「
堕落とは 引力ありて 起こること みんな自然と 思えば気楽」、「イカロスの 墜落誰も 気にはせず 神話になりて ああそうかいな」、「戦争の 犠牲となるは 弱き者 女や子ども 老いや貧しき」、「対岸の 火事を眺めて 一眠り 新たな悲惨 ばこばこ跋扈」
先月の終わりにTVで放送された映画について今日は書く。漢字二字の邦題『哀愁』はメロドラマであることを伝え、そういう映画を好まない男性は見なくて済む。原題『WATERLOO BRIDGE』はロンドンのテムズ川に架る橋の名称だ。『ウォータルー橋』という邦題なら映画の内容がよくわからず、日本でのヒットは難しいか。本作の「橋」が映画の物語に大きな意味を担っているかと言えば、それは鑑賞者が自由に考えればいいが、橋はこっちの世界と向こうの世界を分け隔てつつつなげる存在で、そのことを本作に当てはめるとそれなりに読み取れることがある。つまり男と女、金持ちと貧乏、強さと弱さ、幸運と不運、戦争と平和など、意思だけではどうにもならない運が人生を左右する残酷さを本作は描く。筆者は上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」と比較して、またミシュレの『女』を一方で思いながら本作のことを考えた。あるいは考えている。今回本作を初めて見たが、原題は昔からよく知っていた。ウォータルー橋はトラファルガー広場や大英博物館のすぐ近くに位置し、昔ロンドンに行った時、同橋のすぐ北のチャリング・クロス駅でカメラを紛失し、慌てて駅長室に駆け込み、20分ほど待ってカメラが戻って来た経験をした。その日はロンドンを転々とし、橋をいくつか渡った。そのひとつにウォータルー橋があったと思う。それはさておき、本作は1940年のイギリス映画で、第1次世界大戦中の物語だ。ヒロインのヴィヴィアン・リーは本作当時27歳で、前年に代表作の『風と共に去りぬ』に出演した。筆者は同作を三度見たが、彼女の演技の素晴らしさは今もよくわからない。また美女の典型のように言われているが、確かに美しいものの、捉えどころのない美貌と言えばいいか、覚えにくい顔だ。そのことは誰でも思っていたのかもしれない。というのは、本作でヴィヴィアン演じるマイラの恋愛相手役の軍人の大尉ロイが、ウォータルー橋で彼女と出会ってただちにその美しさに魅せられたのはいいが、顔をよく思い出せず、美人かそうでないかもわからず、もう一度顔を確認したいためにマイラが踊る舞台を見に来たと、マイラに打ち明ける場面があるからだ。ヴィヴィアン以外の女優がマイラを演じたとしてもロイのそのセリフはあったはずだが、ヴィヴィアンを念頭に置いたかのようなセリフで、筆者はこうして書いていても彼女の顔をよく思い出せない。顔が整い過ぎて個性がないと言えばいいか、整形手術をしていない女優としては最高級の美しさで、またどこか冷たさもあって狂気を秘めているように感じる。
WIKIPEDIAによれば実際彼女は躁鬱病であったらしく、そのことは本作のマイラの性格に当てはまるようにも感じられる。さて本作の冒頭と最後は第2次世界大戦時の1939年で、彼女の恋愛を回顧するという入れ子状構成となっている。そのため、ロイは冒頭と最後では20数年経った老け役を演じるのに対しマイラは第1次大戦中に死ぬので、ヴィヴィアンは老け役を免れた。今日の最初の写真は冒頭場面の老けたロイと、本編の若きロイを並べたもので、同じ場所で撮影したことは背景からわかるが、橋の鉄組みが下の写真、つまり第1次大戦中にはない。ウォータルー橋は第1次と第2次大戦の間に架け替えられ、鉄骨から鉄筋コンクリート製になった。それが本作では逆になっているかに見える。
