「
碑に刻み 永く伝える 思いとは 石の硬さに 重ねる強さ」、「深読みの 楽しみなきは 味気なし 謎に魅せられ 謎めき得たり」、「絵と言葉 その連なりの 人生を 深読みさせる 映画に託し」、「絵詞の 巻物ごとく 展開を 望みつ落ちを 見ぬ吾ブログ」
イタリア語を話せてヴァレリア・ブルーニ=テデスキに会うことが出来れば、「水の寓話」のロケ地がどこかを訊ねたいが、自分で調べる楽しみもある。昨日載せた2枚目の写真は、イタリア北部に山が連なるので、ヴァレリアの乗るバイクは東に向けて走っているように思える。とすればヴァレリアの後ろに乗るインド人青年にヴァレリアの影が少し映っているので、朝と考えてよく、そのことは不法移民が山を下った時間帯と符合する。3枚目の写真は背後の山に光が当たり、また車に乗ろうとしている前方のふたりの背後に落ちる建物の影からして、山は真北ではなく、西向きに近いようだ。それよりも注目させられるのは最も左の尖った山だ。このようなきれいな円錐形の山はアルプスの奧には多くても、平地に近いところでは珍しい。トリノ西方10キロほどで突き当たる山かと思ったが、そこには写真2,3枚目に見えるような山の連なりはない。因みにそのトリノ郊外の山は最も高いところはサン・ジョルジュ、その麓の小高い山はサン・ヴァレリアと名づけられて礼拝堂や洞窟があって、ヴァレリアの名前はこの山に因んだものだろう。トリノ近郊では最も目立つ形の山で、山岳信仰の土地になっていても当然であろう。次に映画に映る尖った山かと考えたのは、サン・ヴァレリア北方4,5キロに位置するモンテ・ムジネだが、やはりそれも違うようだ。それにしても昨日の3枚目の写真では車に乗ろうとするヴァレリアの背後に尖った山があって、ベルトルッチ監督はヴァレリアに山を重ねることを意識していたことは間違いない。もっと言えば本作は山が主役で、山から下りて来た移民が山裾の女と所帯を持ち、やがてまた山に還って行くと読み解いてよい。それほどに北イタリアでは山が人々の生活を支配していることを示唆するが、日本の山梨県のようにどこに行っても山が見える地域だ。それゆえ監督はさほど山を映すことを意識しなかったとみなすことも出来るが、最初から最後まで山は印象的で、筆者が本作をOさんとまた見たくなったのは、ヴァレリアの背後にある山が土地柄を説明するのに欠かず、またイタリア人ならその山を見ただけでそこで女の気質も即座にわかると監督が考えたのではないかと思ったからだ。となると北イタリアのどこであってもよく、また監督はあえてそのように撮ったと言えるが、グーグル・マップで調べられる時代であるので、気になって仕方がない。ところで今日の最初の写真は車が落ちた川の背後に山が見える。2枚目はインド人の夫が山に向かって歩いて行く場面で、それと同じ山かどうか。
2枚目をよく見ると、右端中央に水平に鉄路のような一段高い土地が続いているのがわかる。不法移民は貨車から降りたのであるから、インド人青年がヴァレリアに出会った場所は近辺に線路があったと考えてよい。そしてグーグル・マップに頼れば、北イタリアで走る鉄道は容易にわかり、調べる条件がかなり絞れる。そう考えてまた国境に近い山間の土地まで調べ直しているが、やはり昨日の2,3枚目の山の連なりは見つからない。今日の2枚目の場面では、川は広大に見える畑にあることがわかり、国境近い峡谷の町や村ではないことが想像出来る。ただし監督はいくつかの異なる場所で撮影し、それらが同じ地域であるかのように見せたかもしれず、昨日の2,3枚目の道路の向こうに見える山のこちら側、つまり経営するガススタンド兼バーの背後に山が迫らず、畑が広がっていると結論づけることは出来ない。何が言いたいかと言えば、物語の辻褄を合わせるために本当は国境近い寒村で女店主が店を経営する場面のロケをしたかったが、種々の事情から店をもっと南のたとえばトリノの近郊辺りで撮ったということだ。結局重要と考えられたのは、山が迫る地域で、周辺に店はきわめて少なく、ガソリンを売り、トラック運転手が一杯飲むような国道ないし州道沿いのバーを示すだけでよかったことだ。昨日の2枚目の写真はバイクの後方に大型トラックが同じ方向に走り、バイクを追い抜く場面で、トラックは監督が意図して走らせたものに違いない。