「
球体に 鏡貼りたし 乞う士気の 失敗主 情に溢れし」、「三叉路が 些事のたとえの トリヴィアで 左右いずれに 進みて差なし」、「秋虫の 倫理倫理の うるさきに しとねの扉 閉じてしけ込み」、「道知らず 迷いあぐねて 日が暮れて 眠りの中で 知らぬ道行く」

昨日の投稿『黄昏』がらみで今日は投稿する。まず昨日書かなかったことから。キャリーはチャーリーという人のよいお調子者と同棲する間、趣味で演劇の同好会に入る。これはさりげなく語られるが、キャリーがハーストウッドと駆け落ちしてニューヨークで暮らした後に女優になることの布石になっていて、またキャリーは田舎町からシカゴに出る際に利用した列車で出会ったチャーリーに多くを負っていることになる。それでチャーリーと結婚していたならば、演劇に精を出し、やはり『黄昏』で描かれるように有名女優になったかもしれない。どの道キャリーは頭角を現わし、ハーストウッドとの出会いはキャリーにとって余計なことであったとも言える。布石はもうひとつある。しかもこちらはより大きい。ハーストウッドはオペラ『椿姫』のチケットを2枚持ってチャーリー宅を訪れる。同棲中のふたりにサーヴィスするつもりだが、本心はキャリーを気に入っているからだ。チャーリーは見に行く暇がないので、ハーストウッドにキャリーと一緒に見ればいいと言う。そしてそのとおりになる。舞台を見た後、キャリーはハーストウッドが泣いていたことを言う。これは重要なセリフだ。どの場面でハーストウッドが泣いたかは『椿姫』を知る人であればおおよそわかる。それはともかく、キャリーは泣いているハーストウッドを見ておそらくオペラ以上に心を動かされた。簡単に言えばハーストウッドの純心さを見たのだ。キャリーはハーストウッドに椿姫がなぜ嘘をついたのかと訊ねる。これは椿姫であるヴィオレッタが愛してくれるアルフレードに嘘を言って別れることの不思議を思ったからで、『黄昏』のストーリーと照らすと、ハーストウッドが結婚した息子に会うために港に行くことを契機としてキャリーが別れの手紙をハーストウッドに書くことに対応しているところがある。キャリーはヴィオレッタと同じように身を引くが、キャリーの運命は上昇するのに対し、ハーストウッドは人生の先がない。つまり『黄昏』は『椿姫』と同じように道に外れた者が死ぬことを描きながら、『椿姫』とは逆で、ヴィオレッタに相当するキャリーは有名女優のままだ。だが、昨日書いたように『黄昏』のその後を描くならば、それは『椿姫』と同じ結果になる可能性が大きい。キャリーは時分と年齢が釣り合う若い男のファンに言い寄られるが、その父の反対を受け入れて息子に嘘をつき、そして死んでしまうという筋立てだ。となれば、『黄昏』は『椿姫』の序に相当すると言える。昨日女優は売春婦と同じようなものと書いたが、それはキャリーと『椿姫』のヴィオレッタを思ってのことだ。
ハーストウッドは「フィッツジェラルド」という有名レストランを仕切るが、オーナーは妻の父で、ハーストウッドは妻に頭が上がらない。不満を抱えながら中年になっているところに純朴なキャリーが現われ、たちまちその魅力の虜になる。ところが女の噂は本人が知らないだけで、すぐに広がる。ハーストウッドはチャーリーが1週間アパートを開ける間にキャリーに急接近し、ふたりは毎日ように落ち合う。そして猛烈な求愛によってキャリーはその気になり、チャーリーと同棲したことが間違いであったことをハーストウッドに言う。一方、ハーストウッドとキャリーの仲は妻やその父の知るところとなり、金目当ての若い女との浮気はすぐにやめれば大目に見ると言われながら、ハーストウッドはそれまでの妻と義父の仕打ちに対して思いが爆発する。その前に義父はハーストウッドの異変に気づき、何がほしいのかと訊ねる。社会的地位も家族もあり、何ひとつ不自由はないという義父の思いなのだが、ハーストウッドは「すべてほしい」と苛立って返事する。この言葉はもちろん義父には理解出来ないが、ハーストウッドにすれば純心な愛がほしいという意味だろう。