1937年に旧橋が撤去されたそうで、1940年製作の本作は旧橋では撮影出来ず、背景に鉄骨の見える上の写真は別の似た橋を使ったことになる。テムズ川では最も美しいとされて来た同橋の撤去には紆余曲折があり、そのことを踏まえると、本作の題名に同橋の名前を使った別の理由が見えそうだ。つまり撤去されたばかりの橋を映画の重要な場所として使うことで、末永く記憶に留めたいという思惑だ。それは筆者の想像に過ぎないが、月並みな邦題「哀愁」に比べて、固有名詞の原題にはそれなりの深い理由があると考えるのが作品に対する接し方であるべきだろう。理解出来ないことを作品のせいにして暴言を吐いて平気な受け手は鑑賞者としてさえも失格で、ましてや研究家になれるはずがない。ともかく、ロイがマイラと出会った20数年前の思い出を同じ橋の同じ場所でビリケン人形を手に回想するという本作は、現実には橋は新しくなっていたことを当時のイギリス人なら誰でも知っていたことで、それを勘案すれば、ロイはマイラの死後に新しい人生を歩んだことの象徴になる。最初の写真に話を戻すと、この上下2枚のロイは橋の上でかつてマイラが所有していたビリケンの小さな人形を手にして過去を思い出す場面で、哀愁を湛えた白髪交じりのロイの顔がやがて同じ構図のまま笑顔の20数歳若いロイに変わり、カメラ・ワークが巧みだ。さて、マイラはロシアのバレエ団でかつて活躍したはずの中年女性マダム・キロワが率いるバレエ団に雇われている。マイラはロイにニジンスキーの踊りについて語る場面があり、ディアギレフ以外のロシアのバレエ団が欧米で人気を博していたことが示唆される。映画の最初、タイトル・ロールでは「白鳥の湖」の有名なメロディが鳴り響き、またそのバレエをマイラを含む20人ほどの女性バレエ団が踊る様子をロイが見る場面がある。そのほかそのメロディを編曲した音楽が随所で使われ、本作の主題曲は「白鳥の湖」と言ってもよい。この通奏低音として使われる「白鳥の湖」は先日取り上げた『リトル・ダンサー』を思い出せる。
同作では11歳の少年ビリーが炭鉱夫になるよりバレエ・ダンサーのほうがいいかなと友人相手につぶやく場面がある。もちろん観客は全員そのとおりと思うが、実態はどうだろう。主役を演じられるのであればいいが、脇役のひとりであれば、さほどの収入でもないはずで、また中年になればもう出番がない。ミュージシャンも同じで、オペラ歌手が老いて仕事を失い、悲惨な生活になることを見かねてヴェルディはそういう人たちのための養老院を自費で建てた。本作ではバレエ団の主宰者であるマダム・キロワは団員の踊りを注視し、よくない箇所は改善を要求する。それは当然だ。そのことを聞き入れたくなければ退団するだけのことで、交代人員はいくらでも補給が出来る。そのような主宰者になれる人はごくわずかで、大多数のダンサーは使い捨てされる。そのことを前提に本作を見る必要がある。もう少し言えば、マイラは類稀な美貌にも恵まれているが、マダム・キロワに嫌われると生活の資を稼ぐ手段をただちに失う。別のバレエ団に入るとしてもすぐにその機会に恵まれることはない。そこに本作の脚本におけるマイラの薄氷を踏むような危うい生活ぶりを前提としているいわば残酷さがある。そのことを『リトル・ダンサー』のビリーに重ねると、やはり彼の父親が当初反対したことはよくわかる。芸術は誰でも進める道ではなく、その道で生涯にわたって食べて行く才能はさらにごくごくわずかだ。また食べられなくなった時、炭鉱夫になれるかと言えば、そう簡単な話でもない。話を戻して、マイラがバレリーナとして集団生活し、また海外にも巡業に行くという旅芸人となっているのは、バレエが好きでその道に進んだからだ。そして先生であった父が死に、自力で食べて行かねばならない境遇になったからでもある。配偶者が見つかって妻として安定した生活を送ることが当時の若い女性の理想であったと思うが、そういう機会が旅するダンサーであればどこで見つかるか。かなり厳しいと言わねばならない。また男が見つかったとして、世間並みの結婚生活に入り、働かなくていいかと言えば、それほどの幸運の女神が微笑むのは稀な機会だろう。偏見で書いているのではない。「白鳥の湖」を踊る20代後半の女性の地位は不安定で、玉の輿に乗れる機会がそうはないのは、百年前も今も変わらないのではないか。