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●「SUNNY」
かな 陽射しの中の 宮参り 赤子の顔は 雛の人形」、「陽を浴びて いつまで立つや 秋の花 世話する人の 背も曲がりて」、「早よ起きよ 雀の声に 布団蹴り 古米ばら撒き 一日始む」、「なるほどと 気づくや老いの 吾振りに なおさら知るは 幼なき日々や」



●「SUNNY」_d0053294_22000380.jpg一昨日シャーリー・バッシーの2枚組LPを聴いた。コロナ前のいつだったか、九条通り近くにある入院中の母を見舞った後、バス停近くのガラクタ店の前に無料のレコードが何枚か置かれていた。その中にシャーリー・バッシーの2枚組があったのでそれだけをもらって帰った。ところがすぐに聴く気になれず、一応は目につきやすい場所に立てかけておいた。それが何の風の吹き回しか、ようやくまた思い出し、ザッパの『200 MOTELS』と同じユナイテッド・アーティスト・レーベルのその盤を4面立て続けに聴いた。予想どおりの歌声や曲調で、今さら感動するほどではなかったが、最後から数曲目の「サニー」で聴き耳を立てた。そして曲が終わる頃には泣きたい気持ちになった。彼女の歌はこのカテゴリーで昔取り上げたので、今日はボビー・ヘブが歌ったオリジナルのヴァージョンを取り上げる。この曲は1966年に日本でもヒットし、当時ラジオのヒット・パレード番組で何度も聴いた。同年は6月にビートルズが来日し、その後『リヴォルヴァー』が発売されたが、「サニー」が日本でヒットしたのは同年の前半か後半かとなると記憶が定かでない。ネットで調べるとアメリカで2月に録音され、6月に発売されている。当時はおよそ2週間から1か月遅れで日本盤が発売され、ラジオ局でもかかっていたはずなので、筆者は7月には聴いていたと思う。当時毎週聴いていた「9500万人のポピュラー・リクエスト」のトップ20曲の題名と演奏者名を帳面1ページごとに表に記し、それを2,3冊保存していたので、それを見れば何月何日にどういう曲を聴いたかがわかるのだが、成人した頃に捨ててしまった。筆者と同じように几帳面に記していた人は少なくないはずで、70代のそういう人の存在はネットでわかるかもしれない。ところが周囲を見渡すと70代でネットで思いを発する人は稀だ。それはともかく、『リヴォルヴァー』を発売日に買った筆者は喜びのあまり、家の前でそれを胸にかざして妹に写真を撮ってもらった。その白黒写真をネットに載せてもいいかと思いつつその機会がないことはひとまずおいて、その写真の筆者は半袖のポロシャツ姿で、夏であったことがわかる。アメリカでは8月発売で、日本では遅くて9月であったろう。66年の日本の洋楽界はビートルズ一色で、「サニー」のヒットはビートルズ曲ほどではなく、もちろんと言うべきか筆者はそのシングル盤を買わなかった。また同曲はボビー・ヘブの歌声に比べてバックの演奏は音が小さめで、派手なギターの音色を求めていた10代前半の筆者には古風で鄙びた味わいを感じた。
 ビートルズの曲と決定的に違ったのは、バックの演奏が刻む後乗りのリズムだ。その黒人音楽特有の持ち味は当時「ソウル」と言われてビートルズを聴く筆者のような少年よりかはやや年長、しかも古いアメリカのポップスに精通している人が愛した。そして「リズム・アンド・ブルース」としてひとまとめにされていたが、歌唱が力いっぱいの場合、つまり圧倒される歌唱力を誇示する曲は「ソウル」と呼ばれ、日本ではアレサ・フランクリンやオーティス・レディングなどのヒット曲がビートルズの曲に混じって流れた。黒人歌手特有と言えば今は差別になるのかどうか知らないが、ソウル歌手は常人には無理な活力ある声を持たねばならない。日本の演歌歌手のどれほどがその能力があるのかとなれば、歌い方の違いとでも言うべきものがあって、またそうであるがゆえに黒人ソウル歌手のような歌い方をする必要がなく、喉も発達して来なかったのかもしれない。