定3人となっている今夜のサウナ室では、Mさんと久しぶりに出会ったTさんが話しているところに筆者が加わった。話を聞いていると、Tさんの知り合いが69歳で最近亡くなったそうだ。それに30歳くらいで突然死した社員もいたと言う。Tさんがサウナ室から出た後、Mさんは筆者に、体が言うことを聞かなくなれば老人施設に入るのかと訊ねた。そんなことは考えたことがないと筆者は笑いながら答えたが、健康に人一倍気を遣っているMさんは、娘を産まなかったことが残念で、息子の嫁に下の世話をしてもらうのは気の毒と言った。そこにFさんが入って来た。以前書いたように、FさんとMさんは毎日「風風の湯」を利用しているのに、お互い名乗らず、一度も話したことがない。そこで3人並んで筆者は話題をつなぎつつ、MさんとFさんに話しかけたが、Fさんは老後の心配はなるようになるもので全く考えていないと、筆者と同じ意見を大声で語った。すぐにMさんは出て行った。男の健康寿命は74、寿命は80で、その平均値からすればFさんは今年中に何らかの健康を害することがあって、その状態で6年生きる計算だ。数字に強いFさんはそのことを知っているだろう。またそんなことを考えるとサウナでの常連の談義は一回ずつがかけがえのないものに思える。サウナには5分の砂時計が置いてある。Fさんはそれを必ず逆さにし、5分でサウナを出る。筆者はそれより1、2分長く入るが、やがてFさんのように5分になるだろう。砂すなわち時間が常に少しずつ落ちて行き、砂の残量は誰もどれほどか知らない。 大阪のクリニック放火犯は残されたスマホから通話記録がなく、友人はいなかった。それで5年の間2週間に一度世話になった院長を道連れに自殺するのは、死後の世界での孤独を恐れてか。一昨日Fさんは医者になれば誤診で患者を死なせることがあるはずで、自分はとてもそのことに耐えられないと言った。そこで筆者は迷いながら上田秋成の名を出し、誤診で他人の女児を死なせたことで医者を辞めたと言った。Fさんの優しさに触れた気がしたからだ。ところが医者になるにはその優しさを捨てなければならないかのようだ。17歳が東大を出て医者になれる見込みがないと知るや、人を助けるどころか殺そうとする。その高校生と同じ気質の者が医者になっているはずだ。これも以前に書いた話だが、筆者の知り合いの年配の女性の娘さんは女医になった。ところが、毎日深刻な顔をした患者を診る仕事は羨ましがられるかもしれないが、医者本人は患者の暗さが伝染してつらいことがあるという。それが人間だろう。そしてその辛さを乗り越えて患者を治癒させる使命感を持つ。その年配女性は続けて、「いつもきれいなものを見て描く大山の仕事のほうがどれほど精神的にはいいことか……」と言った。筆者を慰めてのことかしれないが、彼女も趣味として同じことをしているので、本音に違いない。この話を数年後に家内の知り合いの30代後半の独身の医師にしたところ、彼は画家や美術家が医者より社会的地位が高いはずはないと憮然とした顔で言った。その若い医師は文化資本がほとんどないのだろう。人間が幸福を感じて生きて行くには芸術は欠かせない。人間は絶対に死ぬ。それを前提にすれば医者はおこがましい職業だ。医者は患者あっての商売で、心身に必ず触れる。芸術は感覚に作用するだけで、その意味では医者よりは汚らわしくない。クリニック放火犯が院長に恨みを抱いたとすれば、5年通院して改善しなかったことに対してか。17歳の高校生も恨みを客観視する自分が見出せなかったとすれば、精神を病んでいたことになるが、そこまで駆り立てる残酷なことがこの日本にあるのかどうか。その判断は人さまざまで、鈍感な人もいれば敏感な人もあって、また敏感な人の中に被害者意識を強く抱く者がいる。受けた被害は何倍にして世間に返そうという思いで、適当に近くにいる他者を襲う。医者になるには大学で数千万円を費やす必要があっても、医者になれば充分元が取れると聞く。そのことと同じで、医者を目指してなれない者のルサンチマンはクリニック放火犯のようにはならないとしても、どこかで燻り続けて発散の場所を求め続けるだろう。たいていの医者は自分を役立てる方向を修正し、天職と思える場に自分を嵌めることに成功するはずだが、それには妙な自惚れを持たないために東大を出ないほうがいいかもしれない。85Mさんは医者や薬が大嫌いで、その点筆者と大いに話が合う。
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