「
鳶啼く 夜は寒かろ どこで寝る 縄張りありて 弱き弾かれ」、「蓄えを 知らぬ雀の 腹八分 餌がなければ 自分で探す」、「公平は 命あること 眠ること そのほかすべて 思いひとつで」、「天国も 地獄もないと 言われても どちらもあると 生きつつ思う」
今日はヴァレリア・ブルーニ=テデスキが初めて監督主演した映画について書く。先日少し触れたように、あまりに多くのことを考えさせ、感想をうまくまとめられない気がしている。それは現実と非現実、過去と現在を交差させ、盛りだくさんな内容であるからだ。DVDはebayで買った。彼女が出演した日本未公開の映画は大半がebayで入手可能だ。リージョン・コードやPAL方式など、日本では見られない規格のものがほとんどだが、パソコンで見られると知ったのでまず本作『駱駝の方がたやすい』を入手した。英語の字幕がないものは購入をためらっている。他の言語でも字幕があればそれを翻訳機にかけてだいたいの意味はつかめるが、そこまでして見るのは骨が折れる。フランスでは英語が通じない場合が多いと聞くが、そのことは映画の字幕に現われているかもしれない。ヴァレリア主演の映画に、俳優たちはイタリア語で話し、字幕はスペイン語かカタロニア語のみというものもある。WIKIPEDIAでは彼女が出た映画は全部紹介されているが、舞台作品のDVDや父が作曲した歌劇に出演したCDもある。それは映画化されたようだが、DVDがあるのかどうか。さて本題に入ると、題名の「…」にどういう言葉が入るかはキリスト教に少々関心のある人は誰でも知っている。「針の穴を通るのが」がまず入り、次に「金持ちが天国に行くよりも」が来て、駱駝が針の穴を通るはずがないので、キリストは金持ちは天国に行けないと思っていたことになる。実際は駱駝ではなくて綱と言ったらしいが、綱も針の穴を通せないので、キリストの言葉が誤訳で伝わって来たとしても本来の意味は保持された。それにしてもヴァレリアが聖書に出て来るこの言葉を映画の題名に使うところ、北イタリアの聖母崇拝の盛んなカトリック教徒として生まれ育ったことが推察出来る。英語字幕で二度見たが、どのセリフ、どのカットも印象深く、読み解きを強いるのは、彼女自身の恋愛と家族との関係を描き、自伝として機能しているからで、限られた時間により多くの考えを込める姿勢は創作者の面目をよく伝える。ドキュメンタリーとして見せても面白くなく、ヴァレリアは喜劇として脚本を書いたが、核となる話は深刻なものだ。彼女はそれに悩み続け、映画で思いを全部吐かずにはいられなかったのだろう。全部が事実ではないかもしれず、それは彼女の私生活に関するいわば週刊誌的な情報がほとんどない筆者にはわかりようがないが、彼女が脚本を書き、初監督したからには自伝的内容になるのは当然であろう。肝心なところはだいたい現実を反映していると考えていいのではないか。
本作は2003年の製作で、当時39歳であった。同年は他に3本の映画に出演し、前年も4本に出ていて、女優として引っ張りだこであった。そういう時期に本作を撮ったのは、映画化を長年温めていたからであろう。背景にあるのは父の死だ。病室で元気に会話を交わしていた父がやがて死に、裸の遺体が看護師らに拭われ、個人用ジェット機でたぶん本国のイタリアに運ばれるところで映画は終わる。父の死を見越して遺産の相続を母、兄、妹との間でどうするかで意見の食い違いが起きる。ヴァレリア演じるフランチェスカは遺産をほしがらないが、フランチェスカは聖フランチェスコの女性化の名前で、遺産を放棄するとの設定も清貧の聖人を意図してのことだ。またそのことは本作で兄からサンタクロースやマザー・テレサのようだと揶揄されることからも言える。またフランチェスカは金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通るより難しいと知っているのだが、彼女がキリスト教を信じているかとなると、本作ではむしろ聖書や教会に批判的だ。ただしこの点は即断するのはよくない。とにかく彼女は博愛主義者で、貧しい人たちに同情的として描かれる。これがヴァレリアの実像にどれほど近いのかどうかだが、彼女は本作で自身をあまり美化せず、むしろそこまで赤裸々に描かなくてもいいのではと思わせる場面が多々ある。