「
骸骨を 透かして見るは レントゲン 心見抜くは 心しかなく」、「空爆で 建物消えて 庭残り 手入れ重ねて 趣戻り」、「広き庭 手入れ届いて 雀来ず 鳳凰の舞い 似合いてさびし」、「式場の 讃美歌聞こえ 吾歩む 妻従いし 庭の細道」
旧ハッサム邸は相楽園の北中央にある。その東、そして蘇鉄園のすぐ北にL字型で煉瓦造りの古めかしい建物がある。ハッサム邸から6年後の1908年に建った厩舎で、戦時の爆撃から残り、現在重文になっている。扉が5つあるので馬車を5台所有していたのだろう。神戸は坂が多く、なおさら馬が必要であった。敷地がほぼ正方形の相楽園は斜面に広がっているので、山側の北から浜側の南への眺望は全体が見下ろせる。日本庭園は南西に位置し、園のおよそ4分1を占める、京都の大きな寺院の庭とは違って、現代風に言えばそのテーマ・パーク風の楽しさがある。大阪や京都、奈良とは違って異国情緒を売りにする神戸ではきわめて珍しい日本庭園があることは意外な気がするが、相楽園を含むことによって神戸全体がテーマ・パークの様相を呈している。相楽園の日本庭園は金沢の兼六園を思い出させたが、パノラマのような雄大な眺めは相楽園が勝り、また池を囲む小径は平安神宮の神苑とは違いつつもそれに似た眺めの変化に富む。順路は反時計回りで、途中に分かれ路がいくつかあって、全部の小径を歩くには何度か行き帰りを繰り返す必要があるが、そんなふうに歩く人はいないはずで、岐路でどちらの道を辿るかの決定をすることもあって、園内を一巡すると人生の旅を経験したような気になる。たぶんそんなことを感じさせるように設計されたのだろう。入園料は300円で、園内を説明するパンフレットがもらえる。ネットにホームページがふたつあって、ひとつは園内北西にある相楽会館のもの、もうひとつは同会館を除いた園内を紹介するもので、前者は企業に委ね、後者は神戸市が運営する。前者のホームページによれば会館のすぐ北にある北門からは自動車が出入り可能で、入園料も駐車料金も不要とある。ならば誰でも坂を上って北門から入りそうなものだが、車でなければ入れないかもしれない。また北門からのみ車が入れるのは、結婚式場や会議室、レストランや喫茶店がある会館を利用する人のためだ。とはいえそういう人たちも日本庭園を見ることは出来るし、先月末に筆者らが訪れた時は結婚式を挙げたばかりのふたりが庭園で記念撮影をしていた。それで彼らに気づかれないように、また彼らを見下ろす形で背後の小高い小径を西へ進むと、背後の会館内から結婚式で歌われる讃美歌の女性のマイクを通した大きな声が突如響き始めたので驚いた。コロナ感染が下火になり、結婚式が続々と行なわれているようだ。会館内にチャペルが併設されているはずで、結婚式でのその讃美歌を筆者も何度か結婚式に参列して歌ったことがあるが、キリスト教信者はひとりもいない。
日本庭園の出入り口は園のほぼ中央にある。そのすぐ西手に今日の最初の写真の大きな楠の木があって、樹齢500年とされ、周囲の変遷を最も長く目撃して来た存在だ。樹勢が弱っているのか、大きく枝を張り過ぎたので剪定を極端に施したのか、鬱蒼な雰囲気はあまりない。木の下にある石燈籠は巨大で、筆者がこれまでで見たものでは最大だ。ついで書いておくと、蘇鉄は明治10年代に園が整備され始めた頃に鹿児島から運ばれ、確か現在樹齢250年だ。蘇鉄の園は南東角の門を入ってすぐ園の東部にあって、日本庭園とは隔たっている。相楽園はそれ以前からあった楠の木を中心に整備されたのだろう。幕末や明治初期にこの一帯がどういう状態であったかはわからないが、当時から有名な楠の木であれば絵はがきに残っているかもしれない。WIKIPEDIAによれば相楽園は三田藩あってのもので、藩士の小寺泰次郎が経済的に困窮していた藩の財政を立て直すために神戸で起業し、それが成功して自邸として造った。その時に大楠があって、それを囲みつつ、庭を整え、屋敷を建てたのだろう。空襲で屋敷は消失したが、戦前の様子はやはり絵はがきなどの写真に残っていると思う。事業は小寺と九鬼隆義、白洲退蔵の3人で起こし、もちろん九鬼も白洲も三田藩で、隆義は養子から藩主になり、父が儒官であった退蔵は隆義に乞われて藩政に参加した。九鬼と言えば岡倉天心やフェノロサと関係が深い九鬼隆一のほうが美術ファンには有名だが、隆義が10数歳年長で、隆義の斡旋で綾部藩の九鬼家の養子になった。