「
蝕みの 紙の文字欠け 意味おぼろ 脳にシミ増え 意識オンボロ」、「くたびれて 首垂れて乞う コップ水 見ず知らぬ人 日暮れにくれて」、「かわたれに 出会うへたれの かぶき者 たわけたけなわ 黄昏までか」、「鷹狩に 茶の湯 女の 道楽で 先も残るは 女の囲いか」
秀吉が甥の秀次を跡継ぎに命じながら、茶々が妊娠したことから考えを変え、やがて秀次の妻や側室、子どもたちの40名ほどを処刑した。三条大橋のすぐそばに秀次の菩提寺がある。その前を通るたびに近くの鴨川の臨時の刑場で、秀次の切り落とされた首が見つめる形で40名ほどの首が切り落とされたことが頭をよぎる。秀吉のその怒りの理由はわからない。『雨月物語』の「仏法僧」がらみでネットで調べると、秀次の側室を秀吉が妬んだという意見がある。若い美人を先に秀次に奪われ、面白くなかった秀吉が、跡継ぎ問題や他の理由が重なって秀次が目障りになったのだろう。茶々が秀頼を妊娠した時、秀吉は50いくつかで、富士正晴は茶々が浮気して妊娠したと書いている。あり得ないことではない。男女の関係は当人たちにしかわからないことがある。茶々は秀吉の寵愛を引き留め続けるために男児を産む必要があると思っていたであろうし、常に秀吉と茶々が離れない距離にいることは不可能で、茶々が他の男の子を孕む機会はいくらでもあったろう。それが秀吉にわかると即座に殺されたはずで、その危険を思うあまり、逆に大胆な気持ちに駆り立てられる。秀吉は秀次に自分ほどに道楽にのめり込まなければよいと伝え、茶の湯は今のゴルフのように相手と親交を結ぶ手立てになるのでそこそこやるのはよいと言い、鷹狩も女も認めたが、当時でも美しい若い女は世間で評判になるはずで、秀吉が羨む女を秀次が手に入れたことに秀吉が妬んだことは大いにあり得る。そのように世の中を動かす権力者の陰に必ず女がいることは当然かつ仕方なきこととして、秀吉が茶々に浮気され、しかも秀次の側室に横恋慕したことで、せっかくの跡継ぎの秀次を殺し、そのことが原因でやがて自身も滅ぼされることになったのであれば、何ともアホらしい。一方、先日逝去した寂聴は雷に打たれるような恋情に駆り立てられない人生はつまらないと言ったが、子を持つ若い母親であってもそうだとの意味で、ねねも同じ考えであった気がする。人間は動き回るのでいつどこで男女が磁石のように惹き合う出会いがあるかはわからない。結婚していれば理性を働かせるのが常識として、その常識はしばしば破られる。それを雷のせいにすること、つまり正当化するかどうかは「つまらない」かそうでないかの問題と混同してはならないのではないか。男女ともに次々とパートナーを変えるほうが楽しいかとなれば、お互い歳を取って行くので変えることは難しくなる。ところが権力者はそうではない。男の場合、それは経済力だ。それでも金目当てで近寄って来るのではろくな女はいない。
今日は今月16日にNHKで見たアメリカ映画『黄昏』について書く。筆者が1歳であった1952年の公開で、題名は昔知っていたが、見るのは初めてだ。ローレンス・オリヴィエと、『慕情』のヒロインのジェニファー・ジョーンズが主人公で、原題の『CARRIE』はジェニファーが演じる役柄の名前だ。『黄昏』はそのキャリーと出会ったことで落ちぶれて行くローレンス・オリヴィエの立場をたとえる邦題で、本作の男女の主人公のどちらの人生に思い入れるかとなれば、それは本作を見る人の性別と年齢に負う。筆者は本作のローレンス演じるハーストウッドに近い年齢であるので、『黄昏』の題名は身に染みる。ローレンスは1907年、ジェニファーは1919年の生まれで、本作当時45歳と33歳で一回りの年齢差があった。ハーストウッドは結婚する長男がいる設定なのでまあ妥当として。キャリーはミズーリ州のコロンビアという田舎町から列車でシカゴに出て来る次女で、20歳前後の設定だ。つまりふたりは親子ほど年齢が離れている。キャリーは慎ましくてまともな両親のもとで育ち、シカゴで結婚生活を営んでいる長女の家に世話になる。ただし長女の夫は働きが悪く、家計は苦しい。それでキャリーは食事代を支払っている。キャリーは他の大勢の工員と並んでミシンで靴を縫製しているが、作業部屋の灯りはガスの炎で、縫製監督の男はその炎を小さく絞りながら、作業が遅いキャリーを急き立てる。