ところがマイラはどのような男でもすぐに恋する絶世の美女という設定だ。彼女とロイは空襲警報の鳴り響く夜のウォータルー橋の上でたまたま出会う。慌ただしくふたりは近くの地下鉄の駅にもぐり込んで避難し、その際にマイラは当夜に劇場で公演があることを告げ、お守りのビリケン人形をロイに手渡す。ロイは翌朝に戦地に行かねばならないからだ。その後ふたりが出会わねばもちろん本作はない。ロイはマイラにたちどころに恋をして結婚したいと思う。そして当夜の上官との約束を反故にしてマイラの公演を見に出かける。
マイラは舞台からロイに気づき、喜び、動揺する。公演の後、マイラは舞台仲間の女性と部屋でくつろいでいると、窓の外に雨に打たれながらロイがたたずんでいることに気づき、マイラは大慌てで着替えてロイに会いに外に出る。その慌てて服を着るヴィヴィアンの演技はとても自然かつ健気で、マイラの舞い上がらんばかりの嬉しさをあますところなく演じ、本作におけるヴィヴィアンの最も美しい素直な場面だ。そしてその時がマイラの人生の最大の幸福だ。ところがすぐにマイラはマダム・キロワから睨まれ、ロイと会ってはならないと警告を受ける。男を断って舞台に専念すべしという考えもわかる。どの街でもダンサーは目立ち、言い寄る男が多かったはずで、それで騙され、身を持ち崩した例をマダム・キロワは何度も見て来たのだろう。それに男に言い寄られて気分が浮き立ち、全員の動きが一致しにくくなることはあってはならないからだ。ところが辛辣過ぎるマダム・キロワにマイラの友人のダンサーも反旗を翻し、ふたりはすぐに解雇される。一方ロイはすぐに結婚式を挙げに行こうと言うが、あいにく役所は休みで受け付けてもらえない。ロイは母を紹介するので、母と一緒に暮すようにと言って戦地に赴く。ロイにすればマイラを手放したくないことと、マイラがダンサーを辞めた後、生活に困らないようにとの配慮だ。ロイはスコットランドの名士の家柄で、同郷にはふさわしい結婚相手はいくらでもいる。身寄りもなく、バレエ・ダンサーとして自力で生きているマイラは、家柄では彼女たちとは比較にならない。そもそもロイがマイラの美貌に一瞬に魅せられたとして、即座に結婚を言い出すほどに世間知らずという脚本は理解し難いが、それだけロイが純粋な心根の持ち主で、その点でマイラと響き合ったことはあり得る。ロイは上官の伯父にマイラのことを話すと、伯父は家柄が釣り合わないダンサーのマイラに一瞬呆れるが、ふさわしい家柄の娘と結婚することは必ずしも賛成せず、人間本位で男女は一緒になるべきという本音を漏らす。それもまた家柄のよさだ。そしてマイラもしっかりとした家庭に育ったことは気品から一目瞭然で、そこにロイは魅せられた。さて、マイラはロイの母とレストランで会うことになり、先に行って待っている間に新聞を手に取る。すると兵士死亡欄にロイの名前がある。マイラは目眩を覚え、そこにロイの母親がやって来る。マイラはまともに応対出来ず、悪い印象を与えてしまう。この場面で筆者が呆れるのは、死亡欄を見たマイラが、そのことをすぐに信じ、ロイの母に言わなかったことだ。どうせロイの母は知るはずで、ならばその場で言っていいのではないか。それにロイの死亡は同姓同名の別人の可能性もあり、マイラと母親はその場からすぐに軍部へ駆けつけ、事情を聴くというのが最もあり得るべき行為だろう。
あるいはまだそこまでふたりは親密ではなかったと言えるが、本作で最もまずい筋立ては、その死亡欄を見た直後のマイラの、ロイの母に対する行動だ。ともかく、死亡欄を信じたマイラはその瞬間に精神的に死んだ。ロイに殉死したと言い替えてよい。となれば肉体はもうどうなってもかまわない。それで食べるためにウォータルー橋の上で男に声をかけられることを待つ娼婦になる。この点を筆者は秋成の「浅茅が宿」の宮木と比較する。宮木は勝四郎の妻で、秋成は「烈婦」としている。若くて美人、しっかり者だ。ふたりに子はない。