結局のところ身体の違いがあって、日本のソウル歌手を自認する人でも黒人のようには歌うことがほとんど出来ないのではないか。それゆえに日本ではソウル音楽は一部の人の愛好に留まっていると思えるが、ソウル音楽はその後ディスコに合流して、ファルセットを目立たせて軽やかに歌うことが流行り、そうなれば日本でもそれを真似する、また真似出来る歌い手は出て来る。わかりにくいことを書いているが、何を言いたいかと言えば、ボビー・ヘブは本曲をささやくように歌い始めながら、最後近くでは喉と鼻のつながりを震わせて図太い声を発し、そのことにおいてソウル曲であることを明白に伝えている。シャーリー・バッシーは抜群の声量を誇り、朗々と歌うことで人気がある。それは比較的速い曲をリズミカルに歌う場合に特色を出しにくい。それで彼女は他のカヴァー歌手と同じように本曲を声の限りを尽くして安定感たっぷりに歌っている。それはダスティ・スプリングフィールドに似て、60年代前半のオーケストラを背景に歌う場合のひとつの特徴であった。ボビー・ヘブは自作自演でこの曲をヒットさせ、日本盤の第2版以降のジャケットでは若い黒人女性の顔の背後にギターを持つボビーの写真が添えられ、さらにサイケデリックな色合いの曲線の帯が描き加えられたが、その写真のボビーはギタリストとしても歌手としても貫禄がなく、たまたま書いた曲が大ヒットしたと思わせる充分な風貌をしている。シャーリー・バッシーのような歌手としての貫禄のなさは聴き比べればさらに誰にでもわかるが、ボビーの歌い方にはまた普通の人には真似の出来ない箇所がある。それが前述の喉と鼻奧を震わせるような歌い方で、これは日本人では無理だ。そのわずかな歌い方があることによって、本曲は誰でもすぐに歌えるものでありつつ、ボビーでしか歌えないものになっている。そのわずか2,3秒の歌声に本曲の圧倒的な底力がある。
 黒人特有のそのような歌唱力を身につけるためには喉の構造を変える必要があるだろう。無理な歌い方をして喉を潰す方法もあるが、それが成功するのかどうか。キャプテン・ビーフハートは黒人歌手の図太い声を欲して練習して喉を鍛えた。それは喉を潰したと同義で、いわば無理がある。その無理な部分をビーフハートは自覚していたはずで、それで黒人が書かないような曲を書いて歌ったが、その根底には本物の、つまり黒人のリズム・アンド・ブルースへの憧れがあった。ここでまた別の話をする。昨日急に筆者はJ.J.ケールの「リーン・オン・ミー」を思い出し、久しぶりにその曲を含むCD『TRAVEL-LOG』を聴いた。実に絶品で、これほど素晴らしいアルバムは人生にそう何度も出会わない。このアルバムにはJ.J.ケールの飾らない人柄と生き方がそのまま反映している。ビーフハートは彼の曲を1曲だけカヴァーしたことがあり、同世代で同じリズム・アンド・ブルース畑から出て来た才能として敬意を表していたのだろう。ふたりの音楽は全く違うが、白人の点で通じていて、黒人音楽を基礎にどういう音楽を作り上げるかで呻吟し、そして稀な成功を収めた。ここで言う成功は経済的なそれや大きな名声ではない。その人でしか成し得ない独特の世界を創り上げたという意味だ。J.J.ケールの音楽はビーフハートの複雑怪奇なものとは大いに違ってたとえばボビー・ヘブがすぐに書いて演奏したような音楽であるはずだが、それでもケールでしかあり得ない味わいがある。筆者がなぜシャーリー・バッシーがカヴァーする本曲からケールの「リーン・オン・ミー」を思い出したのかだが、ボビー・ヘブとケールは同じ1938年生まれで、本曲に似た味わいをケールは自作曲で表わし続けたからだろう。これは言うなればケールの音楽はソウル(魂)を歌い上げるもので、愛する人が身近にいたことがその大きな理由になっている。ソウル・ミュージックは黒人霊歌から生まれて来た一面があるが、神に対する愛が肉親や恋人のそれであったところで、思いを詩に書いて歌うことは広い意味で「ソウル・ミュージック」になる。