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●第70回 神戸菊花展
かれて 眠る子に落つ もみじ葉は 神の手跡か 長寿を思い」、「道すがら 白き小菊の 挨拶に 歩みを留めて 笑みを返すや」、「菊の鉢 並べる家の 静けさや 洩れるピアノの 音も哀しき」、「菊作り 齢重ねて 腰曲がり 死に急ぐこと 菊も求めず」



●第70回 神戸菊花展_d0053294_00123001.jpg
相楽園の日本庭園を一巡した後、たまたま開催されていた菊花展を見た。かつては屋敷が建っていた場所なのだろう。展示の広場の南西端に和菓子とお茶のセットを売る臨時の店があって、家内はそれを求めて近くにあった大きな長い机に就いてくつろぎたがったが、高齢の先客が数人いて筆者らをじろじろと見つめている様子で、そこに座る気になれなかった。それで園を出て元町商店街の「きんつば」を製造販売する高砂屋の喫茶店に入って「きんつば」とコーヒーを注文したが、家内は菊花展の和菓子とお茶のほうがかなり割安なことを言い、そこのほうがよかったと少々文句を言った。それに「きんつば」は出来立てのほやほやで温かく、筆者も家内も冷たいもののほうが好きなので、残念な気がしたが、出来立てのほうが珍しく、それを味わえるのが本店であるその店の自慢でもあるだろう。神戸菊花展は昭和27年創立の団体が毎年開催して今年で70回目とのことで、筆者の年齢と同じだ。今年の会期は10月20日から11月23日までで、1500鉢ほどを展示し、中学生が作ったものもあった。筆者が最初に菊の花を大量に見たのは昔枚方の遊園地で開催されていた菊人形展だ。京阪沿線であったことも手伝って、子どもの頃に何度か見て、大人になってからは30代に一度だけであったと記憶する。等身大のマネキンに小菊で埋め尽くした厚い絨緞を着せるのであるから、かなりグロテスクで、また歴史上の人物にそれなりの知識がなければ楽しめず、昭和を過ぎると時代遅れになって行ったことは当然と思える。人気を復活させるには、「ゆるキャラ」やアニメの名キャラクターに菊の衣服を被せるのがいいと思うが、それではさらにグロテスクになるか。ともかく、枚方の遊園地の名物であった菊人形は人気がなくなり、後継者不足も手伝ったのであろう、10数年ほど前に幕を閉じた。今調べると、細々と菊師の伝統は続いているようで、今年は3体が展示中だ。菊の花はスーパーでは仏花として常に売られているが、そのこともあって抹香臭さの印象が強い。そう言えば、有名人の葬儀の様子がTVで映し出される時、舞台上の幅いっぱいに数千本の白菊で造形した花の彫刻とでも呼ぶべき壮観なデザインが施され、その中央に遺影が配される。その様子を見るたびに、葬儀の後、大量の菊をどうするのだろうと必ず思う。物故した人に愛好の花があったとしても白菊が用いられ、またそれほどに大量の菊を用意する葬儀専門の花屋は全国各地にあるはずだ。一方、刺身にはたまに本物の黄色の食用小菊が添えられ、パセリと同様に毒消しの効用があると目され、菊は常に大量に生産されている。
●第70回 神戸菊花展_d0053294_00125898.jpg 「菊の御紋」と呼ぶように、菊の花は皇室の紋章としての印象が強く、敬して遠ざける思いが一般にはあるかもしれない。それだけに高貴なイメージがあって、花咲く秋の冷たい空気と相まって他の花にはない存在感がある。花を育てることが得意ないし熱心ではない筆者は菊を育てる思いはないが、見るのは好きで、散歩がてらの嵯峨のスーパーへの途上、菊の鉢があると強く意識する。今日の冒頭の短歌のうち二番目は何度も作り変えたが、先日嵯峨のめったに行かないスーパー向かって歩いていると、誰も注目しないような垣根の端に、花を5,6つつけた背丈60センチほどの白菊を目撃したことによる。一本の茎が斜めに立ち、いかにも筆者に認めてほしがっているようで、その可憐な美しさに心に一本の傷を負わせられた気がした。立ち止まってその菊を家内に告げると、家内は筆者の思いを理解したようだ。