「
濁り酒 たまには買うて 清濁を 併せ飲むこと 胃に銘じたし」、「ビールより 店のざわめき 思い出す 仕事帰りの 梅田ミュンヘン」、「憎しみが 継がれ続けて 殺し合い 倦むこと知らず 有無を言わせず」、「ユダヤ人 Youは嫌だと 言うなかれ 理由知らずに はしゃぎ嫌われ」
昨日の続きのような形になるが、まずTVのドキュメンタリー番組について書く。近年NHKは何度か同じ番組を放送するので、再放送か再々放送によって見落とした場面をまた確認出来ることが多いが、オン・デマンド方式とやらで、再放送を待たずに有料で過去の番組が好きな時に見られる仕組みが用意されている。筆者はそれを利用するつもりが今後もなく、たまたま放送中の番組を見てこうして感想を書く。そのため昨日紹介した番組もデータとしては間違っている箇所が多々あるはずだが、番組を見流しての思いを書き流したことに過ぎず、間違い箇所はわからず、したがって訂正もしない。コメント欄をオープンにしていれば親切な読者が間違いを指摘してくれるが、正直な話、それは鬱陶しい。番組から受ける思いをおおよそ述べることが筆者の目的で、自分がどの箇所に注目したかが大事で、データ的正確さは大げさに言えば二の次だ。論文ではなく、創造的作文と思っているからだ。前置きはこのくらいにして、興味深く見たドキュメンタリーはスウェーデンとBBCの製作だったと思う。料理人で妻のいる若いスウェーデンの白人男性が北朝鮮による海外への武器販売の実態を、北朝鮮の要人や間に入る他国人と直に接触し、一定の成果を上げたところでその生活を妻に伝え、引退するという結末だ。その男性の顔が世界中に晒されたので、復讐に遭う可能性があり、作り話ではないかとの疑問が捨て去れないが、誰しも昔からたとえば007のシリーズ映画によって、スパイがどの国にもいて、相互に内部事情を探り合っているであろうことを暗黙のうちに了承している。スパイという存在は普通に生活している限り一生無縁だが、どの国にもやくざがいるようにどの国にもスパイはいると考えるのは自然だ。そのドキュメンタリーで最も面白かった部分は、その青年が闇の武器商人と言うべき相手をすっかり信用させ、同志であるとの揺るぎない、あるいは表向きは相手がそのように思い込んでいる間柄を築いた後、そして北朝鮮がどの国や団体に対しても金さえ払えばミサイルを始めどのような武器でも販売出来る体制にあることを示す証拠書類を得た後、自分はスパイであったと画面越しに相手に伝える場面だ。当然相手は長年の信頼関係を一瞬で失うと同時に嵌められたことを知り、パソコン画面の電源を落とすが、その時の画面の向こう側の騙された男の落胆ぶりが、北朝鮮が武器を闇社会に販売していること以上に、いわば映画のような見所になっていた。人間対人間のドラマを描くからだ。それは俳優の演技では望めない迫真性がある。
北朝鮮の武器を管理する要人は粛々と国の方針にしたがって仕事しているだけで、悪の権化には見えない。どの国にも同じ立場の人間はいる。スパイとなった男性も国の方針にしたがったまでで、油断して騙されるほうが悪いという世界だ。いかに相手を信用させて内情を円滑に知るかの情報合戦は企業間にもあるだろう。人間であるので欲はあり、その欲を満たすように導けば相手は落ちる。その欲として人柄のよさを相手に信用させることが最も効果的であることを同ドキュメンタリーは伝えていた。見知らぬ間柄が言葉を交わす間に親近感が生まれる。スパイにとってそれは最大の敵だが、ある程度の親近感がなければ情報は得られない。そこで相手をいかに信用させるかという詐欺師的才能を弄する必要がある。これは一見したところの表情や態度を基盤に話術が巧みという要素のほかに、相手をいかに儲けさせるかという金にまつわる話が最大の効果を挙げる。ただし金儲けの話には必ず裏があるという鉄則は誰しも百も承知で、それゆえまた相手の人柄が信用するに値するかどうかを絶えず吟味することになるが、どのような悪人であっても人間を信用したい思いは持っている。それでやくざの世界も成り立っているのであって、スパイになるには血も涙も捨てねばならない。そういう人間が警戒を怠らない相手をいかに信用させ得るかということを先のドキュメンタリーは伝えていたが、娯楽映画さながらの危険な目に遭う場面があった。