それが妻に求め得ないのであれば、まだ世間をほとんど知らないキャリーということになるが、義父や妻はそういう女は金目当てと断定する。それはさておき、義父は前述の問いに加えてハーストウッドに訊く。「『椿姫』は風刺を描くのか?」 ハーストウッドは否定するが、『黄昏』がらみで言えば、『椿姫』が風刺目的のオペラであると言えなくもない。そういう見方をすることは可能で、それは『黄昏』でも同じだ。ハーストウッドがキャリーを好きになったことですべてを失ったことは倫理を持ち出せば自業自得であって、「この映画を見る中年男は夢にも若い女に惚れ込んで家庭を壊してはならないぞ」という警告、あるいはそう言われなくても最初からハーストウッドの行為がさっぱり理解出来ないと思う「常識」的な男のほうが大多数で、警告にすらなりようがないという意見が多いだろう。ともかく義父は『椿姫』ないしオペラに無関心で、もっぱらポーカーの賭け事に興味のある人物として描かれるのに対し、ハーストウッドは『椿姫』に涙し、そのことが若い女性の気がかりになるほどのロマンティストだ。そのロマンは美しいが、徹底するには多くの犠牲を伴なう。自身の破滅だけならまだしも、他人を巻き込んで不幸にすると言い替えてよい。そして個人のロマンがそれほどの価値があるかどうかだ。風刺劇かとの義父の問い対して否定するハーストウッドは、キャリーとの純粋な愛を希求していた。そのことをキャリーは信じたし、また別れの手紙を書いた後でも彼を待ち続けた。落ちぶれたハーストウッドはその真実の愛が過去のものとなっても幸福で、役目を果たした自分は消え去り、後はキャリーが若い男を見つけることを望んだ。
これは書かなくてもいいが、思い出したので書いておく。今年亡くなった母は死ぬ1年ほど前からしきり10代の頃の思い出を語った。その中には筆者が初めて聞くこともあったが、特に印象に残ったのは、母の父が亡くなった時、若い女性が数人葬儀に訪れ、ひとりは長い髪を切って棺桶に入れたそうだ。祖母は黙ってその様子を見ていたそうだが、祖父は男っぷりがよくて若い女性にもてたのだ。祖父は50少々で死んだが、若い女性となれば20代か。浮気していたのかどうか知らないが、葬儀に訪れて女の命の長い髪を棺桶に入れるというのは、よほど祖父がその女性の面倒を見たからであろう。それは経済的に大いに援助していたことが理由ではないはずだ。祖父は八卦もして、親身になって他人に助言をよくしていたそうで、精神的に救われた若い女性がいたのだろう。祖母が嫉妬に駆られずに黙ってその若い女性の仕草を見ていたというのもなかなか気丈夫だ。その祖母に1,2歳の筆者は抱かれ、おんぶされた記憶がある。しかも大阪に住んでいた筆者の家に祖母が京都から訪れ、筆者を背負って家から30分ほど要する市場に行ったはいいが、帰り道に迷い、戻るのに数時間かかった。祖母はその時の疲れが原因で京都に戻った間もなく死んだ。それはさておき、母に言わせると、祖父は母が女として生まれたことを生涯残念がった。男なら一角の人物になったという思いがあったのだ。母はよく偉そうにする男を罵った。「女と違ってついているものがあるだけで、男は大したことのないのに女に偉そうにする」という激しい言葉を、筆者は子どもの頃に聞いた。よほど侮られたのだろう。20代の学のない母が子ど3人をひとりで育てることは、男の仕事以上に大変なことだ。筆者は母にとっては全くの出来損ないで、男っぷりもなく、あまりに頼りなきままに生きて来たが、祖父の葬儀に若い女性が参列して泣いていたことを聞くと、祖父がどれほど格好いい男として若い女性たちから見られていたのかと、太刀打ち出来ない気がする。『黄昏』に戻る。ハーストウッドは無一文になったが、キャリーが完全に見棄てなかったのは、まだわずかな男の威厳が残っていることを認めたからだ。実際ハーストウッドはキャリーの財布から小銭1枚だけを取って去る。本当はそれも見苦しいと言わねばならないかもしれないが、最期の一夜に愛した女に会って施しを得ることもまた人間的ではないか。それにキャリーは予想どおりに親切であった。そのことを知ればハーストウッドはもう思い残すことはない。方法は間違っていたかもしれないが、ふたりの間には雷に打たれたような真実で唯一の出会いはあったのだ。つまり『黄昏』が風刺映画ではなく、真実の愛を描くロマンだ。それは『椿姫』に共通する。美しいものや事柄は一瞬だ。しかしそれは永遠だ。それゆえに人生は悲しい。