退蔵は白洲次郎の祖父で、小寺泰次郎の長男で、相楽園で生まれた謙吉は後に神戸市長になっている。武士が開国を機に事業に乗り出し、成功して莫大な資産を築くと同時に文化も大切にした例は各地にあるが、相楽園が神戸市に寄贈されたのは個人では相続の問題も絡んで維持管理が困難になって来たからではないか。明治に興した事業が戦争を経て戦後まで安泰という例が多いのか少ないのか知らないが、戦争という激動の時代以降は明治維新の頃と同じく、新興の大金持ちが勃興しやすい。そういう新しい勢力はまた新しい文化に大金を投じるとして、相楽園の日本庭園に匹敵するほどの庭園を都会のど真ん中に新たに造営することはまず無理だろう。アメリカのIT産業で莫大な資産を築いた経営者の中には、大きな日本庭園を造り、日本の江戸期の若冲などの絵画を収集する人物がいるが、アメリカの郊外、しかも世界的な有名画家の作品に比べて日本絵画のあまりにも安過ぎる価格では、そういう趣味はその気さえあればいわばたやすい。ところが、日本庭園や日本美術は安価で賄えるにもかかわらず、おそらく現在の日本のIT長者の関心を引いておらず、相楽園規模のものはもう生まれないだろう。そう思えばよくぞ相楽園は残り、現在も利用されていることは、歴史を背景にした神戸の誇りを示している。
九鬼隆一は美術品を収集し、それを三田に展示する博物館を大正初期に建てた。東京、京都、奈良の国立博物館だけでは充分ではなく、地方にも博物館を建てて連携させる思いがあったからで、それは戦後日本の地方美術館建設ラッシュの最初の例であった。ところが九鬼の没後、九鬼家は経済的困窮から美術品の売り立てをした。ついでに書いておくと、その目録に若冲画の白黒図版が1点掲載される。達磨の上半身を描く絹本の「達磨図」で、落款は贋印、また同じ構図で朱衣の絵は他に数点あってどれも贋作とするしかない。九鬼が活躍した時代であればまだまだ若冲の立派な真作は入手可能であったが、九鬼は若冲にさほど関心はなかったであろう。男爵になるほどの大金持ちが美術品を集める例は、民間人で初の男爵となった大阪の藤田伝三郎がいる。藤田美術館や太閤園は大阪人なら誰でも知っているが、藤田伝三郎が所有した敷地は相楽園の数倍の広さだ。去年筆者が作った振袖は太閤園からそう遠くないところに住む人から注文を受け、今年の正月に規模を縮小して実施された太閤園での成人式に娘さんが着用したと聞いた。その数か月後、グーグルのストリート・ヴューで藤田美術館が新たに現代風に建て替えの最中であることを知ったが、同じ時期、向い側にある結婚式場と石仏が多く点在する庭園で有名な太閤園がコロナのために経営が悪化し、売却されたニュースがあった。夏にその買い手が創価学会であることがわかったが、評価額60億円程度の土地を390億円で購入したとのことで、学会としてはぜひともほしかった土地であるのだろう。大川を挟んで造幣局の真向かいに位置する、かつて藤田伝三郎が所有した土地は切り売りされる時代になり、宗教法人が購入するのは時代を反映しているのだろう。藤田美術館は改築のために現在休館しているが、数々の国宝や重文を所有するも近年は中国美術の名品を競売にかけ、その売り上げで館の改築を行なうという状態で、美術館運営の難しさを思わせる。それでも九鬼隆一亡き後、九鬼が集めた美術品を競売にかけて今は何も残っていないことに比べると藤田伝三郎が築いた経済力の巨大さがうかがえる。とはいえ、藤田伝三郎の邸宅のあった土地に相楽園のような手入れの行き届いた、池を取り囲む回遊式の日本庭園はなく、また太閤園の土地が学会のものとなればその庭園は一般人が自由に見られる状態ではなくなるはずで、太閤園を大阪市が購入出来なかったのかと思う。今日の残りの写真は巡った順に撮った。漆塗り船を池に停泊させ、また池沿いに茶室があるなど、歩くにつれて景色が次々と、また時にがらりと変わる。小さな滝も数か所あって、毎日散歩出来た小寺泰次郎は天下人の気分を味わったであろう。石燈籠も随所に配され、兼六園を思わせることは先に書いた。花はつつじが美しいとのことで、訪れるのは春がいいのだろう。
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