そのことは表沙汰にはならないものの、スパイであることがばれて相手に殺された人物がおそらく数多くいることを想像させる。そうなればますますスパイ合戦は巧妙をきわめるが、根本は人間対人間で、相手を信用させていかにうまく裏切るかという根本原理は永遠に変わらない。となれば先の番組は後味の悪さのみが残るという結論になりそうだが、国という大義を背負っていることで数人の武器商人を騙したところでそれは英雄行為だ。騙されるほうが悪いのであって、油断すれば自分が騙される。情報を得る戦いとはそういうことだ。さて、その番組を見ながら筆者は今日取り上げるスティーヴン・スピルバーグが2005年に撮った映画『ミュンヘン』を思った。ほぼ同時期に見たこともあってなおさら興味深かったが、料理人の若い男が主役という点は同じで、双方の男性の風貌もよく似ている。そして妻に自分の本当の仕事を言わない点も共通し、本作の映画を参考に北朝鮮に侵入して武器販売の事情を調べさせたのではないかと思うほどだ。ひとつ大きく異なるのは、同ドキュメンタリーでは人は死なず、本作は全編が殺人の応酬であることだ。本作の根底にはユダヤ・アラブ間の紛争問題があって、その解決の糸口が見えない歴史のひとつの発端である1972年のミュンヘン・オリンピックでのイスラエル人選手団11名の殺害とそれに対するイスラエル政府の反逆をテーマにする。
本作を見ることになったきっかけは、筆者が目下大いに気に入っているフランス在住の女優ヴァレリア・ブルーニ=テデスキが出演するからだ。彼女が出る映画を最初に見たことを契機に以降の作を順に見ることにし、本作の番となった。ヨーロッパ映画界で有名な彼女がスピルバーグ作品に登場するとしてもそれは端役であることは誰にでも想像が及ぶ。実際そのとおりだが、彼女好きの筆者はそれでも充分満足で、今日は彼女が登場するごくわずかな場面の画像を使う。本作はミュンヘンでの事件を皮切りに、事件での被害者となったイスラエル人選手団を殺した黒幕11人を順に抹殺するために、イスラエル在住の若い料理人の男性が当時のイスラエルの女性首相のメイヤーからリーダーに任命される場面から始まる。筆者が購入したDVDは2枚組で、2枚目は本作の撮影の裏話が収められている。それによるとスピルバーグはミュンヘン事件を扱った本から最も信頼出来る1冊を参考に映画を作ることにしたが、闇での報復事件を描くので創作は当然入り込む。娯楽映画であるのでそれは許されるが、全編が創作だとも言える。それに事実を元にするとはいえ、先のドキュメンタリーのように本人や関係者が登場するのとは違い、それなりに有名な俳優が演技するので、どうしても緊迫感が乏しくなる。あってもそれは映画を見る間だけのことで、現実とは乖離している雰囲気が拭い去れない。本作にはミュンヘン事件で死んだ人の本物の写真がTVニュースや新聞記事の引用でわずかに映るが、そっくりさんを使わず、演技力を重視して俳優で殺人を再現するので、殺された選手団たちにしても素朴な市民ではなく戦士に見える。実際の事件を再現し、そこに想像を加えることの難しさがそこにはあるが、それはスマホ時代になって現実の驚くべき映像を見慣れたことによる、「作り事」としての映画の存在の希薄さがある。つまり筆者は本作をほとんど007映画と同じ思いで見たが、そこにスピルバーグの商才があることを感じもする。悲惨な事件を扱いながらも映画で莫大な収入を挙げることを意図する。それは人の死も金のネタにすることで、ユダヤ人の商魂が見え透く思いがするが、それよりも映画界で自分が描かねば他の誰がやるかという思いとスピルバーグ自身のアイデンティティ再確認のためにもユダヤ絡みの問題は避けられないという使命感が強いのだろう。また娯楽映画の形を取りながら戦後のイスラエル・パレスチナ問題を考えるきっかけになってほしいとの思いもあるはずだが、本作はアメリカ在住のユダヤ系の監督による作品であることを忘れてはならない。つまりPLOやアラブ側からはイスラエル側に立ったプロパガンダ作品として見られるだろう。そこは後述するように本作の最後辺りで監督は本音をうまく描き込んで批判を避けているが、監督の考えは本作を見る大多数の人が共有している幸福を基盤にしている。