ハーストウッドは『椿姫』を『カミーユ』と言う。カミーユはカミーユ・コロ―やカミーユ・クローデルからわかるよう男女どちらにも使う名前で、「椿」を意味する。日本では椿椿山を思い出すが、この文章を読む人の1割もその名前を知る人はいないので次へ行く。一昨日まで5回にわたって届いたばかりのザッパの『200 MOTELS』について書いた。同名の映画を見ればCDが不要かと言えばそうではない。ザッパはまず音楽を書き、それにふさわしい映像の脚本を書いた。それは唯一の対応を成しているかと言えばそうではない。音楽は音楽のみで楽しめるもので、そうするほうが曲に込めたザッパの意図がよくわかる。その意味で言えば、オペラは実際の舞台を見ることで真髄がわかることは確かとして、作曲家の意図は構成の演出家が割合自由に改変出来るので、オペラで最も重要な要素は音楽ということになる。つまりレコードやCDでよい。音だけでは退屈で、しかも舞台の動きが理解出来ないが、耳だけに頼ることで歌手の心理により深く入ることは可能だ。想像力を働かせるということだ。そのこともあって、たとえば『椿姫』は舞台の様子がYouTubeで見られるはずで、DVDも何種類もあるが、そのどれが一番いいかという楽しみを探る前に、レコードやCDを通じてどの歌手、どの指揮者や楽団のものがいいかを知るのがいいと筆者は考える。もちろんいきなりDVDを見て感動することもいいが、見ることに気を取られ、音楽を聴くことが二の次になりやすい。そのことはたとえば『黄昏』の映画音楽を思えばよい。ほとんど人はそこにどういう音楽が使われているかを記憶しない。目が優先し、耳は疎かになるのだ。それででもないが、筆者は『椿姫』は舞台の様子を見ずにCDだけ聴いて来た。とはいえそれは10回ほどだ。しかもそのCDは20年ほど前に10タイトルほどを格安でまとめ買いしたもので、名盤ではないはずだ。日本盤は出ておらず、解説書はないが、今ではネットでそれは入手出来る。それにCDを買った当時、筆者は図書館で解説書をコピーし、CDに収まるように製本した。それで歌手のセリフの意味はわからくても、各場の出来事はよくわかる。それはさておき、筆者が聴くたびに感動するのは第1幕第5場冒頭のヴィオレッタのアリアだ。これは歌詞の内容を知らずに聴いて涙が溢れて困った。そのように感動させる曲はめったにない。10年に一度くらいだ。意味がわからずに涙が出て来るメロディというのは、ヴェルディの作曲能力の天才ぶりを示す。オペラの筋立てやアリアの歌詞内容を知らずに聴きながら涙が溢れて来る。それと同じことが『黄昏』のハーストウッドがこのオペラをキャリーとともに見た時に起こった。ただし、それはハーストウッドに限らず、このオペラを見る人のほとんどが抱く感動のはずで、そのことによって『椿姫』はオペラの最高傑作になっている。
ヴィオレッタは田舎出の20歳くらい高級娼婦だ。このオペラは『椿姫』と日本では題されるが、ヴェルディでは「道を踏み外した女」という意味の「LA TRAVIATA」にした。これはカトリックの世界で娼婦を主人公にするオペラが不謹慎との謗りを受けることを回避する意味があった。今日の冒頭の句に書いたように、「TRIVIA」という言葉が日本でよく知られる。それが「TRAVIATA」と関係するかと思ったがそうではないらしい。「TRIVIA」の「TRI」は「3」で、「三叉路」が語源だ。では「TRAVIATA」の元になる動詞は何か。