「
挨拶は ともに姿を 見せること 今朝も古米で てんてこ雀」、「どこにでも 雀はいると 思いつつ 姿見えぬ日 さびしさ募り」、「邸宅は 部屋数多き ことだけで 客がなければ 空き家と同じ」、「書くことが ないと思えど 書き始む 指動かせば 頭も動く」

先月末に訪れた相楽園で撮った写真を順に投稿して行くつもりが、肝心の目的であった「蘇鉄の園」の写真はたくさんあってまだ加工しておらず、次に見た「旧ハッサム邸」を今日は紹介する。相楽園の蘇鉄は想像以上に大規模で、蘇鉄を題材に大きな友禅屏風を染める気力がかなり萎えた。現物があまりに迫力があって、六曲一双屏風に収まり切らない。それをするのがいわば画家の役目だが、背丈よりはるかに高い蘇鉄を数十も見ると、その全容は絵に収められない気がする。たくさん撮った写真は先日他の写真を加工する際に誤って4枚消去し、そのことも相楽園の蘇鉄について投稿する気分を削いでいる。それに撮りためた蘇鉄の写真はたくさんあって、相楽園の蘇鉄の投稿は来年になりそうだ。また大いに気に入ったので神戸に出るたびに立ち寄ってもいい。また出来れば写生もしたい。それが相楽園で許されればの話だが。さて「旧ハッサム邸」の写真は投稿用に6枚用意した。最近は1枚で2枚を上下か左右に並べるアイデアを頻繁に採用しているので6枚で済んだが、本来9枚だ。それでは1段落当たり1200字を最低8段落書く必要があり、それでなるべく写真枚数を減らすために2枚で1枚に加工した。それをしていない1枚ものの写真は価値が2倍と思っていると言ってよい。ともかく6枚の写真なら5段落で済むが、「旧ハッサム邸」について6000字も書くことがない気がしている。それでこうしてどうでもいいことを書いているが、2回に分けて投稿すると写真は3枚ずつ、すなわち2段落ずつとなって、字数は4800字と一気に減る。ところが2回に分けるほどでもない思いが強く、今日で済ます気になっている。さて、先月末の神戸行きに際し、以前入手していたチケットに気づいた。「風見鶏の館」の入館券で、使用期限はなく、2名利用出来る。相楽園から北野の同館へ行こうかと思って前夜に調べるとかなり距離がある。筆者ひとりなら歩いてもいいが、家内がいてはまず無理だ。それで北野には行かないことにした。北野の異人館は神戸の代表的観光名所で、一度は訪れるのがいいが、一度で充分で、どの館も内部は似ている気がする。とはいえ筆者は5年前の春に旧アメリカ領事館の官舎で現在
「神戸北野美術館」となっている建物の内部を見学したのみで、もっと高台の有名な「風見鶏の館」を初めとする異人館に訪れていない。それで気になっている「風見鶏の館」だが、コロナが一段落すれば行ってみよう。異人館は小さなものを含めて10いくつあるが、他に有名な「うろこの家」や「ラインの館」を見れば充分だろう。

芦屋のヨドコウ迎賓館はフランク・ロイド・ライトの設計で大正末頃に完成し、重文指定されて建築家には必見だが、北野の異人館は明治末期から大正にかけて建てられた木造で、建築家の強い個性を表現する建物とは言えない。「風見鶏の館」は明治43年に建った。その20年後にはヨドコウ迎賓館が個人の邸宅として完成したことを思えば、いかにフランク・ロイド・ライトが革新的な建築家であったかがわかる。以前に書いたが、筆者の中学生の美術の教科書には彼が設計した「落水荘」の写真図版が載っていた。それに対して北野の異人館を教科書で見た記憶はなく、またどれも成人してから知った。異人館よりも芸術的であるのはヨドコウ迎賓館で、異人館はどれも100年前の洒落た洋館というだけで、欧米に似た建物がどれほど保存されているのかは知らないが、取り立てて豪華というほどのものではないだろう。戦前の神戸にはそのような洋風の木造の建物は海岸付近にも数多く並んでいたが、空襲で焼けるか取り壊されるかして、山辺の北野にかろうじて残った。そして残ったものは大切に保存する機運が起こり、戦後は観光資源になった。古い歴史的な街並みを保存しようという動きの最初であったと言っていいかもしれない。「ハッサム邸」は最初は北野の「ラインの館」の北側にインド系イギリス人の所有として明治35年に建てられ、およそ60年後の昭和36年(1961)に所有者の神戸回教寺院から神戸市に寄贈され、その2年後に相楽園に移築された。「ラインの館」は「神戸北野美術館」の狭い通りを挟んで西にある。また現在は「ラインの館」の北に回教寺院やそれに因む建物はないが、富士正晴の小説『贋・久坂葉子伝』には、富士が久坂の実家を訪れるのにトアロードを山手に向かって上って行き、すぐ近くに回教寺院の尖塔があるとも書かれる。その寺院は昭和10年に建った日本初のモスクだ。そこが昭和36年の時点で「ハッサム邸」を所有していたことは、北野にもモスクを建てる計画があったのだろうか。たぶんそれはなく、最初の所有者が回教寺院に土地と建物を寄贈したのだろう。そしてモスクは立派なものが戦前に「ハッサム邸」の南西500メートルにあったので、土地を民間に売却、建物は不要になったので取り壊さずに市に譲ったというのが真相ではないか。市に寄贈された年に重文となったのは、個性的なデザインで保存がよかったからだろう。そしてさらに南西500メートルの相楽園の中のほぼ北端に移築されたのは、ほかに適当と思える場所がなく、妥当な判断であった。ただし今日の最初の写真のように背後に高層のマンションがそびえ、北野のような風情は乏しい。築60年は鉄筋コンクリートの建物では建て替えの時期に相当し、「ハッサム邸」もかなり劣化していたはずで、寄贈や移築はちょうどよかった。