ミュンヘン・オリンピックで本作が描く事件があったことを筆者は記憶しているが、日本から遠い国での出来事で、またアラブとイスラエル間の摩擦は戦前に歴史をたどる必要もあって、日本では同事件は深く考察されて来なかった気がする。イスラエルやヨルダンは聖書に関係するほどの古い歴史があり、大きな宗教が三つ存在して民族の摩擦問題は数千年の歴史があるが、本作が描く事件に直結する出来事で言えば戦後イスラエル国家が出来たことをひとまずの原点としてよい。ただしその国家の成立の裏には特にイギリスが絡む。そのことを描く歴史映画がないものかと思うが、『アラビアのロレンス』やヘルツォークの『アラビアの女王』はどちらもアラブ国家の樹立にまつわる物語で、イスラエル・パレスチナ問題を扱わない。それでスピルバーグは本作を撮ったとも考えられるが、本作の起点は1972年であって、第1次世界大戦頃のイギリスの採った政策まで遡らない。ただしメイヤー首相を登場させ、また彼女がイスラエル建国の際に尽力したキブツの出身であることに言及するので、イスラエル国が出来た戦後間もない頃までは遡上して事件の経緯を知ることにはなる。話が少々脱線するが、以前『カサブランカ』について感想を書いた時、イングリット・バーグマンの最後の出演作か、彼女がメイヤー首相に扮して主演した作品があることを知った。スウェーデン出身の彼女がなぜメイヤーに関心を持ったのか、あるいは彼女にメイヤー役をやらせようと監督が思ったのか、その理由は知らないが、メイヤーの生涯を描く作であればイスラエル賛歌で、映画製作の資金はアメリカのユダヤ系映画会社が出したかもしれない。バーグマンがその申し出を受けたのは、メイヤーが類稀なリーダーであったことを知り、同じ女性として見上げた存在であることに敬意を表し、それで自身の最後の作品にふさわしいと思ったのではないか。話を戻して本作でのメイヤー役は小柄な女性で、撮影時はそうとう着込んで大柄なメイヤーに似ることを演出した。その効果があって本作では最も印象的な女性となっている。ついでに書いておくと、本作では大人の女性の出演はとても少ない。アヴナーの妻やフランスで謎の集団生活をする一員のシルヴィーを演じるヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、そしてアヴナーを色仕掛けで罠に嵌めようとするオランダの若い女の3人に絞ってよい。他に2名いるが、端役扱いだ。端役はヴァレリアも同じだが、存在感がある。それはスピルバーグが当時の彼女の人気を慮って、別段なくてもいい役柄ではあるが、出演を依頼したためだろう。それにヨーロッパが舞台であるので、アメリカの俳優だけでは役不足だ。それにフランスを描く場面ではフランス語を話す俳優が必要になる。そこでヴァレリアと男優ふたりが選ばれたが、この3人は確かに本作で印象深い。
イスラエル国家の樹立後、同じ土地に住んでいたパレスチナ人は居住地がどんどん狭められて現在に至り、難民問題は今も国際的な問題になっている。またアメリカや日本はパレスチナを国家として認めておらず、本作でもミュンヘン・オリンピックの選手村で殺人事件を起こしたPLOのグループやその指導者のアラブ人を、殺されて当然として観客に印象づけるように描いている。だがそのような紋切り表現では観客は白けるので、監督は本作の主人公の若者の心の変化を通して、単なる復讐物語にせずにもっと人間的な悩みを描く、つまり普遍的な方向に導いているが、その表現が正しいかどうかはイスラエルやアラブの人たちでも意見は分かれるはずだ。結局のところいわば本作はアメリカというユダヤ人にとっては安定した国家に住む監督による平和主義的な傍観的意見の産物と見られやすい。筆者はそのように見たが、それはスピルバーグを責めたいためではない。誰でも自分の幸福を享受する権利はあるし、国家を自己より上の存在と考えるかそうでないかは個人が決めてよい立場を筆者は取る。ただし徴兵制があって国が戦争に巻き込まれる場合、その運命にしたがって戦うのは国民の義務とは思っている。そこを本作はうまく描いている。主人公の料理人で結婚したばかりのアヴナーは父親がメイヤーに仕えていたという設定で、そのこともあってアヴナーはメイヤー首相から、ミュンヘン・オリンピックでのイスラエル人選手団を殺したPLOの黒幕を順次暗殺してほしいと依頼される。