「
慎みは 言葉少なに 宿りけり もの言わぬ花 どれも貴婦人」、「今年また 鶏頭の花 咲きたるは 世話する老婆 元気な証」、「犬猫に 人の思いが 通ずれば 花もそのはず 心で語る」、「鶏頭の 花は迷路の 如くでも 何を悩むや 神無き月に」
今日も花の話題。5日に太秦の大型スーパーに出かけたのは、右京警察署西100メートルほどにある、
9月5日に見て写真を撮った久留米鶏頭がその後どうなっているかを確認したかったからだ。そして撮ったのが今日の最初の写真だ。ちょうど1か月経って花は大きく育っているが、去年に比べるとかなり小さい。今日の2枚目の写真は15日の撮影で、車が停められていたので同じ角度で撮影出来なかったが、また少々大きくなっている気がする。秋の草花であるから、まだ大きくなるかもしれない。相変らず花の世話をするお婆さんの姿を見かけないが、なぜ気になっているかと言えば、去年の立ち話で広隆寺の地蔵さん前に立派な鶏冠鶏頭が咲いていると聞いたからだ。お婆さんの家の背後に東西に長くて広い駐車場があり、そこの東端は寺の東門になっていて、駐車場の片隅に自転車を停めればそこから入ればたぶん拝観料を払わずに、境内のどこかにあるお地蔵さんを探せるが、何度もその駐車場の出入り口つまり三条通りを自転車で走りながら、駐車場のどこに自転車を停めていいのかわからず、また勝手に停めて東門から入っていいのかどうかわからず、いつも機会を逃す。お地蔵さんはたぶん「腹帯地蔵」と称するお堂だろう。そのことをお婆さんに確認したいのだが、腹帯地蔵であったとして、今年は鶏頭が咲いているかどうかわからない。筆者はそんなもやもやした気持ちをほかにもたくさん抱えているので、そのうち忘れて来年の夏になればまた思い出すのだろう。気の長い話だ。仏師のOさんからは思うことが多過ぎると言われるが、そのとおりかもしれない。頭の中をカオスにしておき、その中から何か形になるものを見つけることが好きなのだが、ミシュレの『女』にこういう下りがある。「私はこの世にはただ一つの幸福しかない、つまり創造すること、つねに創造することにしか幸福はないと分かっているから、……」この後ミシュレは4歳の娘の創造性の育みに努めたことを書く。それは水晶の形をした木製の玩具を与えたことで、現代では子どもなら誰しも与えられる積み木を思えばよい。今はそういう玩具が時代遅れとみなされているのかどうか知らないが、玩具も電子を利用する時代で、画面を見て遊ぶことが主流になっているのだろう。筆者が鶏頭の花を母から教えられたのは小学生になる以前で、その赤い花の鶏冠状の形に強い印象を覚えた。今の子どもは図鑑やネットで簡単に多くの花の形や色を知ることが出来るが、それが幸福とは一概に言えない。まず本物を初めて目の当たりにして不思議に感じること。それは生涯を通じて消えない記憶を刻印する。
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