電気の灯りが広く普及する前、2,30年代の物語であることがわかるが、シカゴに自動車は1台も走っておらず、馬車で移動するのでもっと以前の20世紀初頭かもしれない。キャリーは手元が暗いと文句を言いながら、ミシンで指を縫う怪我を負い、その日のうちに解雇される。たちまち姉に支払う食費に困り、シカゴに向かう列車内で知り合った馴れ馴れしい営業マンのチャーリーからもらった名刺を手がかりに訪れる。姉に迷惑をかけられないので、チャーリーを訪れることは仕方がないかどうかだが、職安に出向いて同様の工員になることは出来るはずで、キャリーには軽はずみなところがあるとも言える。チャーリーが列車の中でキャリーに優しく接したのは、キャリーが若い美人であるからだ。そのことをキャリーは知っているので、彼のところに出向きながら、警戒を忘れない。営業マンのチャーリーはキャリーが困窮していることを見とって、10ドル紙幣を1枚手わたす。そして夜に有名なレストラン「フィッツジェラルド」で一緒に食べようと誘う。その後キャリーはひとりで同レストランに出向くが、ドアを間違えて主に男がたむろするバーの中に入る。すると場違いなキャリーを見た男が出て行けと追い払う。その時支配人のハーストウッドがキャリーに近づき、隣りがレストランであることを伝える。バーにいた男もハーストウッドも、キャリーが美人であることに着目したのだ。
キャリーがレストランで待っているとチャーリーがやって来る。ハーストウッドはふたりを特別室に案内し、しかもシャンペンを無料で提供する。チャーリーは同店の常連というほどでもなく、ハーストウッドはキャリーに魅せられたのだ。食事の後、馬車でチャーリーは自分のアパートにキャリーと一緒に戻るが、キャリーは尻軽女と思われたくないのでガードは固い。そのことを知ってチャーリーはまた仕事で旅に出ると嘘を言ってホテルで泊まる。行く当てのないキャリーであるので、やがてふたりはチャーリーのアパートで同棲を始める。アパートで噂が広まり、隣りの子どもは親からキャリーと親しくしてはならないと言われていることをキャリーは知る。結婚していない関係はふしだらと見られたのだ。それでキャリーは結婚してくれとチャーリーに迫る。チャーリーはたまにしろ、高級レストランを利用するほどの経済力はあるが、行く先々で女がいるような素振りで、まだ身を固めたいとは思っていない。キャリーがチャーリーと結婚していればそれなりに幸福な家庭を築いたはずだが、キャリーのほうも心底チャーリーが好きになれないことは、最初の列車での出会いの時の表情からも明らかだ。親切にしてはもらっているが、今ひとつぴんと来ないのだ。ある日チャーリーはさびしがっているキャリーのために仔犬を買った帰り、昼休みの散歩中のハーストウッドと出会い、チャーリーはアパートに彼を誘う。その出会いがなければチャーリーとキャリーは結婚したはずだが、その日ハーストウッドを交えた3人でポーカー遊びをし、後日チャーリーがいない時にハーストウッドはキャリーにカード遊びの本を届けに行く。そこで彼はちょっとした気がある言葉使いをすると、キャリーは機嫌を悪くする。すかさずハーストウッドは「夫人」という言葉を使って失礼を詫びる。この場面はキャリーに隙があることを表わす。男はそういう女に付け込みやすい。またそのことを瞬時に悟ったキャリーが気分を悪くするのは尻軽女と思われたくないので当然だが、一方では最初のほのめかしは断るという恋愛の駆け引きの常套手段でもある。ともかくキャリーとハーストウッドはその時にお互い意識をし始めた。これは結婚していないキャリーにとっては倫理にもとることとは言い切れないが、妻子あるハーストウッドはそうではない。ところが本作ではハーストウッドと妻との間は冷え切っているとの設定だ。それで彼は妻と別れてキャリーと新しい生活を始めたいと思うに至る。キャリーとしては結婚してくれる男が最良で、またチャーリーからはハーストウッドが名士との交際が多い名門の人物であることを教えられている。経済的な面を比較するとハーストウッドがいいに決まっているが、キャリーは陽気なチャーリーとは違ってどこか暗さのあるハーストウッドにより魅せられる。 