コメディにする必要上、あえて滑稽と見える仕草をふんだんに入れたのだろうが、その奥に彼女の現実の孤独が垣間見える。結論を言えば、彼女は大金持ちだが、セックス相手はいても真の恋人も、子どもも手に入らない。そこで遺産の一部を資金にして本作を撮ったのだろう。それは他人を喜ばせるためというより、吐き出さずにはおれない自身と家の事情を私小説的に作品化したかったからだ。そのことに娯楽性があるかとなれば、彼女が本作で描くように、最初はシリアスな脚本を書いたのに、ある監督に見せると批判され、それで喜劇タッチを盛ることにした。脚本の変更は成功したと言ってよいが、見た後はどうしても痛々しさがついて回る。生活に伴なうそういう側面は金持ちか貧乏にかかわらずあって、その意味で本作は真実味がある。そのことはひとりの女優の人生を知るという意味においての娯楽映画であることを証明し、彼女しか作ることの出来ない映画という意味で芸術と言ってよい。喜劇の要素としてアニメショーンを組み入れ、それはメニュー画面と本編で使われるが、ヴァレリアの顔や体形をよく真似て描かれている。その他の特徴を列挙すると、ヴァレリアの家族のイタリア時代の生活が子役を使って描かれる。家族がパリに移住するのは1975年で、当時ヴァレリアは9歳であったが、本作では5,6歳頃の生活が描かれる。父の死は1996年で、当時ヴァレリアは32歳であった。つまり本作は子ども時代を除けば彼女が32歳頃のパリでの一家の生活を、39歳で撮影した。
おそらく脚本を書こうと思い立ったのは父の死の頃からで、7年目に実現化された。それ以上遅くなると彼女の容貌が衰え、32歳の女性を演じることは困難になった。本作の次の大きな特徴として、ヴァレリアの恋愛問題がある。本作は兄や父、神父を除けば3人の男性が登場する。そのうちのふたりとは肉体関係があり、他のひとりは児童公園でたまに見かけるだけの子連れの男性で、言葉をわずかしか交わさないが、フランチェスカの願望の場面がある。これは当時のフランチェスカすなわちヴァレリアが子どもを望む意思の表われとして案外重要で、DVDの裏ケースの最上段にその場面の写真が使われる。彼女は彼の子を妊娠し、臨月間近の大きな腹を抱え、満ち足りた笑顔でギターを奏でる男と横並びになって並木道を歩く。その男性は本作の冒頭早々にわずかに姿を見せ、フランチェスカを意識するが、それは彼女がしばしば自宅横の児童公園で遊ぶ親子をぼんやりと眺めているからだ。ついに男は声をかけ、フランチェスカは結婚しておらず、子どももいないことを告げるが、関心を持ったような男にかまわず、彼女はさっさと公園を後にする。つまりふたりには何も起こらなかったという設定だが、前述の妊娠中で並んで歩く場面が後に出て来る。それはフランチェスカが行きずりの男でもいいので、子どもが得られるならその行為を望むというように受け取ることが出来る。30代半ばのヴァレリアが現実にそう思っていたことの反映かと言えば、当時の彼女が出演した映画と併せて考えるに、そう取って間違いはないだろう。そこに筆者はミシュレの著作『女』に書かれることを想起せざるを得ない。たとえばコレッジオが描く聖母子の姿をヴァレリアは幼ない頃から教会その他で眺め、いつか自分も母親になることを意識したということだが、若い女性が母親になること、そしてそれを暗に期待することはきわめて自然だ。ところがヴァレリアは子を産まず、女優、監督として生きて来た。ミシュレの『女』第1部「教育について」の第6節「女は一つの宗教である」にこういう下りがある。「…女として彼女は、男を幸福にして初めて自らの救済がはたせると私は主張する。彼女は愛し子供を生まねばならない。そこにこそ女性の神聖な務めがある。だがこの言い方に関し誤解のないようにしておこう。もし結婚せず母親にならなかったとしても、女は教育者となるだろう。それゆえやはり母の役をはたすのであり、子供の心を作り出すことになるのである…」ここで言う「教育者」が学校の先生だけを指すのではない。一方でミシュレは常に創造することにしか幸福はないと書いているので、大きく言えば子を生まない女は「芸術家」になり、そのひとつの見本がヴァレリアと言うことが出来るが、どんな些細な行為にも愛の心を持てばそれは創造になり得るのであって、ミシュレはそう言いたいのではないか。
