人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『リトル・ダンサー』
抱え 出番待ちつつ 胎児知る 伸びた後には 縮むほかなし」、「これだけと 言われて悟る 人の世や 限りの有無を 幼子も知る」、「味気なき 一時あれば 思うべし これもあるのが 生きることとぞ」、「遺伝子が 揉まれ揉まれて 目指す先 遺伝子知らず 神も知らぬや」



●『リトル・ダンサー』_d0053294_22321431.jpg
今日は1週間ほど前にTVで放送された映画『リトル・ダンサー』について書く。これを映画館で初めて見たのは2001年10月30日、祇園会館であった。ちょうど20年前になる。製作は前年で、2番館として有名であった祇園会館ではヒット作品ということで上映を決めたのだろう。とても面白く、早速家内の妹の娘がバレエを習っていたので、彼女に薦めると、大いに感激した。家内は職場の若い女性にも伝えると、彼女はレンタルして三度も見た。一度見れば充分な内容だが、今回見直すと細部の作りが入念で、絵画的な構成美を意図した場面が多く、俳優の演技も申し分ない。それにやはり最後の感動的な場面では目頭が熱くなる。アマゾンでの批評は400件以上あって、とんちんかんな意見もある。それは当然で、成功物語を嫌悪する人は一定の割合でいる。祇園会館で見た日が正確なのは、日記をつけていたからだ。このブログを始めたのはその日記がひとつの契機になっていて、ブログの投稿のおまけの形でその日記を順次投稿した。つまりブログ開始の2005年以前に同じように書く習慣を持っていた。さらに言えば長文は80年代の終わりに3年ほど続けていた。それ以前にも友人に頻繁に長い手紙を書いていて、筆者の文章は年季が入っている。小説家を目指すなど、文章で生計を立てる思いがあれば面白くしようと工夫するのに、功名心も才能もない。最近はブログの訪問者数を確認しなくなり、さらに気楽になっている。ところで、好きなことを仕事にすると大変という意見をネットで見かけるが、理由を確認するためにその文章を読まなかったのは、好きなことを仕事にすることは大変である一方楽しく、また楽しいけれど大変で、そのわかり切ったことを今さら他人が発言していることを気にしたくないからだ。筆者が長年長文を書いて来たのは、書きたいからで、それ以外の理由はない。どのような表現行為でも自ら望んでするのでない限り、ろくなものにはならない。これは以前書いたが、染色の大久保先生は、教え子の精華大学の学生が好きな絵を描くために入学したというのに、一向に描かないことに呆れ、やがてアホらしくなって先生を辞めた。ゴッホは美大に行かず、10年間に2000点近い素描と油彩を描いた。そんな根性のある者は今いても美大や芸大に行かず、その暇を惜しんで脇目も振らずに日夜描くだろう。だが芸術の分野によっては専門的な機関で学ぶ必要はある。技法書で独学することは、直接の教授に比して遠回りになり、また肝心なことが把握出来ない場合は少なくない。
 『リトル・ダンサー』は原題が『ビリー・エリオット』であることを今回知った。これは11歳の主人公の少年の名前で、彼はダラムというイギリス北部の炭鉱町に住んでいる。父も兄も石炭掘りで、母は前年の1983年に死に、母の母か、認知症気味の祖母も一緒に暮らしている。石炭の価格は下がり、炭鉱夫の賃金は安いままで、父と兄はスト仲間に加わって仕事に行っていない。父はビリーを逞しくさせようと、祖父の布製のボクシングのグローブを与えて同僚に就かせて学ばせている。ところがビリーは祖母や母譲りのダンス好きで、兄が聴いているT-レックスのアルバムに合わせて密かに踊ることが好きだ。ある日炭鉱夫のストが原因で、ボクシングの練習場の半分が仕切られ、そこで少女たちのバレエの練習が始まる。ビリーはそれにいつしか見惚れ、練習に参加するが、父に隠し通すことは不可能だ。やがて見つかり、落胆され、バレエの断念を迫られる。炭鉱夫の家柄では男のバレエが全くのお笑い草であることは当然だろう。しかも経済力もない。前者に関して思うことがある。NHKがこの映画を放映するひとつの理由は近年のLGBT問題を描いているからだろう。ビリーの同じクラスに美少年のマイケルがいる。彼はビリーが好きだが、ビリーは同性愛者ではない。マイケルは自宅で姉のワンピースを着て口紅を塗るなど、女装趣味があり、それが父に倣ったことであることも明かされる。