誰かが世話しているものではなく、種子から勝手に咲いたのだろう。そう言えば、別のスーパーでは先日まで白菊を5つ6つ造形した「はくせんこう」が半額で1個売られていた。筆者は子どもの頃から「はくせんこう」が好きであったが、甘味が豊富な時代になって食べる機会がなくなった。また食べたいからではなく、その蕊の部分が黄色で花弁が白の菊をいくつかつなげた石鹸大の「はくせんこう」がそれなりに見事な造形と色合いで、半額であればしばし手許に置きたいと思ったのだが、家内に一蹴されて諦めた。そのように白菊はやはり仏事に因んでデザイン化されていて、菊を象った「はくせんこう」を買うにしても、食べようとする人はまずいないだろう。小さな白菊を仏事の代表として思うだけではその菊は不満であろうし、前述のようにひっそりと路傍で咲いている野の風情はなかなかよい。純粋で可憐、しかしどこか力強くもある存在感に、筆者は同じキク科の紫色のシオンよりははるかに好む。今はさまざまな色の小菊をあちこちで見かけるが、最も目につくのは鉢植えの大輪だ。これも品種が多いが、どれも遠目に目立ち、しかも最低でも数鉢を並べるのでなおさら目につく。そして花の咲く様子の美しさもだが、丹精込めて世話している人が好ましい趣味人に思える。あるいはそういうことを世間に向かって誇示したい思いもあってその家の人は毎年菊を咲かせるのかもしれないが、不思議なことに菊の鉢を玄関脇に並べる家の住民を目撃したことがない。それに世話している様子を目撃したところでごく普通のお爺さんかお婆さんで、別段高貴な雰囲気をまとってはいないはずだ。そのごく普通に見えることは貴さとは関係がない。むしろ本当に高貴な人ほどごく普通に見えるだろう。ところで門外漢の思いに過ぎないが、菊人形や懸崖の菊に使われる小花の群れとなって咲く壮観な様子を眺めるのは楽しいが、栽培は大輪の菊ほうが難しいのではないだろうか。
●第70回 神戸菊花展_d0053294_00133089.jpg 1本の茎の頂点に大きな花がひとつだけの菊は品のよさの象徴になっていると言ってよい。育てる人はそのことを意識しているはずで、品のよさは人に見られているという思いを常に心がけるところに生まれる。そのため、菊の花は長持ちするが、枯れが目立てばすぐに鉢を玄関前から撤去するだろう。そういう大輪の菊をどのようにして育てるのか筆者にはさっぱりわからない。昔「菊花園」という会社から菊以外のさまざまな種子や苗を購入していた時、その社名からもわかるように、カラー図版満載の無料で送られて来る商品カタログには、大菊ファンのための品種のページがかなりあった。種子から育てるのか、ある程度園で育てられた苗を購入するのか、たぶん初心者や中級者は後者であろう。それに育て方の手引書はたくさんあるはずで、それにしたがって毎日世話をすると、勝手に秋には大きな花を咲かせると想像する。ただしその世話が大変で、陽当たりや水やり、土などによって成長は大きく左右される。型どおりにうまく育てると、型どおりの立派な花が咲くというのは、半分は自然の力、半分は人の厳格な根気によるもので、出来不出来を問わなければ、レシピどおりにことを運ぶとある一定の成果が得られるといういわばあたりまえの論理を確認することになる。その作業のどこが面白いのかと言う人があるはずで、そのレシピが最後の見事な成果を期待する人には苦ではなくても、育て方がもっと簡単な草花に慣れている人にとってはかなり面倒臭いことと想像する。そして立派な花を咲かせるにしても、その立派さに限りはない。そのため毎年挑戦することになり、気づけば10年、20年と経っているのだろう。またそこが菊の魅力で、毎年世話することで季節感や自分の老いを感じつつ、望む花の姿の完成に自己の完成を重ねる。鑑賞菊を育てることは、茶道や書道など「道」好きの日本人向きで、その「道」に欠かせない「型」にしたがうことを好まない人には向かない。どの植物を育てるにも最低限の「型」としての作法、世話は必要だが、毎日わずかでも見て望む成長の形を整えて行くことは働き盛りでは無理な相談だ。