これがわからない。「turpitude」(堕落)という言葉があるが、そのイタリア語が「trav……」になるとは思えない。ともかく、主人公の高級娼婦が「道を踏み外した女」であるというタイトルをつけ、また結末は若くして死んでしまうということにしなければ、聖職者は納得しなかったであろう。ハーストウッドの妻の父がこのオペラを風刺かと訊いたのは、原題の意味を知ってのことかしれない。ヴェルディがヴィオレッタの生き方を若い女性が見習うべきものではないという訓戒の意味を込めてこの物語に音楽をつけようとしたのかと言えば、そうではない。全くの反対で、ヴィオレッタの境遇に同情してのことだ。ヴェルディは作曲家以前に人間的に素晴らしかった。以前に何度か書いたが、彼はオペラ歌手が老化して貧困に苦しむ様子を何度も目撃し、私財で彼ら専用の養老院を建てた。そういう芸術家はほかにたとえば前述のコローがいる。彼はドーミエに家を買って与えた。コローのそういう優しさは作品に表われている。彼が描く若い女性像はどれもあまりに素晴らしい。美しさをあますところなく描き、筆者は何時間でもその絵のことを考えられる。そこで連想するのはマネの最晩年の代表作「フォリ・ベルジェールの酒場」に真正面から描かれる若いメイドの上半身だ。その絵を筆者は10代半ばで知り、恋心を抱いた。後年その女性は男性客の求めを時に受け入れる売春婦と同等に見てよいと読んだ。フランスにはそのような田舎出の若い女性が今もいるというが、それは日本でも変わらない。彼女たちは自分を囲ってくれる金持ちの年配者に靡くか、あるいは才能があれば女優や歌手になるが、そうなったところで寄って来る男は色気を目に留めてのことだ。性を売るそういう生き方が嫌であれば田舎に戻って畑を耕すか、『黄昏』のキャリーのように薄暗い工場で終日働かねばならない。ゴッホは画家になった頃、女性も含めて、農民や肉体労働者をモデルに多くの絵を描いた。それらの絵を筆者は最晩年の完成度の高い作品より好むが、貧しい人たちに同情したゴッホの思いに同感出来るからだ。ヴェルディもそうであった。『椿姫』のヴィオレッタは気前のいい男どもを手玉に取って贅沢に暮らしているが、持っていないものがある。
このことは娘にありがちだ。世間を知らないままに体を売り、真の愛を知らない。それをやがて気づけばいいが、たいていはさらに金だけを信ずるようになる。そういうどこにでもある「瓦」の破片のような女はどうでもいいので、たとえばオペラの主人公になり得ない。人々が期待するのは「玉」だ。その名にふさわしい女性は男次第で誰でもなれる。誰もが「玉」である部分を持つのに、「瓦」の考えやふるまいをしがちだ。ヴィオレッタは金が命の生活をしているが、アルフレードと出会い、彼から愛を告白されると初めて不思議な思いになる。ここが重要だ。アルフレードは売春婦でも真実を知っていることを悟ったのだ。先に筆者が聴いて涙を流すアリアがあると書いた。それはアルフレードの愛を知った時のヴィオレッタの戸惑いだ。心の奥底で夢見て来たことが露わになったのだ。体を売りながら彼女は純粋な愛の存在をどこかで信じていた。ヴェルディはそのことをこのオペラで強調したかった。蔑まれる職業であっても「玉」の心を失っていない。これが何より大事だ。あるいはこれ以上大事なものは人間にはない。そのことをハーストウッドはキャリーと『椿姫』を見て改めて感じたに違いない。それはキャリーに伝わった。ところが『椿姫』の結末と同じく、主人公は脆くもこの世を去らねばならない。真実はかくもはかないが、常に存在し、どこかで火花が散って触れ合う相手がいる。キャリーがハーストウッドに訊ねた疑問は、なぜヴィオレッタがアルフレードの愛の思いを知ったにもかかわらず、彼との結婚を拒んだかだ。これはアルフレードの父の反対と説得を受け入れたからだ。享楽的に気儘に暮らすことをヴィオレッタは一方で思いながら、財産を売ってアルフレードと暮らす小さな家を買おうとする。