鉄筋コンクリートであれば取り壊すしかなく、設計図を基に建て直すにしても木造の移築より費用がかさみ、よほど重要なものでない限り、消えて行くだろう。住宅は築年数の増加とともに固定資産税がゼロに近づいて行くが、鉄筋コンクリートと違って木造住宅は何年経ってもゼロにはならないと聞く。修繕しながら住む人が多いからで、その意味でも移築が可能で、解体して再構築することは、最初から木材を揃えて建てるよりも割安だろう。何が言いたいかと言えば、北野に木造の異人館がたくさん建てられたことは時代がよかった。鉄筋コンクリートであったならば移築は出来ず、また異国情緒もないだろう。ヨドコウ迎賓館からは東の豪邸がいくつか目に入る。それらは会社の社長や重役の所有であろうが、どれも鉄筋コンクリートで、設計士に依頼したようなそれなりの奇抜なデザインが見られるとはいえ、ヨドコウ迎賓館の貫禄はない。そこがフランク・ロイド・ライトと現代の群小建築家の違いで、いかに豪華な家であっても消耗品だ。たとえば安藤忠雄のような有名建築家がデザインした家は、さまざまな場所で紹介されるが、築60年経った後、どのようになるだろう。設計図が残っていればすっかり解体して再建築すればいいが、細部まで同じように復元出来るか。それよりも新たな所有者は新しい建築家に新しいデザインの家を依頼するだろう。筆者は芦屋の高級住宅街を知らないが、どの家も敷地面積がかなり大きく、数億円の建築費を投じて好みのデザインの建物にしているはずで、それゆえに統一感はなく、100年経ってもその地域が北野の異人館群のような観光資源にはならない。家には時代に伴なった流行がそれなりにあるが、大金持ちの邸宅では個人がより自由なデザインを求め、1点豪華主義が濫立するだけで、整った街並みは期待出来ないだろう。その整ったというのは、たとえば京都西陣の町家やまた北野の異人館群で、歴史的街並み遺産として後に尊重されるようなものだ。その点からすればヨドコウ迎賓館はそこだけが異様に奇妙なデザインで突出していて、それを悪い意味で近辺の大金持ちは真似をしている。となればフランク・ロイド・ライトはあまりよくないことをしたのかということになるが、彼が手がけた大規模な建築物と同じ芸術的個性を個人の邸宅にも発揮しようとしたのであって、またそれは発注者の望むところであったのだろう。大正時代のモダンさが住宅に及んだことの一例で、建物の目立つ外観は進取性のある人には歓迎された。京都ではバブル期に北山辺りでその波があったが、港があって外国人の居住の多い神戸とは違って、洋風や和洋折衷の住宅は人気がなかったのだろう。それがここ2、30年ほどの間に日本中どこでも同じような住宅が建つようになって来た。耐震や耐火性、工期短縮を主眼にするからで、限りなく左官や大工の職人芸が駆逐されて工場製品化している。