本作を見てどこか痛々しいヴァレリアを感じると書いたが、それだけ彼女にあざとさは皆無で、純粋さがある。筆者が彼女に感じる魅力はそれだ。話を戻して、フランチェスカの恋愛の相手のひとりに、5年交際し、2年会っていない男性フィリッペがいる。彼と街角でばたりと出会い、よりが戻ってホテルに行ったりするが、彼には妻がいて、3人でベッドに入る場面がある。そういう肉体関係をヴァレリアが実際に結んでいたとして、またそれを本作で示すのは、とにかく全部あからさまにしてしまいたい欲求があったからだろう。女優は人前でも平気でしゃがみ込んで用を足せるほどにすべてをさらけ出すべきと聞いたことがあるが、本作でもそこまで見せなくてもいいのにと思ういわば下品な場面がいくつかある。たとえば妹と部屋の中で話している時、ヴァレリアすなわちフランチェスカは片隅のトイレに座っている。そしておもむろにトイレットペーパーをちぎってスカートの下に手を入れて股を拭く。実際はポーズだけと思うが、そういう場面はストーリーに必要ではなく、喜劇タッチを考えてのことだろう。本作には本編から外された1時間ほどのボーナス映像があり、その中で特に不思議であるのは、本編に何度か登場する神父とセックスする場面だ。本作の冒頭、エッフェル塔北東10キロほどにあるルノワール通りの家から出た彼女は、車を運転してエッフェル塔の正面を過ぎ、セーヌ川を南にわたってアンヴァリッド廃兵院の傍らすなわちロダン美術館のすぐ近くを走って教会に着く。そして神父に懺悔を願い、金持ちであることを告白するのだが、いつしか彼女はその神父に会いに行くのに車の中で口紅をつける。頻繁に彼女がやって来るので閉口した神父だが、彼女は神父から言われたとおりに聖書の一節を繰り返し唱えながら車を運転する場面があって、話し相手がいない彼女の境遇を暗示させる。芸能人ではよくあることだろう。聖書を暗記したところで何にもならないことをフランチェスカは知っているが、それでも話を聞いてもらいたい相手が必要なのだ。それを念頭に本編に採用されなかった神父との性交の場面を思えば、彼女は疑似恋愛の相手として神父を見ていたのだろう。最近フランスの教会でここ20年の間に何万という子どもが神父によって猥褻行為を受けたというニュースがあった。被害者はだいたい男子で、それでフランスは男色家が多いのかもしれない。そう言えばヴァレリアの兄は2006年、47歳でエイズで亡くなっている。神父との性交場面はパントマイムのコメディとして演じられるのでいやらしさはないが、本編のどこにどういう形で使うつもりであったのかが気になる。何度か神父に会う場面があるので、そのいずれでもよかったのだろうが、懺悔する女性が神父と教会の片隅であられもない格好をすることは教会を侮辱したと非難されかねない。着衣での性行為の物真似とはいえ、神父は頭をヴァレリアの股間にまともに押しつけながら彼女を頭上高く抱え上げる場面は、薄いスカートの下はパンティのみとわかる彼女の姿ではかなりえげつない。監督である彼女の言うことを神父役の男性がしぶしぶ聞いたと受け取ることも可能で、何度も練習した演技に思える。
その数分の場面は2回撮影されたものがボーナス映像に収録され、2回とも同じ演技をするので、ふたりがどう動くかを厳密に脚本に書いていたはずだ。そこまで喜劇にする必要はなかったと思うが、ヴァレリアが言いたいのは、世の中はセックスが支配しているということだろう。実際本作の主題はセックスで、フランチェスカの恋愛とは別に母親のそれが大きな軸になっている。後者はかなりショッキングで、映画化は憚られ、あえてする人はいないはずだ。父は亡くなる前に3人の子どもでは最もかわいがっていたフランチェスカに秘密を明かす。それは妻に若い恋人が何人かいて、どうやらフランチェスカの妹の父は自分ではないというのだ。そのことを彼女は自分で抱え切れず、母と妹に言う。母は否定せず、おまけにフランチェスカにきつい態度で接する。その時の母親役の演技は見事で、しょんぼりするフランチェスカは叱られた幼ない子どもに見える。母親役を演じたのは実際の母親マリサで、さらに驚く。マリサは娘のヴァレリアが映画の脚本を書き、その内容を読んで自分が母親役を演じたがった。これはカーラ・ブルーニの父親は別にいることを認めたと言ってよく、その不倫正当化は常人には理解し難い。