娼婦の世界とは決別してアルフレードと所帯を持つという夢と行動は、彼女の純心さがまだ強かったことを示す。売春婦あるいは女優や歌手になる女性がいつかは自分を真に愛してくれる男と所帯を持ちたいと考えるのは自然であろう。そうではない「瓦」のような女の話はしないでおこう。ヴェルディも同じ考えで、売春婦がひとりの男を愛して生活を一変させようと考え、行動することが正しい。にもかかわらず彼女は死ぬ。それは世間から見れば「道を踏み外した」者の運命だ。では田舎娘が都会に出て優しく言い寄る金持ちの男どもを避け続けることが可能か。その生活は結婚ではなく、金をもらって囲われることだ。そして色香が失せれば男は去るだろう。ヴィオレッタがそこまで考えたかどうかは『椿姫』では描かれないが、自分と同世代の貴族の男性が結婚しようと言うのであれば断る理由はない。ところが当然のごとくアルフレードの父はあまりの身分違いの結婚に反対で、ヴィオレッタは祝福されないのであれば身を引こうと考える。そのほうがアルフレードが幸福になると思うからだ。
ヴィオレッタは縁切りの手紙をアルフレードに書き、それを読んだ彼が父に反発するところで第1幕は終わる。第2幕でヴィオレッタはアルフレードを諦めさせるためにある男爵との仲のよさを見せつける。アルフレードは彼に決闘を申し込み、勝利した後、ヴィオレッタに向かって賭けで買った札束を撒き散らすが、ヴィオレッタは意識を失いながらいつか自分のしたことをアルフレードはわかってくれると思う。第3幕ではヴィオレッタは病に伏す。アルフレードの父はようやく息子とヴィオレッタとの仲を認めるが、時すでに遅しだ。アルフレードがヴィオレッタのもとに駆けつけると、彼女は一時元気を取り戻し、そして結婚式を挙げようと言う。医者が呼びにやられるも、ヴィオレッタはアルフレードの腕の中で息を引き取る。そして「あなたがいつか優しい女性と一緒になる幸福を祈っている」と言って息が途絶える。こういう結末でなければ教会や真面目であると自覚している人は納得しないだろう。このセリフを口にするほどに、ヴィオレッタは享楽的に生きながら真実の愛を希求していた。それはどの時代のどの女性も持っていると信じたいが、時に世間を賑わせる毒女がいる。これを言えば差別になるが、そういう殺人を平気を犯す女には美女はいない。これは美女に生まれなかったことの怨嗟が男憎しの感情に変化しての殺人とも考えられ、またそれが正しいのであればやはり美女をあまりもてはやさないほうがよい。そうすれば整形美女が少なりなり、名古屋の例の醜さの権化のような整形外科医も鳴りを潜める。ところで江戸時代、京都の有名画家であった呉春は遊女を身請けして暮らし、確か1、2年後に彼女は事故で死ぬ。その後再婚しなかったと思うが、遊女を身請けすることは金があれば出来ることで、また呉春は妻にしたい女性がそういう職業でも気にしないほどに彼女は美人でよき人格であったのだろう。『椿姫』はヴェルディの女性関係が反映していると言われる。前述のように彼は社会から疎外されている人に同情的であった。ヴィオレッタを買う男たちは貴族か商売人の金持ちだ。そういう高級娼婦は日本でもおそらくいるのだろう。だが女の性を買う男は貴族でも平民でも同じで、真にその女を思うのであれば『黄昏』のハーストウッドのように身分も財産も妻子も捨てる覚悟を持つべきだろう。それがほとんどの男には出来ないので夜の女がいつの時代でも無数にいる。もちろん結婚せずに享楽的に死ぬまで生きることも自由だが、繰り返すとそこに「ひとりの男への真の愛」があるのかということだ。「瓦」の破片に誰も振り向かないが、「玉」には憧れる。『雨月物語』の「浅茅が宿」の宮木がその意思を固く守ったことは先日書いたが、宮木のように女として道を踏み外さなくても不運に死ぬのであるから、やはり享楽第一と考える娘は今後もなくならない。
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