マイケルの父も炭鉱夫のはずだが、マッチョさが似合う炭鉱夫でも女装趣味があるという設定はありそうなことだ。この映画ではセックスについての表現がいくつかあって、それが大人の行動の大きな理由になっていることもほのめかされる。たとえばビリーや少女たちにバレエを教えるウィルキンソン夫人は、自家用車を所有する中流階級として描かれ、夫とはセックスレスだ。その欲求不満を満たすためにバレエを教えていると彼女の娘からビリーは聞かされる。その娘はビリーと一緒にバレエを母から習っていて、いつしかビリーが好きになり、ある日「わたしのあそこを見たい?」と訊く。ビリーは彼女を好きとか嫌いとかの感情で思ったことはなく、「あそこ」も別に見せなくていいと答えるが、ビリーに同性愛も異性愛もないかと言えば、まだ11歳の少年で、母のいないさびしさをどのように埋めるかで精いっぱいだ。ところがテュテュ姿の少女に混じってビリーがバレエの練習をする時、ビリーの父も含めてそこに倒錯性を感じる場合は多いだろう。その思い、つまり他人からどう見られるかという懸念がビリーにあるかないかは全く描かれない。バレエを学びたい男性は少ないと聞くが、彼らは多くの女性に混じって学ぶことが楽しいのか、あるいは女性に興味がなくてむしろ男好きなのか、ビリーの父や兄が反対した理由の根源に性意識の問題があるだろう。それは別段ビリーのセックスへの関心を責めてのことではない。
 1984年当時の炭鉱町ではLGBT問題はより御法度であったことは想像出来る。そこでマイケルを登場させ、少年期にすでに同性愛が目覚めることを監督は描いた。WIKIPEDIAによれば監督スティーヴン・ダルトリーはバイセクシュアルとのことだ。自身の姿をマイケルに重ねたのかもしれないが、よりビリーに重ねたのではないか。ビリーが同性愛を理解せず、女性にも無関心であるのは、大人になればどちらにも関心を寄せる素質があると思ってもいいのだろう。多くの人と交わってバレエ・ダンサーを目指すのであれば、男女問わずに好きなものは好きと自覚するに至って不思議でない。男のバレエ・ダンサーとなればニジンスキーがあまりに有名で、彼は一回り以上年齢が離れたディアギレフと同性愛の関係にあった。本作の少年ビリーが目指すのがニジンスキーの才能として、同性愛まで連想する必要はない。本作の主眼はそこにはなく、父や兄の無理解をどう覆してビリーが王立のバレエ学校の寄宿舎に入るかまでを描く。最近流行りの「親ガチャ」という言葉の観点でも本作は興味深い。ビリーのダンスの才能は祖母や母譲りとしてほのめかされる。妻の死後、父はピアノをたまに弾くビリーが目障りなのか、冬場に暖を取るためにピアノをハンマーで叩き割る。そこに経済的困窮が見え透くと同時にビリーの音楽や妻への思慕を断ち切ろうとする「男らしい」決心があるが、父はバレエの練習をやめないビリーの踊りをついに偶然目の当たりにし、その直後に意を決してウィルキンソン夫人を訪れる。ビリーを応援する気になったのだ。祖母はビリーが炭鉱で働かねば手に職つければいいと現実的なことをつぶやくが、確かに大多数の炭鉱夫の家族はそのようにして貧困の連鎖を少しでも絶とうとして来たであろう。才能のある子どもはどの家系にも生まれるが、それを育む環境が整っているとは限らない。それで「親ガチャ」は若者にとって便利な言葉だ。「自分の親を見れば、どうせ無理」とばかりに、親のせいにしておけば、自分が社会的に目立つことがなくても逃避出来るし、努力しないことも親の遺伝と言い訳出来る。本作に置き換えれば、ビリーはバレエを諦めて炭鉱夫になり、マイケルに向かって「あの父親ではぼくの夢はかなえられないからな」と言う姿だ。それでは感動的な映画になるはずがない。ビリーは理想的な親を選べない立場でありながら、ダンスで父の頑なな考えを覆すことに成功した。ビリーの父は「親バカ」の典型か。炭鉱夫にはいつでもなれるが、才能を前提として今しか学べないことは世の中には無数にある。それを知るので親は子どもにさまざまな塾に通わせ、早期教育を施し、将来の選良的生活を夢想する。ビリーの父にも同じ意識はあると見るべきだが、自分にはない才能を子どもに見出せば、それを伸ばしてやりたいのはどの親も同じだ。