マリサはピアニストで、15歳年長で音楽家のアルベルトと結婚し、長男長女を産んだ後、アルベルトと同じくクラシック音楽畑の13歳年下のギタリストとの間にカーラをもうけた。そのことをアルベルトがどこまで知っていたかは本作からうかがえない。それに本作は父が死んで7年後の映画で、残された家族の関係が大事という思いが垣間見える。アルベルトは音楽家としてそれなりの名誉ある地位に就き、自作曲のCDも発売されたが、本作では希薄な存在で、職業も明らかにされない。本作を見るヨーロッパ人にはよく知られたことで説明の必要がなかったからとも言える。ついでに書いておくと、兄役の男性は世界中を旅して生きていて、父が死ぬと聞いてパリにやって来るが、ヴェネズエラの肌の黒い美人のスチュワーデスを連れて来る。そして暇な時にピアノに向かう場面があって、父の影響を受けて音楽好きであったことを示す。また母が暮す家はとても豪華な家具調度で、ルネサンス期の名画が隙間なしに飾られている。これらはアルベルトが所有していたものだ。またフランチェスカや兄、妹の子ども時代の場面ではほとんど城の中のような部屋が映る。それも彼らが所有している屋敷ないし城のはずで、室内を撮影するのにどこかの屋敷を借りる必要はなかった。妹は辛辣な性格として描かれ、フランチェスカは彼女の強い態度に口を尖らせて文句を言い返すことはいっさいない。本作の妹はカーラ・ブルーニの実像に近いだろう。彼女はヴァレリアと顔も体格も似ておらず、アルベルトがヴァレリアを一番愛したことは、本能的に妻が浮気して次女を生んだことを知っていたからではないか。
カーラがミュージシャンになったのは両親の血を引いたからと説明がつくが、同じく両親が音楽家であったのにヴァレリアは音楽に才能を発揮していない。その代わり、彼女はダンスが得意で、本作では中年や初老のレオタード姿の男女に混じってダンスのレッスンをするフランチェスカの場面が何度も挟まれる。それも滑稽味を付与するために必要と考えたのだろう。また唐突に、つまり本編の流れからすれば意味不明の、セーヌの川面の板の舞台でフィリッペとタンゴを踊る場面もあって、ふたりの姿は華麗ながらおかしみもある。そのおかしみはフィリッペと出会ってホテルで過ごした後、フィリッペが便意を催し、用を済ましてひとりでさっさとホテルを後にする場面にもある。こういういわば下ネタは本編で採用されなかったボーナス映像にもある。それはかなり不可解な場面で、後述するもうひとりの恋人ピエールと一緒にTVを見ている最中、TV内のアナウンサーがコソボ紛争のニュースを伝えながら、次第に大便の話に移って行く。それを見ながらフランチェスカは顔を覆うが、現実にはあり得ないそういうニュース番組をなぜヴァレリアがわざわざ作ったのか。コソボ紛争と糞の話と混同するのは批判の謗りを免れない気がするが、一方ではヨーロッパであった深刻な民族紛争にわずかでも関心があることを示したかったのかもしれない。とはいえ、コソボはヴァレリアに直接関係する話はなく、やはり無理がある。それでかなり凝ったそのニュース場面と、それを見るふたりの場面はカットしたのだろう。話を戻して、ヴァレリアとカーラは実際は仲がよいのかどうかとなれば、それぞれ違う道に進んでいるので干渉し合わず、さりとてべったりと親しくしているというのでもないだろう。ヴァレリアと母親との関係は、本作以降ヴァレリアは2本の映画を監督していて、どちらも私生活を描いたもののようで、また母親がその役として出演しているので、仲は悪くはないだろう。YouTubeにヴァレリアと母マリサが所有する城の前庭で話す映像があり、ヴァレリアは子どもの頃の思い出として、目覚めると両親がピアノを弾く音が聞こえていたことを話すが、どこかよそよそしさも感じられ、ヴァレリアは母からあまり愛情を受けなかったかもしれない。それはともかく、本作では父が妻を不審に思うことをヴァレリアに打ち明けていたのだが、夫婦の事情は傍からはうかがいしれない。マリサにも言いたいことがあるのだろうが、そのことを本作は描かない。マリサが若い男との間にカーラを産んだことはヴァレリアにどのような影響を与えたか。彼女がその事実を知った32歳では心に大きな傷を負うことにはならなかったと思うが、ヴァレリアも2007年の43歳で19歳年下の男優ルイ・ガレルと一緒に暮らすので、若い男が好きという性質は母を受け継いだかもしれない。