それはメイヤーの考えで、イスラエル建国に尽力した彼女にとって、国の存在を脅かす存在は同様の力で向かうべきとの信念があった。アヴナーは依頼を受け入れ、スイスの隠し口座を開設され、国家から莫大な暗殺資金が提供される。それはイスラエルが小国というものの、黒幕ひとり当たり2、30万ドルに上り、当時のレートでざっと1億円要した。そこまでして、また何年にもわたってひとりずつ殺害して行くのだが、トップを消した途端に新たな人物がトップに就き、アヴナーは暗殺に切りがないことを知る。それどころか自分や仲間の情報がアラブ側に洩れ、仲間を次々に失い、自分にも危害が及ぶことが実感出来るようになる。妻をイスラエルからニューヨークに転居させ、そこで子どもが生まれたが、アヴナーに命令を下す上層部はアヴナーの翻意を認めない。そこで本作は終わるので、その後のアヴナーがどうなったかはわからない。先に述べたNHKで放送されたドキュメンタリーでは、スパイ活動に一定の成果を得られたので若者は一般人に戻ったが、番組の結末ではそうでもないことが暗示された。咄嗟の判断で相手を煙に巻くことに何度か成功すると、つまりひとつ間違えば命を失うスリルを味わう生活を長く続けると、一般人の生活には戻れないというのだ。金儲けや女をものにするといったこと以上の快感を知るからだ。
アヴナーには爆に弾製造者、旅券偽造者、殺人後の現場から証拠を消す者など4人の協力者が充てがわれる。そして標的とする人物以外は危害を加えない方針を徹底するが、必ずしもそれはうまく行かない。本作のひとつの見どころは、標的とされたアラブ人を順に殺して行くその手口で、爆弾がその主な手段だが、銃で殺す場面も多い。そのドンパチ場面では必ず血は吹き出るから、そういう場面を見てそれなりにすっきりする人にとっては楽しい映画だ。スパイ映画と戦争映画を足して割ったところに若干のエロを加え、また殺されるアラブ人が欧州に点在しているので、次の標的に移るたびに画面は国柄をがらりと変え、そのこともあって画面の色調が大いに変更されるので、観光映画的な側面もある。パリはエッフェル塔を映すことで観客にその地と伝えられるし、また伝える必要上、同地でのロケはしたが、ローマや他の場所はそのたびにロケするのでは経費が増すので、ひとつの都市で代用した。それはプラハで、そこにはローマ風の街角もアカプルコの風光明媚さもあって、ほとんどの観客はプラハで撮ったとは思わない。またデジタル技術によって本物のホテルのヴェランダに見えながら、実際はセットで撮った場面を合成した場面もあって、メイキング映像からはさまざまな裏話がわかるが、どれも意外というほどではない。70年代の物語ゆえに出演者の衣装はみな当時の流行を反映する必要があり、それは古着を大量にたくわえた衣装デザイナーの出番で、彼女は出演者それぞれにふさわしい身なりを設定した。それは当然のことでさほど驚かない。また明らかに当時を体現するために女優に着せたワンピースの大柄なプリント模様は、それだけが特に印象深く、本作が作り物めいて感じられ、逆効果であるとも思った。つまり衣装が出しゃばり過ぎということだが、衣装係とすれば、アラブ系のそれなりの要職に就く夫の妻となれば高価で目立つ衣服を日常的に着ていたという判断だ。ドキュメンタリーでは不可能なことを映画化する場合、俳優がどこまで普通に生活している人に見えるかという自然な演技が求められるが、政府の命を受けて連続殺人をする5人組をたとえ本物の彼らを起用可能としても、彼らは一般人とはどこか違う目つきやオーラがあるだろう。そう考えると俳優が彼らになり切って演技することは難しいことでありつつも、俳優でしかやりようがない。またスピルバーグは俳優が集まったところの相乗効果を狙ったと語るが、前述のように各俳優はそれぞれそれなりに有名で、別の映画でのイメージが邪魔をするように感じられる。あまり有名でない俳優であれば映画としての面白さは欠けるし、反対に有名俳優ばかりではドキュメンタリー風味は失われる。それゆえアヴナー役は適役で、彼の姿は先に書いたドキュメンタリーにおけるスウェーデンの若者の姿にだぶる。
