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●「交差点 歩道に花壇 珍しや 菊に聞きたし 誰と話した」
よりの 花を見せたき 世話人は 代が変われば 花も一変」、「信号を 待ちつ望むは 花売り屋 花壇よけれど 花買うもよし」、「交差点 人も車も 忙しく ここだけ花の 咲く土ありて」、「いつの間に 花の名所の 交差点 西院(さい)に似合わず ことさら目立ち」



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先月6日、ザッパロウィンの会場に向かう途中、時計の電池を買うために西院に立ち寄った。その交差点の北東角に灌木の植え込みが昔からあり、それがいつの間にか花壇になった。10年ほど前かと思う。紅白の薔薇が咲いていた記憶があるが、去年は確か白い菊が咲いていて、えらく場違いな花があると気になった。地元の花好きが許可を得て現場を花壇として管理しているようで、それはすぐ際の高山寺の檀家かもしれない。西院交差点の北東角のみに花壇があるからだ。そこは寺の境内か、以前はそうであった可能性がある。また寺の関係者が管理しているのであれば、薔薇よりも菊を選ぶのは納得出来る。薔薇はかなり大きく育っていた記憶があるが、それが一斉に枯れたはずはなく、菊がよいと判断されたのではないか。ただしそうなれば春はどうするかの問題が浮上するが、春は花が豊富で、薔薇以外の丈夫な草花を植えるのだろう。今日の最初の写真は先月6日、2枚目は22日、3、4枚目が今月6日で、12月に入って撤去されたのだろう。これは別の話だが、10月上旬「風風の湯」の常連Fさんから西院交差点のビルにスシローが出来ていて、そこで食べたことを聞いた。筆者はコロナ禍が始まって以降、ほとんど市バスに乗らず、同店の存在を知らなかったが、10月19日に家内と市バスの1日乗車券を買って出かけた際、そこで昼を食べた。その時に交差点北東角に菊の花があったかどうか覚えていない。あれば写真を撮ったはずで、たぶん思うほど大きく育っていなかったと思う。それで11月6日に撮り、また菊の全景を収めると必然的にスシローの円形のロゴマークが背景に含まれ、ブログ用にトリミングする時にもそのマークを省かないようにした。さて、10月末に神戸の相楽園で菊花展を見た時、上田秋成の「菊花の約」を今年は読んでいないことを思った。それででもないが、その小説のことが気になり、秋成が書く「浅薄な人」が誰を指すのかという議論があることを知った。秋成は『雨月物語』の最後に「貧福論」を書いたが、金運のない人で、最晩年は極貧であった。それででもないが、全国に三千人の弟子を抱えるとされていた本居宣長と古事記についての論争を仕掛けた際、宣長を金儲け主義の乞食(古事記に語呂合わせ)と揶揄したと想像するが、「菊花の約」の左門に秋成は幾分自分の姿を重ねたのではないか。今もそうだが、学問で食べて行くことは大変で、大学の教授になっても収入は知れている。そうではない在野の学者は芸能人の真似をしてTVで名と顔を売ることが流行っているが、まあ金儲け主義のろくでもない連中が目立つ。
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 谷崎潤一郎は住んだ家からは経済的に大いに恵まれていたことがわかる。秋成は小説を書いても金になる時代に生まれておらず、その意味では損をしたと言っていいが、秋成の研究者ほどに谷崎の文学を今後も研究する人がたくさん出続けるかどうかとなれば、秋成の名声のほうがより強く今後も輝くと思える。これは作家がいくら金を儲けたかどうかに没後の名声は関係がないことを意味し、その最たる例がゴッホだ。それはいいとして、『雨月物語』は映画化された際、第三篇の夫婦を描く「浅茅が宿」が選ばれた。オムニバス形式を採用すれば「菊花の約」を描くことも出来たはずなのに、やはり男色を思わせる関係が多くの人が見る映画ではあまりふさわしくないと考えられたのではないか。ここからは昨日の続きとしての本論。