妻は不倫するものであるということをフランチェスカは思い知ったのか、本作で彼女は同棲中のピエールと言い争う場面があり、ヴァレリアの迫真的かつ自己懲罰的な演技が見られる。フランチェスカはピエールを母や妹に紹介し、一緒に家に招いて食事する場面がある。母は革命家のように格好いいと言い、また妹もピエールをほしがり、姉は素敵な恋人を持っているが自分にはないなどと恨み節を言う。ピエールは歴史の先生をしていて、風貌からして経済的に恵まれていない。そして、自分の父はルノーの工場に長年勤務し、疲労で死んだと言い、座を白けさせる。ある日フランチェスカはピエールと観劇するためか、一緒に人の列に並んでいると、フランチェスカは妻は浮気するものといった話を彼にする。ピエールは自分の母は慎ましく生きるのに懸命で浮気する間もなかったと言い返し、それに口応えしたフランチェスカの頬をすかさず平手打ちする。顔にまともに手が強く当たり、その瞬間フランチェスカは後方を向いて列から離れて歩き去る。何度も強く殴られるのは大変で、この場面をヴァレリアは何度撮影し直したのだろう。さすがの俳優で、ふたりが言い合いする場面は真に迫っていた。その一件以降、ふたりには隙間風が吹き、結局ピエールは彼女と一緒に暮らしていたルノワール通りの家におらず、その後ようやく街中でフランチェスカは彼の後ろ姿を見つけて追いかけるが、途中でそれをやめる。それもとても印象的な場面で、ヴァレリアの実際の経験だろう。母の不義に困惑したフランチェスカは、他の男と性交するのはどの主婦でもやっていると思い込むことである意味では気の強い母を許す気になっただけで、彼女自身は同じことをピエールと夫婦になってもやるつもりはなかった。ところがピエールは大金持ちのフランチェスカが不倫を誰でもやっていることとして肯定することに、ブルジョワの醜さを思った。それでちょっとした諍いが原因で別れることになった。それにふたりはあまりにも経済力が違い過ぎた。本作にはフランチェスカの父が3000人をくびにしたというセリフがあり、妻は「ほかのところももっと解雇している」と返す場面がある。そこにピエールの父が自動車会社のラインの仕事で一生を終えたことを重ねると、3000人の解雇は仕方がないとはいえ、巨万の富を持ったままのフランチェスカの家族とピエールの慎ましい境遇の差が浮き彫りになり、本作の題名がなるほどと思わせられる。現実のアルベルトは音楽家である一方、父から継いだイタリア第2位のタイヤ・メーカーを経営し、巨万の富を築いていた。3000人のくび云々はタイヤ会社経営とは明かされないが、背後にイタリアの自動車産業の斜陽化があった。会社経営者が芸術を愛好するあまり会社をつぶす例は日本でもある。それが悪いとは一概に言えず、そうして保護した芸術品が多くの人の心を幸福にする。
フランチェスカが遺産問題で女性弁護士と対談する場面があって、弁護士は遺産額としてフランチェスカは死ぬまで毎日600万円使えるほどの金額がもらえると言いつつ、わたしならそれを拒否せず、アフリカに学校を建てるために使うと言う。これはヴァレリアの実体験だろう。本作では遺産は結局税金対策から母がひとまず全部譲り受けることに書類に兄が署名するが、それが事実であれば母のマリサは現在存命中で、まだヴァレリアは父すなわち母の遺産を受け取っていないかもしれない。女優として多くの作品に出ているので、遺産がなくても生活に困らないと思えるし、また大金は学校を建てるようなこと以外には使い道がない。ルイ・ガレルを招いて彼女が映画を撮ったのは、金の使い道としては妥当であるし、彼と暮らすきっかけをつかみたい思惑もあったのだろうが、40半ばの女性が息子世代の男性と同棲出来るのは、金の力も大きいだろう。それはさておき、ガレルと一緒に写るヴァレリアは幸福の絶頂にある美しさで、それだけに彼と破局した後の彼女のことが気になる。彼女の優しさは貧しい人に同情的であることで、本作はフランスに一家が移住することになる原因となったイタリアの「赤い旅団」の青年たちとの関わりを描く。本作のDVDは箱入りで、そこには赤を背景に赤い服を着るヴァレリアの写真が使われる。本編でも赤い衣服が特徴的に使用され、色彩へのこだわりが伝わる。