副題は「ユーモアと風刺のキャラクター」。これは筆者が大好きなものだ。この展覧会のポスターを2月18日に伊丹市立美術館で見たことは前に書いた。今月4日から始まり、すぐに行くつもりが21日になった。
大津市歴史博物館は三井寺の隣にある。京都からは京阪で乗り継いでさほど時間はかからない。だが、大阪より近いのになぜか滋賀は遠い気がする。東山を越える必要があり、また京都より落ち着いて人が少ない土地なので、大阪のやかましいところで生まれ育った筆者は何となく足が向かない。今回も電車を乗り継いで行くのが億劫で、最初から息子の車で行くつもりでいた。百貨店で前売り券を早い目に買って用意していたところ、ある画廊で招待券を1枚もらったので、これで家族分が揃ってみんなで車で出かけた。この博物館には10年ほど前に『大北斎展』に行ったきりだ。その時は小学生であった息子とふたりで訪れ、展覧会を見た後に三井寺で大きな鐘をついた。桜が咲く直前だったと思う。滋賀もいいところがたくさんあってまだ古い家並があちこちに見られるから、むしろ京都より江戸時代の情緒が濃い。そんな大津に「大津絵」という民画があることを本格的に知ったのは30数年前に買った柳宗悦の本によってだ。この本は今母親の家に置いてあるが、今回同じ本が展示されているのを見かけた。大津絵展はめったに開催されないものであるだけに図録が楽しみで、館内のレストランで昼食を取った後、筆者だけすぐに図録売場に行って内容を確認した。1500円と安いのはいいが、版形がAサイズではなくB5の小型であるのが物足りない。そして、図録を買うからと会場でのメモは一切しなかったが、これが間違いであった。図録には全く紹介されていない展示があったのだ。それは柳の大津絵研究を手助けした大津在住のある人物と柳との交流のことや、大津絵を題材にした玩具など、会場の最後の部屋の半分程度の展示が省かれている。ほかには現在における大津絵の図像の使われ方や学校における伝承などもなく、それらは穴埋め的素材とみなしてよいとの理由で省略されたのであろう。だが、ただの大津絵の図版集ではなく、現在の大津色を発揮するには、そうした雑多に思える部分を含む方がよい。そうすれば今も大津絵が民間に生きている感じがするし、他府県の人がこの図録を見た場合に郷土色を強く感じて懐かしさも覚えるだろう。
柳が大津絵を紹介する前から大津絵はそれなりに知られていたし、今回の最後の部屋での展示「大津絵の展開-絵変わり大津絵の流行-」でも、18世紀前半以降の絵師や画僧たちが描く大津絵がたくさん展示され、特に文化人の間では認識が少なくなかったことがわかる。このコーナーだけでも独立してひとつの展覧会を開催してよいほど充実していたが、作品数は図録によると全部で45点で大きな作品が目立ち、もっと数があった気にさせられる。そうした大きなサイズの作品も図録ではごく小さく印刷されていので、あまりに迫力に欠け、やはり内容が軽く作られた図録の気分が拭えない。だが、昔から描き継がれている無名の人々の手になる大津絵は元来サイズは小さい。それは量産が前提であるため、図柄の一部を版刷りとして描く手間を省いたり、絵具は安価なものを数色に限り、しかも持ち運びに邪魔にならない大きさと軽さが意図されて、土産品としてふさわしいものであった。画題は100以上が確認されるが、当初は掛軸の形になっていて、その形式を一応守ったようにすべてを描いてある。つまり、本当の掛軸のように本紙を別の額縁の役割をする布や紙で囲って裏打ちで一体化するのではなく、縦長に2、3枚を継いだ1枚の紙にそのまま掛軸に見えるように描く。最も古い時期の大津絵がどの程度伝わっているのか知らないが、消耗品であるために大切に保管されなかったし、あっても保存が悪くなっている場合が大半であろう。また、描いた人物の落款は当然ないため、いつ描かれたかの厳密な時期の特定は不可能だ。展示の最初のコーナーは「仏画」で、そこには「17世紀前半から18世紀後半頃までの制作と推定される」とある。