「
穏やかな 陽射しもあれば 雨もあり 人も同じと 悟りて次は」、「背の高き 芒の群れる 高原に 花のごときの 人見え隠れ」、「紅葉の 造花を飾る スーパーに 栗に松茸 柿やイチジク」、「イチョウの 実を踏み臭き 道路過ぎ キンモクセイの 香りに気づく」
今日も一昨日の午後の散歩で撮影した写真を使う。植物ばかり撮ったので書く内容も変化に乏しく、あまり気が進まないが、投稿機会を逃せば写真は没になってもったいない。という理由は半分だけ当たっている。もう半分はほかに考えていることに気が取られ、またそのことが書くほどの思いにまとまっておらず、中途半端な状態にあるからだ。つまり今日の投稿は道草のようなもので、実際散歩中の路傍の草について写真を使う。さて、天龍寺近くの町名に「芒ノ馬場町」があって、桂川左岸の渡月橋付近は芒が多かったのだろう。今は1本も生えず、ホテルやお土産店がひしめいている。それでも芒は桂川の河川敷にぽつぽつと点在し、昨日投稿した葛などの雑草の原にヒガンバナがわずかに咲くのに似て、またそれとは違って背丈が高い芒は大海原に突き出る潜水艦の潜望鏡のような具合で確認出来る。その様子が面白いので写真を撮ったが、昨日のヒガンバナのようには目立たないので没にする。もっと面白い様子はないかと、河川敷を見つめながら、そして前後からひっきりなしに猛速度で通り抜けているサイクリングの自転車を気にしながら、自転車道路を上流に向かって歩くと、今日の最初の写真の芒を見かけた。綿毛に包まれた様子が老人の白髪のようで、触るとふわふわして楽しい。これを1本だけ見かけ、また穂のすぐ下が折れていたので、写真を撮るために自転車道路の手すりを越え、河川敷に飛び降りずに手を伸ばして穂の向きを変えた。すぐ右は葛の葉、奥に見える建物は対岸の罧原堤だ。これで芒の写真はもういいかと思っていると、数十メートル先に今日の2枚目の芒の株を見かけた。写真のように全体が崖から生えているような格好で、芒の穂は真上に向かずに水平に近い。なぜそんな具合になっているかと言えば、写真には収めなかったが、木が邪魔をしているからだ。木の立場からは根元の片側が占領されて迷惑だろう。芒の穂は季節のものなので、筆者は木を無視し、芒中心に写真を撮った。またどうせなら絵画的構図を狙う。芒の穂が横向きなのが幸いして面白い写真になった。中ほどに遠く見える山は東山や比叡山辺りだ。写真を撮りながら思ったのは、左上に折れた芒が1本あって、その指す方向に長い茎が沿い、さらにその先に赤や黄の小さな花があることだ。そして画面右はコスモスの淡い桃色の花が見える。こうした秋の野草を琳派が好んだことはよくわかる。平安時代の芒ノ馬場町にあたりまえにあったはずのこういう眺めが今は渡月橋から1キロほど下流の河川敷にある。桂離宮辺りではもっと多いと思うが、筆者はめったにそこまで出かけない。
外来の植物が侵入し、日本古来の植物は棲息範囲が狭められ、桂川の河川敷も平安時代とは植生を異にするという意見はあるだろう。それを言えば平安時代でもおそらく中国からもたらされた植物が僧の管理から逃れたに違いなく、日本古来という表現はどこまで正しいかは誰にもわからず、決められない。それはともかく、2枚目の写真を撮った後、目を足元に落とすと、3枚目の光景が目に入った。芒は背が高く、陽射しを好むが、芒に光が遮られないごくわずかな土地に小さな草花が陣取っている。写真中央やや上はアカツメクサ、右端にキバナコスモスが見える。中央やや下の小さな赤い花は名前を知らない。その蕾が下中央ほどに突き出ているのがかわらしく、あえて写真に収めた。左のやや太い茎の葉はキクナそっくりなのでキク科だろう。牽制し合いながら共生している様子を見るのは楽しい。同じ河川敷には同様の陽当たりの場所はほかにもあるはずで、珍しい花も咲いているだろう。この種類豊富な花の様子は夜になると見えなくなるが、代わりに秋虫の大合唱が聞こえる。数年前に少年補導委員をした時、9月、10月の集団夜回りに筆者は小型の録音機を持参し、この自転車道路を他の委員たちと歩きながら、虫の声を5分ほど録音した。その時はさらに数年前に歩いた時のようなうるさいほどの大きな音色でなかったことが残念であったが、それでも5つか6つ、あるいはそれ以上の種類の秋虫が鳴く様子は終日聞いていたくなるものであった。秋虫は日中も鳴くが、気温が高く、陽射しが強かったせいもあるのか、一昨日は耳にしなかった。とはいえ色とりどりの花が生きて行くにはそれらの虫は欠かせず、野草を見れば虫や野鳥を思い浮かべることが正しいだろう。串田孫一の山登りについての随筆には野鳥の名前が多く登場するが、筆者はそれらについてほとんど知らない。鳥の名前を書き出し、ネットで検索すれば鳴き声や姿の写真もわかるが、それをしてもあまりありがたみはない。鳥の鳴き声は身近で聴いて感動するのでない限り、印象に残らない。逆に言えば、耳慣れない鳴き声の鳥がわが家の裏庭にたまに飛来すると、姿は見えないのでなおさら神秘的で印象深い。高山植物や高い山に棲む鳥の色や形、鳴き声を知るのは登山を愛する人だけの特権で、筆者にはそれがない。京都は山に囲まれ、その西の端に住む筆者は毎日間近に山を見ているが、人の手が入った山とは違って、成り行きに任されている桂川の河川敷のほうが野草や秋虫は密集しているのではないか。京都を紹介するTVの旅番組では鴨川が取り上げられ、桂川は渡月橋が映る時についでに見えるだけだが、江戸時代に両岸が整備されて川幅が狭くなった鴨川には芒が生える場所はなく、今日の3枚目の写真のような草花も育たない。とはいえ、たまにオオサンショウウオが見つかる。「山を背に 遠くに臨む 東山 日の入り待ちて 秋虫騒ぐ」
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