 才能は金では買えないが、実は大いに買えるもので、金がなければ才能も埋もれる。その現実を本作は描く。クリスマスの夜にウィルキンソン夫人の家を訪れたビリーの父は、彼女にいくらかかるのかと問う。彼女は「さほど高くなく、2000ポンド」と答える。70万円ほどで、これは入学費用だろう。スト決行中でほとんど無一文同然の父は「そうではなくてオーディションを受けるのにいくらかかるのか」と訊き返す。結局ビリーは初めてロンドンを訪れる父とともに高速バスに乗って面接会場に行く。男女5,6人が並ぶ面接の場でビリーは音楽に合わせて初見で踊らされる。ウィルキンソン夫人から言われていたように、オーディションでは技術の高さではなく、体つきや表現力の豊かさが診断される。これはとても重要なことだ。表現力は基礎があってのことだが、その最低限の基礎をウィルキンソンは付きっ切りで教え込んだ。本作のアマゾンの批評にビリーはタップダンスがほとんどで、バレエを学んでいないというのがある。タップダンスはイギリス北部やアイルランドでは伝統芸だ。それゆえビリーが本作でロックの音楽に合わせてタップダンスをすることは不思議でないどころか、イギリスの伝統を体現している。そういうビリーがバレエのイロハを学び、やがて王立のバレエ学校で頭角を現わすというドラマだ。幼少からバレエ一筋に学んで才能を大きく開花させるとは限らない。どのような芸でも人が感動するのは、表現力が豊富であるからだ。誰も真似出来ない高度な技術を筆者は重視するが、その技術は誰にもない豊かな表現性と一体になっている必要がある。高度な技術だけならばコンピュータが代わりをする。「親ガチャ」に戻ると、ビリーの母や祖母がダンス好きであったので、ビリーには踊りの才能が具わり、踊りが好きという確信があった。前者を遺伝と見れば、「親ガチャ」の好影響を受けた、つまりビリーは恵まれていたと主張する人があろう。ここで大事なことは、11歳のビリーに個人教育をしたウィルィンソン夫人だ。彼女はビリーに言わせれば場末で1回50ペンス(1ポンドの半分)教えている「負け犬」だが、才能を見抜く目はある。こういう人はどの分野にもいる。真っすぐに学べば高いところまで行くと専門家が直感出来る幼ない才能はある。ウィルキンソンがビリーの父を説得出来なければこの物語はなく、そのような現実的な諦念は毎日無数に世界中で繰り返されている。ビリーの父とバレエの個人教育をしてくれた女性がいたことでビリーはダラムで炭鉱夫になる生活から免れ得た。これはバレエがそれほどに小さな頃から特別の訓練を受け、多額の学費も必要で、協調性もなければならないことを示している。ビリーの父は面接官から家族の支えの必要性を諭される。王立の厳めしい建物の中、面接官に言われると、改めてビリーの父が覚悟を決めたことは誰にでも同意出来る場面だ。
●『リトル・ダンサー』_d0053294_22340110.jpg
 本作で使われる曲はT-レックスを初め、イギリスのロックが中心で、クラシックの名曲はチャイコフスキーの『白鳥の湖』のみが二度使われる。ビリーとウィルキンソンが車で可動式の橋をわたるまでに車から流れる場面と、その14年後、25歳のビリーが王立劇場で主役として『白鳥の湖』を踊る最後の場面だ。後者は舞台袖で待機する場面を含めても1分あるかないかで、この短さがよい。逞しく成長した姿はまた別の物語であるからだ。14年の間、父と兄はビリーに仕送りをして支えた。それは父の矜持であった。息子の才能の芽を摘みたくなく、他人の世話になりたくなかったのだ。「親ガチャ」で言えば、ビリーは親に恵まれていた。ただし面接官に言われたように、ビリーは学業にも励む必要があり、14年は何事にも練習を重ねる日々であった。それで初めて成立する芸術がある。本作で使われるロック音楽は、労働者階級の青年が勝手に作曲して勝手に歌ってヒットしたものだが、本作は「ロイヤル」の存在を示している。それはイギリスならではの芸術至上主義、階級序列主義と言っていいが、ロックでは表現不可能な芸術世界があることは確かだ。そういう道に労働者階級の子息が進める現実を描くことで、階級社会に風穴を開けている。父の演技はビリーの初舞台を客席から見つめる様子が特に素晴らしい。その感極まって泣き出す寸前の無言の表情に父のすべての感情が収斂している。それはボクシングには馴染まなかったが、別の意味で肉体美を誇るビリーを目の当たりにし、また芸術の素晴らしさに初めて感動した姿だ。もっと言えば無学な炭鉱夫でも真の芸術に感動するもので、そのことを監督は描きたかったのだろう。11歳のビリーが炭鉱夫になるよりバレエ・ダンサーになったほうがいいのかなと言う場面がある。なれるのであればそれに越したことはないが、炭鉱町ではそういう優れた才能が出るとは考えにくいのが世間の相場だ。