「
栽植の 手間を楽しむ 人の目に 映るは育ちの 伸びの盛りや」、「気になりつ 縁なきままに 過ごすうち 突如惹き合う 出会いに気づき」、「弁天を 拝み夢見る 晴れ舞台 技芸磨きつ 運を求めつ」、「玉抱く 白蛇の意味 問う童 拝めばよしと ともに柏手」

コロナのオミクロン株を心配するのではなく、寒くて出かけるのが億劫で、今のところ初詣の予定はない。家内は今月9日まで1000円で阪急阪神1日乗車券が販売中で、どこかへ行こうとうるさいので、その期日ぎりぎりに神戸や大阪に出るかもしれない。行きたい場所はないが、なくてもたまには繁華街の空気を吸わねば面白くないという家内の思いはわかる。さて、初詣代わりに縁起のよい神社を今日は紹介するが、その前に昨日書こうと思ってことから始める。昨日の最初の写真の奧に石垣が見える。それは安倍晴明の墓所の北に接する長慶天皇の陵墓だ。その西端は桂川に流れ込む川沿いの道に達し、道路際のその生垣は常にきれいに保たれているので、道を歩けば天皇の陵墓であることは誰にでもわかる。安倍晴明と同天皇との間に関係あるかと思って調べると、同天皇は清明の400年後に生まれたので、清明の墓所が先に建ったはずだ。しかもWIKIPEDIAによれば長慶天皇はわからないことが多く、どこで没したかも明らかでないので墓所は日本各地にたくさんある。それでグーグルのマップでは「嵯峨東陵」と記される。わからないことの多い天皇の陵墓は必要ないように思うが、大正時代に第98代天皇として認められ、陵墓を定める必要が生じた。そこで晩年に住んだとされる天龍寺の塔頭「長慶院」に因んで名前も長慶天皇とされたが、WIKIPEDIAを読んで驚くことしきりだ。わからないことをほとんどこじつけであってもどうにかしようとの考えは代々続く天皇のことであるからだ。その歴史の途中が曖昧ないし不明であれば困る人があるのだろう。いたかどうかも定かでない天皇の陵墓がいわばごくわずかに書かれたものを証拠として陵墓を造ることは、いかに天皇が国家神道の神として崇められた時代があったかを伝える。また一旦そのように陵墓が造られると、たいていの人はそこに天皇の御霊が眠ると思う。現在はそれなりに広大なその陵墓の南に接して安倍晴明の墓所があるのは、清明が長慶天皇を護っているような形に見えるが、長慶天皇の陵墓は清明の墓所を削る形で造られたかもしれない。ここから今日の本題で、去年10月19日に相国寺の承天閣美術館に行った帰りに撮った写真を使う。今出川通りから真っすぐ北に向かって歩くと、以前のアスファルト舗装が石畳に変わっていた。南門をくぐって参道をさらに北に進むと、50メートルほど先の右手に今日の写真の鳥居や社が建つ。背の高い鐘楼のすぐそばで、あまり目立たない。筆者はもちろん昔から気づいていたが、足を止めてまともに見たのはその日が初めてだ。

明治の廃仏棄釈で寺と神社は分離されたので、相国寺に鳥居があるのは珍しいが、小さな社でうるさく言われなかったと想像する。それにこういう小さな神社をどこに移すかとなると、どこかに合祀するにもいい案がなかったのだろう。さりとて取り壊すと祟りがあるかもしれないし、廃仏棄釈はあっても廃神はあり得ない。ともかくこの社は相国寺を南門から訪れる場合は必ず目について意識に留まるが、そこにある経緯をたいていの人は調べないだろう。今日の最初の写真の鳥居のすぐ奥に絵馬が飾れる拝殿があり、その内部に由来を書く木札と、今日の3枚目の写真上の白蛇の絵馬が架けてあった。木札の文章をまとめると、この社は春日造りで弁財天を祀り、棟札から延享4年(1676)9月吉日の建立だ。御苑内久邇宮邸の守護神として奉祀されていたが、明治13年(1880)に久邇宮家が東京に移る際、相国寺の独園禅師は寄進を受けた。そして同18年に移建され、平成19年に京都府指定有形文化財となり、同25年に解体修理された。独園は若冲の『動植綵絵』を明治天皇に献上し、下賜された1万円で相国寺の敷地を買い戻し、現在の姿の基礎を作った。白蛇の絵馬は昭和4年の奉納で、寄進者の名前は写真が不鮮明で読み取れない。弁財天と白蛇は縁が深く、各地に白蛇弁財天が祀られる。上田秋成の『雨月物語』の「蛇性の婬」は「淫」を「婬」とし、女性の淫乱さは蛇のごとしと謳っていて、蛇は女の執念深さの象徴とされることが多い。弁財天は女性で、その肌の白さから白蛇と結びつけられたのだろうが、弁財天に「蛇性の婬」があるとはみなされない。白蛇は縁起がよく、それを祀る商家がある。かなり以前に書いたことがあるが、筆者が昔勤務した染色工房の親会社の庭に大きな楠があって、その根元に白蛇が住むというので社長はそれを大事にしていた。白蛇で絵画の題材になることはよくあって、そういう場合はたとえば伏見人形のように金色の玉を抱いた姿で表現されることが多い。前述の木札には「頭に宇賀神を頂く弁財天で、穀物の神、転じて福の神、芸術の神として広く信仰を集めた。」と書かれ、実物の像を見たいが、相国寺を紹介する本にはその像の写真が掲載されているかもしれない。弁財天は水辺に祀られるのが普通で、御所内の久邇宮家には池があったのだろう。5年前に
御所にある厳島神社を紹介した。それは元は九条家のもので、池に面している。御所内にふたつも弁財天を祀る社は不要ということで、久邇宮家のものは相国寺に話が持ちかけられたか。今日の3枚目の下の写真はこの社のすぐ東側で、小さな祠がいくつか並ぶ。これらも久邇宮邸にあったものかもしれない。奧に鐘楼のスカート状の裾が見え、写真左に西日に照らされる筆者の後ろ姿の影が写り込んでいる。これはたまたまでありながら、光が射していることに気づき、意識して影を収めた。

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