「
普通とは 鈍行なりと 普通知る しかとゆっくり 歩めば普通」、「俗なほど 人気得られて 金持ちに 何が偉いか 俗恥じぬ人」、「雪持ちの 枝に輪切りの みかん刺し 目白招きつ 部屋の炬燵に」、「食べた跡 認めて楽し 餌やりは 互いに姿 知らぬがよしや」

新聞を購読しなくなって7,8年経つ。ニュースはTVかネットで充分だが、物足りないのは楽しみにしていた文化欄だ。展覧会も新聞でよく知ったし、新刊本の書評もよく読んでいた。ネット時代になって誰でも本やCDの感想をアマゾンに書き記すことが出来るようになり、筆者もブログでよく書く。それで有名人による意見を読むことよりも素人のそれを読む機会が増えた。後者はそれなりに面白いが、政治がらみになるとどうもおかしいと思う意見が多く、右派と左派陣営が金を出して書かせていることが何となくわかる。となれば新聞の書評も当の新聞の政治的立場の影響を受けないことは難しいであろうし、選ばれる本からして偏向していると思っていい加減かもしれない。そういうように考える人がネットで自分の感想を伝えられる時代になったことは大いに喜ぶべきだが、ほとんどの人は有名ではないので読者はごく少数で、すぐに消える泡同然だ。それはさておき、先ほどネット・ニュースで東大に入るには文化資本は必要ないという東大の先生の文章があった。東大に入る人はまず金持ちで、彼らは貧しい人と違って家に本がたくさんあり、美術館やコンサートによく行くが、入試にはそうした文化資本は関係なく、塾で懸命に入試問題を解くことを学べば入学出来るという意見だ。つまり東大生はさまざまで、文化資本をたっぷり持つ者と試験問題を解くのが得意なだけの小賢しい者が混じっている。文化資本が読書や展覧会、音楽鑑賞といったことであれば、筆者は人並み以上の文化資本を持っている自信はある。ところが乏しい年金暮らしで、食べるものを削っても本やレコードを買って来たから、これまでの人生を振り返って常に金に困って来た記憶が強い。文化資本を持っても経済的裕福は得られず、むしろその逆だ。毎年のようにゴッホの展覧会が日本で開催されるが、ゴッホは貧困の中で無名で死んだ。皮肉なもので、そのゴッホの絵を文化資本とはあまり関係のない無学な金持ちがほしがるだろう。ともかく文化資本という言葉が嫌いで、東大生にからめられるとそれは何となく金持ちのアクセサリーに感じられる。貧しい人は本を買う金があれば食べ物を優先すると言うだろうが、その考えに文化資本がない。文化資本を平たく芸術と言い替えるとさらに嫌悪の情を示す人がいるが、芸術は人間のものでどのような人にも必要だ。それを貧しい人は知っていて、彼らにふさわしい文化を享受する。それをTVが毎日大量に吐き出し、醜悪な顔の代表的な連中が少しも笑えないことをのたまう。今日の題名の最後は「化け者文化」にするつもりであったが、笑えないので止めた。
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