それゆえひとつのファンタジーとして本作が製作されたが、タップダンス好きの少年がバレエ教師の目に留まり、指導を受ける間に本格的に学ぶことを目指す設定に不自然さはない。本作は単純な肉体労働に従事する人は芸術の才能のある者を援助すべきというように読み取れるが、またゴッホを持ち出せば、弟テオの経済的支援がなければ描き続けることは出来ず、芸術の開花にはある程度の経済力が欠かせない現実を描く。本作ではビリーのオーディションのために父が妻の遺品の宝石を質屋に持参し、炭鉱夫仲間たちがなけなしの金を差し出す。これは描かれないが、ビリーを冷ややかに見る者もいたであろうし、そうでなくても「親ガチャ」の言葉を持ち出して町から出ても仕方ないと思う人もいたであろう。実際それを暗示させる子どもが描かれる。マイケルがそうで、煉瓦塀で日向ぼっこをしている常に水色の服を来た金髪の少女もそうだ。
●『リトル・ダンサー』_d0053294_22325831.jpg
 後者は冒頭から最後まで何度も同じ服装で登場し、いかにもそのような子どもがどの町にもひとりはいることを思い出せる。彼女は無言だが、壁にもたれかかりながら近所の人の動きを見ている。そんな彼女が一度だけ言葉を発する場面がある。ビリーがロンドンの寄宿舎に入るために父と兄に見送られる時だ。その日も相変らず彼女は壁にもたれているが、ビリーがオーディションに受かり、地元を離れることを知っている。「さよなら、ビリー」と彼女が声をかけると、ぶっきらぼうにビリーは返事するが、その彼女も大人になった時にそれなりの物語はある。彼女にはビリーのような才能はないかもしれないが、見違える美人になることはあり得る。20年前に筆者が最も感動した場面は、ビリーが肉体美を誇るダンサーに成長し、舞台で跳躍する時だ。ダラムの町では11歳のビリーを冷ややかに見る大人も多かったろう。彼らは「あのガキに何が出来る」と言いたいのだ。ところが10代初めから10数年の間に人間は見違えるように成長する。そして成長したその姿のあまりの眩しさにたじろがない人はないが、身近にそういう例を目撃しない場合、相変らず狭い世間のままに人は生きる。「さよなら、ビリー」と声をかけた少女は町に留まって目立たない人生を送るかもしれないが、ビリーと同じように別の世界で大きく羽ばたく可能性は持っている。筆者が本作から受け取ったメッセージは『幼ない者を侮るな』だ。もっと言えば、その幼ない者を生む女性は無限の可能性をもたらす点で他に比較出来るものがないほどに素晴らしい。いつまでも自分を若いと思い込んで子どもをほしがらない芸能界の女性は、次々と湧いて来る新しい若さを知らず、またその存在を目の当たりにして愕然とする。面接官から質問されるビリーは最初は要領を得ない返答をする。踊りを見せる場面でも同じで、動き始めはぎこちないが、やがて我を忘れて熱中する。その素質を面接官は見抜いた。将来大成する最低かつ必須の条件がその「楽しさ」に没入出来ることだ。好きであればどんな苦労でも耐えられる。芸大に入ったのにろくに描かないのは、「親ガチャ」を言い訳にしているからだろう。踊っている時の忘我の境地をビリーは電気が走ってやがて鳥のようにはばたく気持ちと言う。これは何よりも踊っている時が楽しいことを意味している。画家になりたいのであれば寝食を忘れて描き続ける。音楽でも文学でも同じだ。そんな行為の積み上げの果てに他者を感動させ得る何かが生まれる。それ以外は断じてあり得ない。没頭が何にも増して好きであれば他者の評価は気にならない。そのような境地に至って一家を成し得る。その覚悟のない人は好きなことを見つけて趣味にする。それはまだましで、「芸術などろくでもない」と断言する大人は常に圧倒的多数を占めている。そしてこんなことを書いてもそういう人には届くはずがない。
●『リトル・ダンサー』_d0053294_22331167.jpg

スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する

by uuuzen | 2021-12-01 23:59 | ●その他の映画など
●「SUNNY」 >> << ●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、...

時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2023 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?