勝四郎は先祖から継いだ畑仕事を好まず、やがて都に出て一旗揚げようと思い、商人と親しくして岐阜の村を出る。宮木は心細くて反対するが、勝四郎は半年ほど後の秋に帰って来ると言うので、宮木は夫の旅の準備をしてやる。勝四郎は京都で儲けたはいいが、戦乱の世で、岐阜に戻る途中で山賊に身ぐるみ剥がされ、また新たに出来た関所が通れず、都に戻る。そして村を出て7年目に荒れた家に帰ると、老いた妻が喜んで迎えてくれるが、一夜明けるとそれが亡霊であったことを知る。宮木は戦乱の中、操を守り、勝四郎が家を出た翌年の8月に死んだ。そのことを文字の読めない、そして村にただひとり残っていた老人から聞く。彼が言うには、宮木は、「玉と砕けても瓦にはならない」という強い意思を持っていた。若くて美しい宮木はただ生きて行くことも大変であったのに、言い寄る男を避け続けた。勝四郎はそれを知ってその後どういう人生を送るか。先日紹介した植田一夫著『雨月物語の研究』によれば、宮木が勝四郎を待ち続けて死んだことを偏執的と捉える意見があるという。もちろん植田はそのことを否定する。村人が次々に村を離れる中、なぜ宮木も命を惜しんでそうしなかったのかという考えが出ることはわかる。戦時中の疎開は常識でもあるからだ。だが宮木に疎開先があったとは限らず、勝四郎から帰って来ると言われると夫婦の巣である家でとにかく待ち続けるしかない。勝四郎が帰宅した時に家が空では、ふたりは永遠の別れになる。そう宮木が考えたからこそ、7年ぶりに勝四郎が帰宅した時、亡霊となって甲斐甲斐しく一夜の世話をした。そのことで宮木は自分が正しかったことをした。ここには夫の言葉をどこまでも信じる妻の姿がある。農作業を厭う勝四郎は駄目亭主と言っていいが、それでも宮木は夫の考えに結局はしたがう。そのことに現代人は抑圧された江戸時代の女性ないし妻の姿を見るだろう。それゆえ偏執的との言葉が出る。ただしそういう健気な妻がいるので男は存分に外に目を向けて働くことが出来る。これは永遠の真実だ。秋成は自分の後年を予期して「浅茅が宿」を書いたのではないかと思わせられるほどに、宮木は秋成の妻に重なるところがある。それゆえ秋成の晩年を知る読者はなおのこと待ち続けた宮木と亡霊の彼女の健気さに涙する。
一方マイラにも健気さはある。ロイが戦死したと早合点した彼女は、そのことを疑ったかどうかは映画では描かれないが、彼女が客を取ったのはウォータルー橋の上やその近くの駅だ。つまりロンドンを離れなかった。復員したロイと会ったのも、復員列車が到着する駅で待っていたからで、そこには女を買う客がいることのほかに、ひょっとすればロイがやって来るかもしれないというかすかな思いがあったはずだ。死んだことは疑わないが、それでも彼の面影を求めるそのマイラの気持ちはよくわかる。彼女の精神は死んだが、一方でロイが生きていればどれほど幸福かと思う気持ちがある。そこに生身のロイが出現し、彼女は一気に蘇るが、肉体の穢れを拭い去ることは出来ない。宮木とは違って烈女ではないということになりそうだが、マイラは自殺するのでやはり宮木と同じく、愛する男に対しての操を守ったと言うべきだろう。とはいえ今ではマイラも偏執的で、娼婦の過去を黙ってロイと結婚すればよかったという意見が多数派であろう。それはともかく、筆者は勝四郎とロイのひとり残された時の気持ちの差を考えてみる。これはロイはマイラが娼婦になったことをどう受け止め得るかということだ。勝四郎よりもロイのほうが絶望に突き落とされたと言ってよい。ロイは母親から聞いて、あるいは自分でもやがてマイラが娼婦になったことを悟る。戦時とはいえ、ほかの仕事はいくらでもあったはずだが、マイラにとってロイがいない人生はもう意味がなかった。それでも自殺はせず、毎夜自分を買ってくれる男を待ち、そういう中で帰還したロイと鉢合わせになる。ロイは結婚するためにすぐにマイラを故郷の自宅に連れて行く。ところがロイの母親と対面した時、マイラは自分が結婚相手としてふさわしくないことを告げる。母親はその意味を即座に察する。