さてアヴナーがどのようにして殺害すべき標的に関して情報を得たか。それを探っていく間にフランスの謎の人物に出会う。ルイというアヴナーと同世代の男で、また彼の上にはパパと呼ばれる男がいる。アヴナーはルイを通じてやがてパパにも面会するが、パパはフランスの田舎で仲間の家族と一緒に暮らし、多くの子どもたちが駆け回るその住まいは保育園の様相を呈している。つまり和やかで自然に囲まれて生活していて、アヴナーは危険を意識しながらも目隠しされてルイの車でパパの家に連れられて行き、そこで目隠しを外す場面は本作では珍しくも、また唯一の明るい牧歌的な雰囲気に満ち、観客はしばしほっとさせられる。これは本当は誰しもそういう生活を理想としているという意味においてパレスチナの難民が地獄に暮らすとすれば天国の世界だ。そして本作は決してパレスチナの難民を描かず、フランスの田舎での悠々自適のパパ一族を描くことで、平和の尊さを描いていると見てよいが、ところがそのパパの本性はそう単純なものではない。彼もおびただしい殺人に間接的に手を貸し、そのことで生活を営んでいる。これはどのような戦争と無関係の国の人物でも間接的にどこかの国の悲惨な出来事に加担していることをほのめかしている。スピルバーグがそこまで考えてパパやルイを重要な役として設定したかどうかはわからない。本作における影の部分をアヴナーや彼に命令を下す政府の関係者、そして殺されるアラブの黒幕とすれば、光の部分はパパ一族が担ってはいるが、一瞬のうちに立場は逆転してアヴナーやその仲間は輝かしい聖戦の戦士であり、パパは他人の不幸につけ入って荒稼ぎする闇将軍と思うことも出来る。さてパパは自分の出自をアヴナーに語り、戦時中から戦後の体験によっていかなる国家のためにも動かない信念を持って生きていると言う。またアヴナーに情報を提供するのはアヴナーが誰よりも高額の支払いをしてくれるからで、アヴナーの背後に国の姿が見えるとたちまち縁を切ると言い続ける。アヴナーはルイやパパに名乗らず、殺す相手の情報を得るためにその人物名をルイに伝える時、それが何のためかとは言わず、ルイも訊ねない。そういう関係を保ちながらアヴナーは数人の情報を得て殺人に成功するが、やがてパパが自分の名前や写真を持っていることを知る。つまりルイとパパは二重スパイと言ってよく、金になるのであれば誰にでも情報を売ることをアヴナーは知る。アヴナーがパパの家に連れられて行くと、そこにヴァレリア演じるシルヴィーも暮している。彼女はルイの妻かどうかは明らかにされないが、ふたりは久しぶりに会ったようでシルヴィーはルイに頬ずりする。庭で大勢で食事する場面では、パパはアヴナーに十字架を切るお祈りをしないでよいと言う。ユダヤ系であることを知っているのだ。アヴナーがアラブの要人の情報をほしがっているのでそれは当然わかるだろう。
それはともかく、その野外での食事の席で、シルヴィーはパパに向かって「大儲けしているくせに」と皮肉を言う。この言葉は案外重要で、シルヴィーはパパが殺し合いの情報を誰にでも高く売りつけることで生活を保っていることを知っている。シルヴィーのその辛辣な言葉に対してパパは「ミノトールどもめが」と発する。これはルイにも向けた言葉で、パパのこの「ミノタウルス」という言葉が身内に対する愛情の裏返しなのか、それとも本当に何を考えているかわからない怪物的な人物との思いによる皮肉なのか、短い場面ながら含蓄がある。つまりそれほどに謎めいているパパの集団で、そういう連中がフランスのどこかで共同生活を営み、子どもたちが天心爛漫に生きている姿は、繰り返しになるが本作では描かれないパレスチナ難民を想起させる。それは国家とは何かを考えさせ、スピルバーグがパパやその一族を本作で描き込んだことは、理想郷とは何か、それは国家とどうつながるのかつながらないのかという自問があるように思える。もちろんシルヴィーが言うように、その理想郷は金が潤沢にあっての話で、またその金のためには誰がどう死んでもかまわないという、北朝鮮の武器販売と同じ意識が働いていて、その矛盾をシルヴィーはわずか一言のセリフで突いている。もっと言えば、イスラエル・パレスチナ問題はミュンヘン・オリンピックが原点ではなく、もっと昔にたとえばイギリスの政策が重要な鍵を握ったことがあって、ヨーロッパが絡んでいる。