病から元気を取り戻した赤穴は用事を果たすために出雲に行くことにし、左門に菊の重陽には帰って来ると言う。赤穴に家族はなく、加古川に戻って来れば左門を弟、左門の母を自分の母と思って、三人で暮らすとも言うが、出雲で丹治に捕らえられる。丹治は以前近江で赤穴とともに同じ主君に仕えていたのが、見限って出雲の尼子に鞍替えした。「二君にまみえず」は中国の春秋戦国時代の書にあって、そのことが日本でも武士の美徳とされて来たし、一般人の暮らしにも今なおその考えは強固にあると言ってよい。蛇足ながら書いておくと、前述のFさんは、よほど才能があって会社を転々とする人以外は、みな使いものにならないガラクタであると言う。それは学校を出て会社に入り、定年まで勤め上げることが普通であり、美しいとされた時代の考えであることをFさんはよく自覚しつつ、なおそのように言うのは、入社して3年以内で辞める人たちが非正規雇用になる昨今の若者を見てのことだ。筆者は3年きっかりで最初に入社した設計コンサルタント会社を辞めて京都に出て友禅の師に就いたが、その師に2年学んで別の工房に入った。その時に師から言われたのは、3年で辞めるような人間は業界では蔑視されるとの警告であった。とはいえ、その師から去っての筆者は猛烈に独学し、さまざまな公募展で受賞もし、人脈を広げた。今にして思えば師は創作者ではなく、たまに作る作品が受賞することもなかった。筆者はその後、「大山さんの師は誰か」と何度も訊かれたことがあるが、師との別れ際、師は「わたしは教えたつもりはないので、今後一切名前を出さないでほしい」と言われたのでそれを守ったが、たいていの人は筆者が人間国宝に学んだと思っていた。それほどに素晴らしい技術を持っているという意味からだ。とはいえその技術は独学で手にしたものだ。何が言いたいかと言えば、「二君にまみえず」は美徳なようだが、最初の君がたいした存在でなければ見限ること もよしということだ。すべての主君、師が素晴らしいとは限らない。
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 丹治と赤穴のどちらが現実的かと言えば、現代でも丹治がそうだ。仕える主君を変えてもそれは人間として生き延びて行くには必要なことだと擁護する意見が多いだろうし、筆者もそう思う。秋成がその点をどう思っていたかは「菊花の約」の文章だけではわからないが、赤穴に肩入れしていると解釈出来るところ、「二君にまみえず」を貫くことが大事と思っていたと解釈してよいだろう。一方、筆者がよくわからないのは左門の母親が孟子の母親と似ていることだ。自分は機織りをして息子を養い、息子は金銭のことを考えずに学問に精を出している。ところが出世の機会はない。その点が孟子とは大違いだ。左門は勉強だけが出来る世間知らずで、母は赤穴に息子を導いてほしいと思うに至る。路上に倒れていた病の赤穴を助け、世話したことで左門と母は以前とは違う人生の明かりを見つけた。その明かりとなった赤穴が実のところ左門とその母には疫病神であったと読み解く人がある。貧しくながらも平穏無事に生きていた母子が、赤穴の登場によって半年後には別れなければならないからだ。あるいは秋成は書いていないが、左門は出雲から戻り、ふたたび母と暮らして学問に生きるかもしれず、またその時には赤穴との縁によって心境が変わり、出世の糸口をつかむことになっているかもしれない。そこは読者の想像に任されているが、赤穴の登場が母子の暮らしに波乱を及ぼし、そのことで左門の生き方が変化したことは間違いがなく、そこがこの小説の最も重要なところではないか。孟子に話を戻すと、当時の学者は自分を高く買ってくれる国に自由に移動した。孟子から見て、「この主君は頭が悪いな」と思えばへりくだる必要はなく、さっさと別の国に売り込みに行く。これはドライなことか。今でも才能のある者は、自分を必要としてくれる者の中で最も大物と組むことを求めるだろう。「人のよさ」は言い換えれば「アホ」で、せっかくの稀な才能が組む相手が小粒であれば開花せずに終わる。