「
棍棒で コンと打たれて ボーとなる 少しはましな 歌を詠めよと」、「席が込み 咳込みすれば 周り空き 呆れられれば レレレととぼけ」、「お祭りに 臨み備えて 手間をかけ 一期一会に 鮮やか混じり」、「絵具では 異なる色に なりはすれ 描けば個性 必ず出づる」
明日のザッパロウィンに配るお土産をまた用意することにし、先日その紙袋を手元にあった適当な紙で作った。3日前のレザニモヲのさあやさんのメールによれば、予約は21人とのことで、20部作ればよいと判断した。足りない分は前回のあまりが2枚あるから、それを配ればよい。以前のあまりの紙袋が6枚あって、20枚配るつもりが13枚で済んだ。表面の白地にまた水彩絵具で鶏頭の絵を描くつもりでいて、いつもは当日に描くのに今回は1日前の今日描き終えた。1枚描くのに10分として、20枚なら3時間以上かかる。実際そのようになった。ぶっ続けではしんどいので、3回に分けて途中で2,30分休んだ。必ず裏庭で実物を目の前に描く。最初に描いたものを部屋の中で模写すればもっと簡単で短時間で済むが、それは絶対にしない。毎回新たな気持ちの緊張感が好きなのだ。たいていの人はそんな面倒臭いことをせず、1枚描いてカラー・コピーするか、スキャンしてパソコンで印刷するだろう。筆者はそれもしない。さらに書いておくと、下絵なしにぶっつけで描いた最初の1枚と20枚目の絵はほとんど差がない。今回4時間ほど庭に出て描いていると、太陽の傾きが変わり、気温も下がったので鶏頭の葉の向きも明らかに変化した。1枚目と20枚目に差があれば、それは鶏頭の様子が変わったからだ。さて鶏頭の花は今年は5鉢植えた。そのうちのひとつは4鉢から間引いたものを適当に指で穴を掘って植え込んだものだ。それはそのまま捨てるのはかわいそうだとの思いゆえだが、移植を嫌う鶏頭ゆえに数日で枯れるとも思った。鉢の中の土は他の4鉢の半分もないからだが、5鉢は同じ陽射しが当たる場所に置き続けた。間引きの作業は週に一度ほどで、当初の芽が出て高さ10センチ以前のものはその鉢に植え替えずにそのまま捨てたが、それ以上に成長した頃に間引いたものを5鉢目に植えた。やがて花の盛りが過ぎ、何本かに種子が実ったが、わずかなので今年は収穫せず、間引きではなしに今度は枯れた茎を取り除く日が始まった。そうして残ったのは何と間引かれものが生きる5鉢目の3,4本で、そのうちの勢いのよい2本を描くことにした。それには2本の距離は大きく、根元を紐で結わえて接近させ、そうして粗末な絵具と筆で描き始めた。間引きされた、いわば見捨てられて情けによって植え替えられた茎が最後まで生き残ったことは、暗示的ではないか。その逞しさは人間にも通じる。経済的に裕福な二、三代目は案外仕事が出来ず、貧困を含めた逆境の中から天才が現われる。植物と人間は違うと主張する人がいるが、同じ生物だ。
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