その事実の一端をパパの経歴の吐露によってスピルバーグは代用したと考えてもよい。ルイの采配でアヴナーと仲間がギリシアでアジトを構える場面がある。これもとても重要で、そこでわざとかあるいはそうでないかはアヴナーにもわからないが、さびれた同じ一室に別の集団もやって来る。たちまち銃撃戦になりかけるが、お互い名乗って矛を収める。わずかに遅れてやってきた連中はPLOの若者たちで、その頭領とアヴナーが対話する場面がある。そこでアヴナーが発する意見はスピルバーグの思いでもあるだろう。アヴナーはパレスチナの何もない荒れた土地になぜこだわるのかと問う。すると相手は国を持たない民族の悲しみがわかるかと逆に問いかける。もちろんユダヤ人がそのことで長年辛酸をなめ、それで戦後にパレスチナ人が住む土地を買い取ってイスラエルを建国したが、パレスチナ人にすれば長年住んでいるところになぜユダヤ人がやって来て住むのかという理屈で、この問題は解決の糸口がつかめない。アヴナーの考えは、アラブ人はイスラエル人とは違って住むところがたくさんあるということで、イスラエルが現在の土地を所有することはもちろん当然と思っているが、彼が妻をニューヨークに転居させたことは、パレスチナ人のようにはユダヤ人はイスラエルにこだわっていないことを示すだろう。
それはいざとなれば帰る国があるとの思いに裏づけられていて、パレスチナの若者の考えもわかる。彼は銃弾に倒れるが、彼の言葉にしたがえば、何世代でも戦いを続けていつかパレスチナを国家にするとの思いで、自分が死んでも民族の悲願は絶えない。これは永遠に血を見る戦いが続くとの意味で、実際両国は空爆によって毎年大勢の死者を出している。スピルバーグは不毛な土地にこだわる思いはなく、そのことをアヴナーに託したように本作からは受け取られる。それはアヴナーが庭を耕す場面からも暗示される。アヴナーはイスラエルよりもアメリカで暮らすほうが幸福を得られると思っていて、それはスピルバーグの思いでもあるだろう。華僑と似た生き方だ。メイヤー首相のように若い頃にキブツで働いて国を造った人物の偉大な生き方は認めるが、その一方でユダヤ人は世界に散らばって知恵で生き抜いて来た民族で、スピルバーグはアメリカを代表する映画監督になり、その立場でユダヤ問題を娯楽映画に描くこともユダヤ人にとっては大きな使命と考えているのだろう。アラブ人は住むところが多いというアヴナーの言葉はイスラエル人の本音であろうし、パレスチナ難民は他のアラブ諸国が受け入ればいいとの考えだろう。筆者はこの問題に対しての意見を持たない。どちらの言い分にも理があって、歴史的に根深い問題がそう簡単には片づかないことを思う。アラブ諸国の中にもまた問題はあることは誰しも知るが、世界的にイスラム教徒は増加中で、キリスト教徒の数を上回っていると言われる。宗教が絡んで戦争が絶えず、宗教などなくていいではないかと日本では考えがちだが、そう単純な問題では片づかない。とはいえ、人を殺せば自分も殺されることはあたりまえで、妻子を持ったアヴナーが暗殺活動から手を引くとの決断はごくまともだ。そうでなければ殺された仲間と同じ末路をたどる。また充分役割を果たせば、後釜はいくらでもいるだろう。それはギリシアで出会ったPLOの頭領の若者と同じだ。それにしても平和の祭典であるはずのオリンピックでテロ行為が行なわれたことは政治を持ち込んではならないオリンピックに泥を塗った。現在のオリンピックは国の勢力の駆け引きに利用され、もうとっくに平和の意義を見失っているかのようだ。本作では冒頭から最後まで、いくつかの断片に分けて選手村やその後のミュンヘン空港での銃撃戦が再現される。その迫真性の酷さから本作は成人映画指定を受けた。アヴナーがその銃撃を想像しながら妻とセックスする場面はエロスとタナトスが交差し、アヴナーは精神的に辛いにもかかわらず、肉体的快感を覚えているようで解釈に困る。人を殺したことがトラウマになり、妻と純粋にセックスを楽しめる気分を喪失したのだが、個の精神を破壊するほどに殺人は苛酷ということだ。もちろんそれは本作を平和な場所で暮らしながら見る者の意見だ。
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