となると江戸時代に入って間もない頃のものが最古のものとなるが、これは当然だろう。東海道を旅人が往来して土産のひとつでも買って帰ろうとする時期に重なっているはずであるからだ。次に大津絵はどこで描かれて販売されていただが、これは現在の大津市中心部ではない。京都から大津まで車で走る時、逢坂越えという両脇が狭まった山間部を抜けるが、広々とした大津市内に入る直前に大谷という地区がある。ここは江戸時代の東海道筋で、針や算盤、そして仏画などを商う店が立ち並んでいたことがあちこちの文献に見える。この「仏画」が大津絵の元祖だ。それが後に画題を増やし、店もあちこちに出来て展開して行った。現在の大谷にはそうした店は皆無になっているが、それでも木造の古い住居がまだ多いので、想像を逞しくすれば江戸時代の様子を思い描くことは困難ではない。京都から大津までは高速道路や京阪電車、それに国道1号線と3つの素早い手段があり、もはや誰も歩いて大谷を通り過ぎない。そのために大津絵の需要もなくなったが、この遺産を何らかの形で活用して町起こし的なものとして使えないかと考えることは今後も続くだろう。それはそれでとても意義のあることではないかと思う。
さて、最初のコーナー「仏画」のそれぞれの絵は国宝の『絵因果経』における絵のように味わい深い。庶民が普段の礼拝用に使用したものであるので、素朴で慎ましやかなものに過ぎないし、今でも同じものをそっくり模倣して量産することは簡単なことだが、年月を経た古びた味わいまでは再現しにくい。またそこまでして模倣する意味もないだろう。「阿弥陀三尊来迎」は阿弥陀仏の頭部から八方に放射される3本線の光の描写が特徴的で、両脇の雲に乗る侍仏の表情なども軽快で面白い。金箔のように見える部分は真鍮を使用しているところも安価本位をよく示す。「十三仏」は最上段中央に一仏、その下に4段で三仏が並び、たくさん描く必要上から型で捺して描いてしまえる部分は極力そうして作られている。これもまた手抜きではあるが、その方が整然として見えるし、鎌倉時代にはすでにあったと思うが、版使用の多仏表現の伝統を踏襲しているとも言える。「大日如来」「菩薩」「愛染明王」といった画題は予想されるもので別に意外ではないが、「位牌」をふたつ、あるいはひとつだけ描いたものは貧しい民衆の姿を連想させて目を釘づけにさせる。実物の位牌は高価であるから、このような紙に位牌の形を描いたものを買い、位牌の空白部分に戒名を書き入れたのだが、そうした実物を見ると、他の大津絵のように美術品ではなく、何だか普通に飾っておけない雰囲気が強く、見ていてあまりいい気分ではない。「弘法大師」「法然上人・善導大師」「天神」といったように、あってしかるべきな画題が続き、最後に「青面金剛」がたくさん並んでいた。これは大津絵仏画の中で最も多く作品が残っている画題だが、病魔や悪鬼を払う神が江戸時代には庚申講の本尊とされたことによる。青面金剛仏は本来は複雑な姿だが、大津絵特有の省略が行き届き、厳めしい顔も時としてユーモラスになっている。また、中央に描かれる緑色の体の金剛仏の周囲に猿や鶏、日月などが描かれ、全体に賑やかなのもよい。
広い部屋を3つ使用してのたくさんの展示で、しかも壁面だけではなく、部屋の真ん中も使っているため、どういう順序で見て行けばいいのか少し迷うが、図録にしたがうと次は「世俗画-初期・前期-」になる。ここでは17世紀後半から18世紀前半の作品が展示される。初期の若衆や美人たちは肉筆浮世絵からの影響が強く、やがて大津絵独自の画題として鬼や吉祥の神が登場し、これが面白いということで文化人の目にとまって俳諧や狂歌に詠まれることにもなった。前者の代表は「藤娘」「鷹匠」「槍持奴」で、誰もがどこかで見たことがあるだろう。後者は「鬼の念仏」「鬼の三味線弾き」「雷公」「鬼の行水」などで、これも大津絵の代名詞になっている画題だ。「世俗画-中期-」は、風刺や滑稽味が増した時期で、18世紀半ば前後から末期までだ。