親子ほど年齢の離れた男性から関係を迫られた場合、たいていの若い女性は嫌悪を示すが、キャリーは田舎出で頼る男が皆無だ。そこに経済的に裕福で愛を囁いてくれる年配の男が現われると、その気になることは珍しくない。今では10代半ばでもわずかな金で股を開く女が無数にいるが、それは本作が描く時代アメリカでも同じはずで、女は金でどうにでもなるという考えが一部しろ常に男女に共有されている。そのことを知ってキャリーは尻軽と思われたくないのだが、現実はチャーリーのアパートに転がり込み、言い寄られるハーストウッドにたちまち靡く。男なしで生きられない女の弱さだ。またキャリーのような美女ならば言い寄る男はいくらでもいる。キャリーがそれを自覚しているかどうかは描かれないが、美貌には気づいていて、工場で働くよりも目立つ仕事に就こうとする。それは舞台女優で、少しは舞台の経験がある彼女はハーストウッドとともに駆け落ちしたニューヨークでやがてオーディションに参加し、端役ながら機会をつかむ。その駆け落ちは偶然による。ハーストウッドは1万ドルをレストランの金庫に収める時、ふとした拍子に扉が閉まって開けることが出来なくなった。早速彼はその金を手にキャリーを訪れるが、彼女はチャーリーからハーストウッドが妻子持ちであることを言われ、ハーストウッドに幻滅していたこともあって、扉を開けない。ハーストウッドはチャーリーが怪我をしたと嘘をついてキャリーと馬車で病院に向かうと言いながら、駅に着き、そこからそのままニューヨークへ行こうと誘う。迷うキャリーは土壇場でハーストウッドの頼みを聴き入れる。チャーリーは戻って来れば結婚すると約束していたのに、それでも彼女はハーストウッドを選んだ。ニューヨークの豪華なアパートで暮らし始めたふたりで、ハーストウッドは大きな帽子のプレゼントを携えて帰宅し、それを被ったキャリーの姿の美しさを前に言葉を失う。筆者はこの場面が最も好きだ。好きな女をきれいに着飾らせて目の当たりにする幸福は想像にあまりある。その美しさのためにハーストウッドは1万ドルを盗んだ。人生の大半を過ごした男が若い女に現を抜かすことは見っともない。その意見が大半を占めることは百も承知でも、好きな女を美しくしてあげたいと思う男心はある。寂聴が言う「雷に打たれる」ような恋心だ。男からそのように尽くされる女は、たとえ男がその金をどこかから奪ったものであっても、またそうであればなおさら、男の思いを喜ぶだろう。間違った愛の形であることはわかっていてもどうしようもない衝動がある。それは若い頃に顕著だが、本作では人生の黄昏に差しかかっている男にそれがあることを描く。破滅的な男はきわめて人間的と言える。真面目に夫としての役割を果たして来たのに、魔が差すことはある。そうではない品行方正な男を寂庵は「つまらない」と思っただろう。
キャリーがプレゼントの大きな帽子を被った直後、訪問者がドアのベルを鳴らす。シカゴではハーストウッドの行為は誰もが知る事件となり、保険屋が奪われた金の残金を回収に来たのだ。ただちに9000数百ドルを返すハーストウッドで、キャリーに破産したことを告げる。健気なキャリーは安アパートに移って出直そうと笑顔で言う。そこからハーストウッドの転落が描かれる。「フィッツジェラルド」で支配人をしていた彼を雇ってくれるレストランはない。金に困って職安に出向き、皿洗いのアルバイトにも就けないありさまだ。一張羅の背広は馬車の泥で汚れ、洗ってアイロンをかけている間に焦がしてしまう。接ぎ当てをすればいいというキャリーの言葉に彼はまっぴらと反抗するが、先立つものが手元にない。そうこうしている時に妻が弁護士を連れて訪れる。てっきり離婚していると思っていたキャリーは妻の来訪に驚き、流産してしまう。また離婚に際しての財産分与について弁護士は2000ドル近くをハーストウッドに支払って示談にするのが最適と助言し、妻はそれを飲んだにもかかわらず、その会話を知らずに戻って来たハーストウッドは離婚してくれるなら金はいらないと言う。彼はキャリーと暮らしながら1000ドル貯めて店を持ちたいと夢を語っていたが、キャリーはその夢がかなうのは彼が80歳になった頃かと現実的なことを言う。そして自分はまだ若いとも言う。