それで花好きでしかも定年退職して暇がたっぷりある人に限り、玄関脇に菊の鉢がいくつかあれば、そこには必ず老人がいることの証しになる。抹香臭さとは別にその老人臭さが菊を育てることの大ブームが期待出来ない理由であるだろう。もっと手っ取りはやく、もっと形に変化が富み、色鮮やかな花がここ半世紀の間に好まれるようになり、古風な日本らしさは衰退していると思える。それは住宅からも明らかで、筆者は今年も種子を蒔いた鶏冠鶏頭にも言え、昔ながらの扇型に大きく、真っ赤に広がる花形は種苗業者も手がけない。菊も同様のところがあるだろうが、それでも菊花展では「型」にしたがって毎年同じ形のものが同じように育てられていることが確認出来る。
●第70回 神戸菊花展_d0053294_00141251.jpg 先日上田秋成の「菊花の約」に登場する武士のことに言及した。毎年秋になれば筆者はその小説を読みたくなる。そこで改めて「菊花」がその小説でどういう意味を持つのかと考えるに、秋成はふたりの武士がふたたび出会う日を重陽の節句としたことの意味をまず知る必要を感じる。またその日の夜更けにひとりは自刃して亡霊となって義兄弟の契りを交わしたもうひとりの青年に会いに行くのだが、そこには菊の抹香臭さと、一旦交わした約束は必ず守るという、これ以上はないという純粋な精神の象徴を菊に担わせていることがわかる。一方で菊花は肛門の形に似ていることから、ふたりの武士は男色関係にあるという意見も出始め、それはそれで筆者も強く否定はしないが、先日書いた映画『カサブランカ』ではやや軽く描かれていた男の友情を女性への愛より上に置く、あるいは別の重要なこととして思うことは、世界中に普遍的にあることで、「菊花の約」のふたりの武士を思慮が浅い人物として否定的に見ることを筆者は受け入れない。この小説の最初と最後に、浅薄な人とは約束を交わすものではないといったことが書かれ、その浅薄な人とは小説の中で誰を指すのかという意見が近年大いに唱えられている。秋成がふたりの主人公を浅薄な代表として小説を書いたはずは絶対にない。そんな人物をわざわざ小説の主人公にして人に読ませるほどの猜疑心や嫌味は秋成にはなかった。推敲を重ねて文字を連ねることはもっと清冽な精神を訴えるためだ。そこがわからない凡人はいつの時代も多く、彼らの代表がネットに有名人として毎日顔を晒し、出鱈目な意見を吐いている。筆者がこの小説を菊の花が咲く頃になると必ず思い出すのは、『無法松の一生』や『カサブランカ』の主人公に似て、命をいつ捨ててもいいような生き方をし、また命をかけての仕事を心がけ、これ以上一途で純粋な精神を持つ人間ないし行動はないと思うからだ。秋成が冒頭と最後に浅薄な人と交わるなと書いたのは、この小説のふたりの武士の契りは見上げたことであって、浅薄な人に理解出来るはずがないと考えたからだ。ふたりが男色関係にあり、物語の中で浅薄な人物の代表であるとする、それこそ浅薄な、ニヒリズムに毒された意見が20世紀になって出て来ることを秋成は予想しなかったであろう。キク科は双子葉類では最も進化したとされる。それゆえ園芸種が最も多いのか少ないのか知らないが、風が冷たい頃の菊花を見ると身が引き締まる思いで、他の花にはあり得ない静かで混じり気のなさがほとばしっている。そういう花に秋成はふたりの武士をなぞらえた。今日の5枚目、最後の写真は枯木に小菊を沿わせて生やした「木添え作り」で菊人形にアイデアは通じる。4枚目の下は「福助作り」で、成長を抑えて背丈を短く育て、また5鉢を順に並べる決まりがある。型どおりに作り上げる伝統はそれなりに守って行くべきだ。
●第70回 神戸菊花展_d0053294_00145321.jpg

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by uuuzen | 2021-11-23 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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