画題に変化はあまりないが、表現が違って来ていて、たとえば「藤娘」は顔を左ではなく右に向けるようになる。だが、よほど詳しい人でなければ描写の微妙な差はわからず、見分けがつかない。「世俗画-後期-」では19世紀初期のものが展示されるが、相変わらず同じ図像を同じ構図であるのに、手間をより省いたために明らかに雑になっているのがわかる。これは大津絵が実用的な護符となり、鑑賞性がうすれたためかとされる。紙を2枚継いだものは「大津絵十種」として画題が限定して制作されたこともその理由だ。「大津絵十種」は「外法の梯子剃り」「雷公」「鷹匠」「藤娘」「座頭」「鬼の念仏」「瓢箪鯰」「槍持奴」「長刀弁慶」「矢の根五郎」で、これらはみな特定の効用が付与された。たとえば「外法の梯子剃り」は「長寿を保ち、願い事が叶う」、「雷公」は「雷除け」、「座頭」は「倒れないように」、「鬼の念仏」は「子どもの夜泣き止めに効果」といった具合だ。次のセクションは「新様二枚継-関泉園とその周辺-」で、これは19世紀に登場した関泉園という新しい大津絵の店による2枚継ぎの大津絵十種で、「淡白で愛らしい」表現に特徴があるとされる。これも専門家でなければ判断は難しいかもしれない。次は「先行一枚版」で、半紙1枚に描かれたものだ。軸装にしたり屏風へ貼りつける以外に、手元の画帖に貼りつけての鑑賞を可能にした。大津絵と心学の教訓を説いた道歌との結びつきが密接になって登場したもので、18世紀にはすでにあった。次のコーナー「一枚版全盛期」ではさらにこの1枚版の多様性が示される。2枚版では廃れた画題が復興されたりするなど、珍しい画題も混じる。
最後の部屋の半分は「大津絵の展開-絵変わり大津絵の流行-」で、絵だけではなく、陶板や木彫りも展示される。無名の絵師が描く大津絵とは違って、それを手本に名のある絵師が描くのであるから、大津絵の画題の面白さと絵師の才能が混じったものになる。応挙や池大雅の作品から始まり、溪仙に至るまでのさまざまな画家の作品が展示される。たとえば鉄斎など、こうした大津絵を題材にする作品が多少あることは知っていたが、ここまで多くの画家が描いていることを初めて知った。鉄斎は特に多く、6点が出ていたが、そのうちの1点は「擬大津絵小帖」と題して全20点から成り、鉄斎がいかに大津絵を愛好していたかがよくわかる。次に多いのが竹内栖鳳で、4点あった。「京都画壇寄合大津絵屏風」は凄味のあるほど大御所の作品が貼られた6曲1双の屏風で、鉄斎、栖鳳、橋本関雪、竹内栖鳳、幸野楳嶺、堂本印象、木島桜谷、西村五雲、山元春挙、土田麥僊、菊池契月といった名前を順に見て行くだけで胸が躍る。この屏風がどういう経緯で実現したのか知らないが、ある金持ちが同じ紙のサイズで1枚ずつ画家のもとに持参して注文して描いてもらったものかもしれない。冨田溪仙も4点展示されていたが、筆者にとってはこのコーナーでは最も圧巻であった。「七種大津絵図」(1917年)は代表的な大津絵の7画題をひとつの縦長の掛軸に収めて描いたもので、その賑やかさは溪仙好みをよく表現している。また「大津絵画巻」は京都市美術館所蔵の巻物だが、大津絵の図像に囚われず、その画題を自在に変容した内容で、独特の溪仙の書と相まって忘れ難い印象を残す。会場ではさらに「浮世又平伝説と浄瑠璃・歌舞伎・舞踊」として、北斎や広重、国芳などの浮世絵師たちが大津絵を描き込んだ作品の展示や文献紹介もあって、現時点での究極的な大津絵となっている。今後さらに研究が進めばまた大津絵展が開催されるであろうが、それは10年単位での先のことにあるであろう。大津絵に関する資料は決して多くないので、今回の図録はかなり貴重なものになるだろう。日本の民画として大津絵は代表的な位置にあり、もっと広く認知されてよい。それがあまり人の訪れない大津歴史博物館でのみの展覧であるのはもったいない。個人蔵主体で、多くの所蔵家の協力があって実現した展覧会であるだけに、全点は無理でも日本各地に巡回しないものかと思う。