トラック運転手は色気のあるヴァレリアのような女が経営している店を選びがちで、また彼女のほうもそれを当てに商売をしているという設定だ。そういうきわどさのある女であるので、道端でたまたま出会った異国の青年をすぐに家に連れて行き、匿いながらも子をもうける行為をする。またそういうことを近隣に噂されても気にしない女をヴァレリアはよく演じている。日本と違って多くの民族が隣り合っている大陸であればイタリア女がインド人と結ばれることもさほど不思議ではないだろう。本作の時代設定が公開当時と同じ頃とすれば、イタリア北部にもインド文化が入って来たことを示唆し、そのことが実際にあったのかどうかという興味を起こさせるが、以前の男の子である娘が唇にピアスをするなど、田舎とは思いにくいファッションをするように描かれているので、地元の顰蹙があっても夫がインド人であればその好みが店に色濃く反映することは不思議ではない。話は変わるが、チキンラーメンを発明した安藤百福は「みんぱく」の館長らを動員してラーメンの起源を調査し、シルクロードを通じて麺文化がイタリアに浸透し、パスタを生んだと結論づけた。それを思えば本作でインド人がイタリア女と結婚して店を盛り上げることは意外ではない。ただしその生活は長く続かず、子孫を残した、つまり東洋の遺伝子をイタリアに遺したことで男は姿を消す。
その失踪は寓話だ。監督は遅かれ早かれ人は死んで姿を消し、残るのは子孫であることを示すだけでよかった。そこに家族主義の思想が露わになっているとの批判があろうが、独身を通し、子は不要と思う女の自由を描く映画はまた別にあってよく、また実際にある。それはそれで、その観点から本作を批判しても仕方がない。本作でヴァレリアはどのような思いで母親を演じたかだが、ふと見せる彼女の息子に対する優しさや、またどこか疲れて首に皮膚の弛みをひどく見せる場面など、40前後の女を体現していることには大いに好感が持てる。数日前に長澤まさみがビールのCMに出ているのを見た。ことさら強調した笑顔で20代前後の女性のかわいらしさを演じているようで嫌な気がした。CMなのでそういう個性を演じることが求められているのかもしれないが、ならば本物の20歳を使えばよい。30半ばの彼女は売春婦を含めた汚れ役も出来るのだろうが、一瞬でも「ぶりっ子」を演じるのは見苦しく、年齢に抗う雰囲気作りは筆者は好きではない。以前にも書いたが、その点本作のヴァレリアはインド人青年に出会った頃からその後10年近い歳月を経た母親役までを見事にこなし、年齢相応の時期に本作に出会った。本作でヴァレリアは男運のない女として描かれ、またそのことは後の彼女の実際の人生を見ても暗示的で、女優は演技する作品によってその後の人生が大きく左右されるのではないかと思ってしまう。本作で演じるヴァレリアの安っぽい女ぶりに、ベルナルド・ベルトルッチ監督のちょっとした皮肉の眼差しを感じる。トリノの名門の出自であるのに、それとは正反対の下層階級に近い、また蓮っ葉な役が似合っているからだ。演技であるから自然に振る舞うことが求められ、本作の彼女は実像から遠いかもしれないが、女なら誰でも持っている男を惹き寄せる本能の発露の点では、貴族でも売春婦でも同じで、ヴァレリアはそのことをよく理解して演じている。そこで彼女の実像が貴族か下層階級か、どちらに近いかと想像するのだが、いずれにしても男にとって女は女で差はないという身も蓋もない思いと、やはり育ちは人柄に大きく影響し、ヴァレリアには貴族らしさが拭えないと見る人があろう。だが物事はそう単純ではなく、平民の出が高貴さを持ち、貴族出が下衆という場合もある。本作でヴァレリアが場末のバーで働く様子は、先日感想を書いた
『ぼくを葬る』で再現された。同作と同じく、本作でヴァレリアは雑巾がけをする。その仕草がごく自然で、あたりまえと言えばそうなのだが、女はそういう掃除をすべきという暗黙の、つまり男尊女卑と言ってよい風習が垣間見える。ヴァレリアは雑巾がけをせずに済むように育ったのかどうかは知らないが、演技の一環として世俗のひととおりの女性の作業はそつなくこなせることを強いられるのは当然で、またそれを彼女は見事にこなしている。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する