その赤は彼女が赤が好きという単純な理由ではなく、「赤い旅団」つまり共産主義の赤を思ってのことだろう。70年代初頭、彼らは北イタリアの富裕層を誘拐して身代金を得て活動資金にしていた。本作でも幼ないヴァレリアが小さな車で彼らに誘拐される場面がある。それが実話かどうかわからないが、アジトに匿われた彼女は怖がらず、それどころか彼らを自宅に招く提案をする。それを受け入れた青年たちは丁重にもてなされたが、その事件をきっかけにアルベルトはフランス移住を決めたのだろう。ヴァレリアはその後も「赤い旅団」に同情的であった。彼ら貧しい人々が工場で働くことで、父の企業も成り立っていたことを知っていたのだろう。誘拐という暴力的行為は肯定されるものではないが、ほかに方法があるかとなれば疑問で、工場のラインで長年勤務し、疲労で死ぬというのも会社の暴力ではないか。日本を含めていつの時代でも同様のことが疑問視されずに行なわれている。筆者がこれまで見たヴァレリアが39から41歳までの映画の4本に、妊娠願望ないし子どもを産む場面があって、妹と違って彼女に権力者崇拝の思いはなく、聖母子に憧れていたのではないか。ではさっさと結婚するか、あるいは同棲してでも子どもを作ればよかった気がするが、妊娠しにくい体であったのかもしれない。そうであれば、本作冒頭でフランチェスカがぼんやりと児童公園で遊ぶ母子たちを眺める場面はあまりに痛々しい。
フランチェスカが子どもの頃の場面に、妹と聖書の話をする場面がある。死ねば死体が小さな虫に食べられることや、アダムとイヴの話を妹に聞かせるのだが、イヴが楽園のりんごを1個食べてそこを追放されたことに合点が行かないようで、神様はそのイヴの行為を許してあげればいいのにと言う。なぜりんごを1個食べたくらいで大きな罪を背負わねばならなかったのか、大人は子どもにうまく説明出来るだろうか。子どもに聖書の話を聞かせるのは大人になってもあまりよい影響はないかもしれない。ミシュレの『女』にも聖書は若い人に読ませたくないと書いてある。それは「聖書の大部分の巻が書かれたのは夕暮れか夜だったように思われる」からで、「あの書物は中世時代の神秘家たちの、いらいらさせるような無気力さをもっているわけではない。あまりにも嵐をはらみ、不純で不安定なものになっているのである。あまりにも早く聖書を読ませるのを私に躊躇させるもう一つの理由は、いたるところでユダヤ人が自然への憎しみを表明しているからである。エジプトやバビロンの魅力は明らかに恐れられている。…子供は無邪気、快活、澄み切った明るさ、自然に対する、特に動物に対する共感といったものを持つべきなのだ。ところが、ユダヤ人は動物たちをひどく残酷に、毛ノハエタモノという醜悪な名で呼んでいる。わが娘は、あらゆる生命を祝福した昔のオリエントの優しい感情を、むしろわがものとしてくれるように!」本作の脚本がとある監督に厳しい評価を受け、それで喜劇風味を大幅に加味したであろうことは正しい。幼ないヴァレリアは明るく純粋で、彼女はそのまま大人になったであろう。聖母信仰が盛んな北イタリアで生まれ、聖母子の姿に憧れながらそれになれず、また金持ちは天国には行けないという聖書の下りを思い返すに、どう生きればいいかと大人になっても心のどこかに引っかかり続けたのだろう。彼女を起用して映画を撮ろうとする監督は、彼女の年齢相応の役柄、そして彼女が普段強く思っていることをなるべく受け入れ、それに沿った脚本を書くほうが楽であろう。それで40歳前後の彼女の役柄として妊娠ないし出産が絡んだのだと想像する。現実の彼女が出産しなかったことは不幸かと言えば、忙しい女優であり、自分で監督してどれも自伝的な映画を3本撮った。それらが子どもの代わりになった。それに本作での幼ない彼女は妹相手に、アフリカの子を養子に取ると言っている。彼女がアフリカの赤ん坊を養子にしたのは2009年で、45歳になって出産を諦めたのだろう。黒人の養子はルネサンスの絵画で描かれる聖母子像とは隔たっている。彼女は聖母子信仰を認めながら、キリスト教に全面的に賛同していないのかもしれない。貧しい人を助けることが聖書の教えとすれば、最も困窮しているアフリカから養子を得ることは全く正しく、純粋な精神の表われだ。
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