またそういう面を濃厚に持たない曲はヒットしても間もなく忘れ去られるだろう。今は「魂」という言葉はあまり好まれず、いかがわしいことの代名詞に使われる嫌いがあるように感じるが、ひょっとすればそれはアメリカ譲りかもしれない。何事もアメリカを模倣する日本で、「ソウル・ミュージック」という言葉は60年代以降にあまり聞かれなくなったとすれば、黒人特有の体臭を感じさせるような要素を人々が避け始めたからかしれない。それでディスコ・ブームが来ると、深く考えず、踊れなければ楽しくない人々が増殖した。そんな中では本曲もディスコ調にたやすく改変されるが、そうなればボビーの歌声にあるどこか鄙びた、真摯な心持ちは失われる。
 本曲を最初に聴いて55年経ち、改めて思うことは本曲がまとう時代性で、紛れなく66年という気がする。その年度以外ではこの曲は出て来なかった。ボビー・ヘブがどういう心持ちで作曲したかだが、3年前の兄が喧嘩が原因で殺された事件が背景にあるとされる。ただし3年経っての作曲をその事件を直接結びつけることには無理があるだろう。作曲に慰めを見出したボビーは兄への思いを昇華させ、太陽のように輝かしい存在への憧れの思いを歌詞にしたというのが最もあり得る話で、またそこには愛していた恋人への思いがあったかもしれない。いずれにして25歳で兄を失い、その傷心の3年後に本曲を書いたことはさすがの才能で、30歳手前であったことがなおさら純粋さを作品に蓄えることになったと思える。これが40代や50代であれば職人芸が出過ぎて素朴さは減退し、また真実味が失われるか、大いに変質するだろう。本曲以降も書き続けたボビーだが、本曲のみで名を遺した。1曲でも充分と言うべだが、生涯に書いた曲の頂点がこの曲にあったと皮肉交じりに言うのであれば、彼の全曲を虚心に聴いてみる必要がある。この曲は稀な高みに達しているが、同じような曲は他にもあるかもしれない。そう思って熱心な人は彼の他の曲を探すだろうが、結局は本曲に戻るのではないか。そこにはビートルズが『リヴォルヴァー』でようやく本格的に始めたシングル盤の寄せ集めでないトータル性のあるアルバム作りというシンガー・ソング・ライターが置かれていた当時の立場がある。3コードによる2分半のシングル曲という枠の中では主張したいこと、歌い方や演奏など、ある程度は型通りに行なう必要がある。そしてラヴ・ソングということになりがちだが、その愛をどう歌い上げるかは無数の変奏が可能だ。そこを見定め、太陽のような輝きの存在として「サニー」という名前を持ち出すのは、ストレート過ぎるが、そのことが世界中の人に理解されやすく、また時代を超越する持ち味を付与させることになった。どこか鄙びた味わいと先に書いたのは、この曲の陽射しが晩秋から冬を思わせ、愛する対象をしみじみと思っている姿が目に浮かぶからだ。もっと言えば、この曲の歌詞は直接には聴かせたい相手には届かず、想念の中でのみ告白している印象が強い。それは悲しみにかなり接していても、愛する本人はそれでも幸福なのだ。あるいはあえて輝きに目を向けて幸福であろうと望む姿が表明されている。一方「リーン・オン・ミー」は20歳ほど年下で当時一緒に暮していたクリスティン・レイクランドに対して直接歌いかけていて、また彼女はバック・ヴォーカルで参加してもいるが、ふたりの満ち足りた愛を伝える曲として今の年齢の筆者ならなおさらその愛を称えたい。ところがヒットは運が大きく左右し、ボビーの本曲と同じように大ヒットしなかった。
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by uuuzen | 2021-11-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●「電気風呂 痺れ怖くて 避け... >> << ●『リトル・ダンサー』

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