孟子が名を遺したのは、その言葉と行動が国を統率しようという大物を説得するほどに筋が通っていたからだ。ところがどのような名声も時代とともに変わる。孟子の名が没後すぐから今に至るまで大きいことはなかった。それはさておき、孟子は「二君にまみえず」とは思っておらず、つまらない君主のもとからはさっさと去ろうとした。「つまらない」は「浅薄」ということだ。そこで「菊花の約」の最初と最後に秋成が書く「浅薄な人」がまた問題となる。左門を追って討たせなかった尼子はなかなかの大物と言ってよい。となれば丹治が仕える主君を変えたのももっともという見方が出来るが、赤穴から見ればそうではなく、秋成もそのように考えたと思える。兵法に通じていた赤穴は、尼子にとってもほしい人材であったろう。ところが寝返らないとなれば、牢屋に入れるしかなく、我を通せばいずれ殺すしかない。
●「交差点 歩道に花壇 珍しや 菊に聞きたし 誰と話した」_d0053294_13442267.jpg この小説は要点を書くだけで、行間を読者が想像するところに楽しみが大いにある。長編が書けるほどであるのに、文字数を極力減らし、わずかな言葉で匂わせるのだが、そのために正反対の読み解きを許してしまうとも言える。それに中国の小説を改変しているので、その原作とどう違うかという点を吟味する必要がある。そこにひとつの高い敷居があるのは、たとえば左門の母を孟子の母になぞらえていることで、2000年も前の中国における儒学の考えと江戸時代の一般人における儒学思想との差も知る必要がある。ところが儒学者でない限りはそういうことはどうでもよく、時代が変わっても変わることのない人間性という観点で読めば充分という考えも正しい。その読み方にしたがえば、赤穴と左門のふたりの約束といういわば個人的な小さな問題に限定出来る。それゆえふたりは同性愛の関係にあったと見る意見が出て来るが、そうであってもなかっても赤穴は自殺し、亡霊となって左門との約束を果たし、その亡霊の赤穴に感激して左門は赤穴を牢屋に入れた丹治を討ちに行った。それだけのことで、左門や赤穴が尼子を討つべきといった意見は信義を拡大解釈した的外れだ。赤穴が浅薄であれば、重陽の節句には必ず戻るという約束をしなかったし、しても守らなかった。守ったことは浅薄ではないということで、秋成が指す浅薄な人は赤穴と左門のふたりをあまりに人がよい、つまり世間知らずのアホと嘲笑する者だ。命を賭けることは今の世の中ではまずない。政治家は平気で嘘をつくやくざ者ばかりが目立ち、次に芸能人や有名人を目指す者が続く。TVもネットも醜悪な人物の舞台で、赤穴や左門のような人間は住まず、住めない。話を戻すと、赤穴と左門は同性愛の関係になかったと筆者は考える。女と男の恋愛物語ならいつの世でも腐るほどあるが、男同士の友愛を描くことは少ない。男にとって女は割合どうでもいい存在で、女は平気で男を次々に変え、信用ならないところがある。そういう考えを持つ男は同じ考えの男とウマが合い、赤穴と左門がそういう関係であったと見てよい。それは封建時代のことで、女が学問で生きることが許されていなかったからでもある。何が言いたいかと言えば、「菊花の約」は男と女とでは物語が構成不可能であることだ。男が命を捧げてもいいと思える男に出会えると考えることが、同性愛者ならではの愛かどうか、筆者にはわからないが、約束をどんなことがあっても守りたい相手がいるとすれば、女ではなく男でしかあり得ない気はしている。女は基本的に浅薄な人物が大半と思うからだ。たいていの女は浅薄な男を格好いいと思い、あるいは心底そう思い込むように出来ている。その点、秋成の妻はさすが秋成にふさわしい人物であったに違いない。長くなるので明日も「菊花の約」がらみで書く。菊の写真がまだあるからだ。
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by uuuzen | 2021-12-07 23:59 | ●新・嵐山だより
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