ロンドンに舞い戻ったマイラは夜霧で煙るウォータルー橋の上で呆然としながら、やがて軍用のトラックに飛び込む。その時、マイラのそばにはロイから返されたビリケン人形が落ちている場面がある。これは描かれないが、事件後にロイはふたたびそれを手にする。そしてそれを20数年後も持っていることが本作冒頭の第2次大戦中の冒頭場面で示される。そのビリケン人形はロイのお守りとなって彼は戦争を生き抜くだろう。大尉から大佐に昇進した彼がマイラの死後に別の女性と結婚したかどうかとなれば、その結婚が幸福かどうかは別にして、たぶんしたと考えてよい。マイラがロイを死んだと勘違いしたこととは違って、ロイはマイラの死体を見た。そのことで精神的に死を迎えたかとなれば彼は軍人で、やるべき仕事がある。ロイはマイラが娼婦に身を落としたことに自責の思いにかられるかどうか。ロイの演技からは、死んだマイラを哀れに思っていることは確実で、マイラが娼婦として生きても自分のみが真に愛されたことをロイは信じている。
名門の出のロイが娼婦を経験したマイラと結婚することは非現実的だ。階級社会のイギリスでは道徳的にそういう物語は許されず、ロイとマイラはお互い橋の両岸の住民だ。バレエ・ダンサーは同類と一緒になるべきで、そのことをマイラも自覚していたはずだ。彼女はロイの死亡欄によって精神を殺し、生身のロイと再会した時に今度は肉体を破滅させた。この二度の死はあまりに運がなく、美人薄命を物語る。ロイはマイラが自殺したことで彼女の心が自分のみに向けられていたことを知るが、逆に言えば彼女は自殺することでしか、ロイに精神の操を立てることが出来ない。マイラと宮木のどちらが烈婦かと言えば、筆者は宮木と思う。秋成が「浅茅が宿」で描きたかったのは、女性の「玉と砕けても瓦にはならない」という覚悟だ。これは沖縄戦でアメリカ兵から逃れるために崖から飛び降りた女性たちに重なる。そういう女性がいた一方、アメリカ兵を受け入れた女性がはるかに多かった。いつどの国でもそれは同じだ。それゆえ秋成は烈婦の見本として宮木を創造した。男性経験豊富な女性とあえて結婚したい男はあまりいないだろう。少なくても娼婦であることを自慢する女性と結婚したい男にまともな者はいない。ポルノに麻痺した現代人は宮木を嘲笑するかもしれず、勝四郎をさっさと捨てて力のある山賊の妾になったほうが贅沢な暮らしが出来るのにと思うかもしれない。そういう「瓦」のごとき話はそれこそ無数にあって、長く残る物語になり得ない。秋成は「浅茅が宿」で「玉」の女性を描きたかった。勝四郎はひどい男かもしれないが、暮らしを好転させるために都に出るという思いはわかる。ところが不運にも戦乱が続いた。本作のロイも同じで、戦争のさ中に出会ったマイラと、結局戦争が原因で死別した。ロイと結婚していれば、ロイの死亡欄を見ても娼婦にならなかったであろう。本作は結婚を重視している。マイラとロイは宮木と勝四郎のように夫婦ではなかったので、マイラには娼婦になる自暴自棄も選択肢としてあり得た。それほどに結婚、夫婦という概念は聖なるものだ。同棲であればお互い遠慮もあり、また束縛しない自由もある。そういう関係では「玉」は描きにくい。あるいは不可能だ。もっと言えば、長年同棲していて結婚を言い出さない男にろくな者はおらず、そういう男を許している女も同類で、どこにでも転がっている「瓦」に過ぎない。結婚していても「瓦」である夫婦も多いが、日々の暮らしでお互い磨き合って意識せずに「玉」になることはもっと多い。ロイの死亡欄を見た後のマイラが、たとえばミシン工となって糊口をしのぎ、その後ロイと再会すればめでたく結婚出来たが、そういう幸福な話を人々は好まない。そのことは秋成も書いている。典型として残る話は必ず不幸な内容だ。ゴッホもそうで、無名で夭逝して後の評価がある。もちろん立派な作品を残すことが前提だ。
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