そのこととは直接関係はないが、思い出したので書いておく。「風風の湯」の常連Fさんの妹さんは筆者より1歳年長で、中学の同窓生と結婚して太秦に住んでいる。それが地元では珍しい部類に入る敷地の広い豪邸で、ご主人一族の家が近隣に数軒ある。それはいいとして、筆者はその妹さんご夫婦の家とは知らずにその前を何度か歩いたことがあり、つい最近になって妹さんから教えられた。妹さんによれば木造の古い屋敷を10年ほど前に建て替え、その現代調の建物をあまり好まないらしい。近くにある一族の屋敷はどれも戦前からあるような風格のある広い庭つきの木造建築で、妹さんご夫婦の家も同様であったのだろう。ところが建て直さねばならない事情が出来した。その際立派な松や桜のある庭がどうなったのか知らないが、ご主人は植木の手入れが趣味で、家の建て直しに伴なった庭木もそっくり変えたとしても10年でそれなりに見栄えはよくなる。グーグルのストリート・ヴューで確認すると、確かに家は灰色が基調の現代的なデザインで、それはそれで仕方がないか、あるいは積極的に受け入れるしかない。筆者なら戦前の風格のある木造がいいが、同じようなものを最初から建てるとなると、現代的な、つまり工場で作った壁や屋根の材を使う建物の倍以上の費用を要するだろう。今はそんな職人は宮大工しかいないかもしれない。としても京都ではまだ調達出来るだろう。それに戦前の風格のある木造屋敷を新たに建てるとして、今は耐震工事を施すから、基礎や建物の部材は昔よりはるかに手間がかかる。そのことも工事費がかさむ理由だ。今では立派な木材で建てる屋敷は庶民には手が届かないが、芦屋の裕福な階層ではそうではないだろう。ところが彼らはわざわざそういう木造住宅に住まないのではないか。奧嵯峨にはまだまだそのような木造の大きな家があり、また次々に空き家になっては中国人が購入して中国人専用の民宿を経営していると聞く。彼らのほうが却って日本の古きよき木造建築を好んでいる。せっかくの京都に住むのに、なぜどこにでもあるような工場製品つまりプレハブ住宅に建て替える必要があるのか。木造は維持管理に手間がかかるがそれは庭の植木と同じで、そういう手間をかける経済的精神的余裕のある人が立派な木造住宅に住む。韓国でも本当の金持ちは李朝時代を思わせる木造平屋住宅をほしがると聞いたことがある。数十階建ての高層マンションが建つ高額の土地に韓式平屋となるとどれほど高額になるかは想像がつかない。日本の木造建築は谷崎潤一郎の言う「陰翳礼賛」がふさわしいが、窓を大きく取り、どの部屋も目いっぱい明るく設計される日本の現代家屋は、湿度を嫌い、「翳り」を無用としているように思える。谷崎が『細雪』を書いた時代は大正モダニズムの余波があって、そういう頃に谷崎が日本の美を「陰翳」と思ったことはレトロ趣味とは言えない。

先月末、芦屋川沿いを遡上して「細雪」と大きく二文字を彫る石碑をまた見たが、『細雪』で描かれる台風に伴なっての川の氾濫は芦屋川より西の住吉川だ。10年以上前に『細雪』を読んだのでよく覚えていないが、谷崎潤一郎は記念館が芦屋にあることも手伝って、『細雪』で描かれる河川の決壊は芦屋川も含んでいるのかもしれない。因みに『細雪』は映画化され、それを見れば小説は読まなくてもいいと考えるのは早計で、小説のごく一部しか映画が描かない。また小説ではロシア人が登場し、京都とは違う外国人居住の多さが伝わる。話を戻して、記念館の建物は木造平屋(風)で、それが谷崎が住んだ家ないしそれを模した現代建築かどうか知らないが、谷崎がその記念館のあった場所で暮らしたのではない。『細雪』の舞台となった屋敷は阪神電車の魚崎駅からほど近い住吉川右岸沿いに現存する。ただしもっと駅寄りにあったものを六甲ライナーの高架やその駅を建設する際に現在の場所に移築した。その点は「旧ハッサム邸」と同じだが、谷崎邸は耐震工事が施されたので、阪神大震災では大きな被害を受けなかったと言われる。筆者はその家を訪れていないが、ネット上の写真によれば本棚や家具はそのままで、「陰翳」はそこかしこにある。それは日陰があればどこにでも生ずるものと言えるし、日陰になる場所はどの家でも必ずあるので、外観がのっぺらぼうのようなプレハブ住宅であっても内部にそれなりの陰翳は宿るようなものだが、家も家具も全部人間の手が作ったのではない工場生産の素材や半製品を組み立てる家具が収まる家には、人間らしさが基本的に排除されている。住めば手垢がついて陰翳は生まれると反論があろうが、使い捨て文化では陰翳は穢れと似たものとして嫌悪される。さて長々と書いた。「旧ハッサム邸」は期間限定で内部が見学出来る。2枚目の写真は1階の東西の部屋、3,4枚目は2階で、前述の谷崎の家と違って家具がほとんどないか、展示用に間に合わせたもので、生活感が感じられない。ところが5枚目の写真のように、光が射すと陰翳が浮かび上がる。撮影しなかったが、移築した際の天井の漆喰装飾の工程を示す材料や道具が写真とともに展示されていて、左官職人の高度な技術がわかった。そして思い出したのは、漆喰装飾のある家に射す光と陰を連想させるザッパのギター曲「STUCCO HOMES」だ。6枚目の写真は建物の前に置かれる煉瓦造りの煙突で、阪神大震災の際に屋根を突き抜けて1階に落ちた。脆弱な木造建築ではそういうことが生じるが、逆に言えば修復はたやすく、現在は天井のどの箇所を突き破ったのかはわからない。煙突は2箇所あって、落下した箇所のものは復元してまた設置したようだ。やはり撮影しなかったが、背後すなわち北側は別の建物が間近にあるためもあって、ひんやりとした陰翳の雰囲気が漂っていた。どうにか5段落が書けた。

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