この言葉は彼と別れてもやり直しが効くことを匂わせ、ハーストウッドは自分の置かれる立場を確認したであろう。金があってこその若い女との生活で、それがなくなれば彼女の重荷になる。それはハーストウッドの望むところではない。それほどの矜持はまだある。前述のようにキャリーは舞台女優となり、ハーストウッドは彼女に言う。「有名になればそう相応の人間の付き合いが生まれるので、それを大いに楽しめばよい。」キャリーはまだ2行しかセリフがないと言いながら、笑顔で彼と腕を組んでアパートに帰る。ある日新聞でハーストウッドは息子がどこかの令嬢と結婚し、ニューヨークに船で来ることを知る。そしてキャリーに整えてもらった背広姿で港に息子夫婦を出迎えに行くが、多くの記者や妻の父などの歓迎を目の当たりにし、自分がいることを悟られないようにする。今頃どの顔で息子に会えるのかという気持ちを思い知ったのだ。アパートに戻るとキャリーの置手紙がある。「息子さんと一緒に暮らしてください。わたしはあなたにはよくない」と書かれていて、アイロンをかけたYシャツが置かれている。その後キャリーは主役となるほどに有名になるが、ハーストウッドはホームレスになる。体も悪くし、食べる小銭すらない。それで街角に貼ってあるキャリーの写真入りポスターを見て、舞台後のキャリーを楽屋の玄関前の暗がりで待つ。
面白いのはキャリーの舞台の演目で、ポスターには「待っている婦人」とある。その題名は行方が知れないハーストウッドを探しているキャリーとの意味を兼ねている。声をかけられたキャリーは彼に気づき、楽屋に招き入れて食事を用意し、また財布にある以上の金を支配人に借りて来ると言って席を外す。彼女はまたハーストウッドと暮らすつもりなのだ。ハーストウッドは10ドル札をもらってはお釣りがないと言い、キャリーのいない間に財布から小銭1枚をつまみ、沸かしている湯のガス・コックを切った後、またガスを出し、数秒後にまた締めて、扉を開けっ放しにして楽屋を出る。そこで映画は終わる。楽屋には電灯がついていたので、ガス灯から順次切り変わっていた時代を示すだろう。また生ガスを数秒ほど出した行為が何を意味するかはわからない。キャリーはその後必死にハーストウッドを探すとして、彼は一緒に暮らすことを拒むか、病気のためにすぐに死ぬだろう。一時はともに暮らし、世話になった男なので、キャリーは有名になっても彼を捨てるつもりはない。彼女はまだまだ若く、前途洋々だが、ハーストウッドは自分が病持ちの高齢の文無しで、彼女の足手まといになることをよく知っている。世間の常識からすれば、いい歳をした男が地位と財産と妻子を捨てて若い女優の卵に夢中になって破滅したというだけの話で、自業自得の最たるものだ。そういう人生がつまらないのか、それとも常識と道徳にがんじがらめになって生きるほうがつまらないのか、これは誰かに諭されるのではなく、個人が決めることだ。有名になったキャリーが楽屋で化粧しているところにチャーリーが訪れ、ハーストウッドが金を盗んだことを言う。彼は暮らしがさらによくなっていて、キャリーを食事に誘うが、彼女は断る。ごく普通の安定した生活を営み、人並みに優しいチャーリーにキャリーが魅力を感じないことは理解出来る。男女は似た者同士が惹き合う。女優になろうと思う女はハーストウッドのように向こう見ずな男を好きになる。田舎出の娘が数年のうちに見違えるほど洗練された女優になることは珍しいことではない。ただし舞台女優は売春婦と似たような存在で、男とわたり合うことで名を成す。有名になったキャリーには新たな金持ちの贔屓が出来るはずだ。ただしいつまでちやほやされるか。実力次第とは言うものの、美貌は衰える。そうなる前に安定した結婚生活に入れるかどうか。キャリーはチャーリーに結婚を迫り、続いてハーストウッドとの結婚を信じたが、彼が去った後、どういう人生が待っているか。消耗して行く男を目の当たりにしたことでキャリーの演技に磨きがかかるのは間違いがない。雷に打たれるような恋愛がなければつまらないのは確かとして、男のそれは40代までだろう。それはともかく、ローレンス・オリヴィエとジェニファー・ジョーンズの演技には迫真性がある。
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