「
諧謔は 快のギャグとは 限らぬも 怪の逆とも 断言出来ぬ」、「葛の根は 葛粉になるも 採る気なし 手間に比べて 買うのが安し」、「雨多く 今年はわずか 実のむかご 地中の芋も 弱っているか」、「安物の 松茸買うて 匂いなし 御飯に混ぜて 土瓶で蒸さず」
10月に入っても日中の気温が30度で、外出すると半袖のシャツが汗びっしょりになる。ところで彼岸を過ぎてもたまにヒガンバナが咲いているのを見かける。それはあたりまえで、人間が勝手に彼岸の花と名づけているだけで、当のヒガンバナは彼岸過ぎても咲きたい時に咲く。隣家の裏庭の片隅に1本だけ今年はヒガンバナが咲こうとしていたのに、雑草の始末をした時に誤って花の芽を切ってしまった。根が残っているので来年は咲くだろう。昨日ひとりで渡月橋から松尾橋の間の桂川右岸の自転車道路を歩いた時、葛などの雑草が海原のように広がる踏み込めない河川敷に、ヒガンバナがごくわずかに咲いていた。蝶はその朱色目指して蜜を吸うために吸い寄せられるだろう。筆者は目が吸い寄せられ、写真を撮った。今日の2枚目は別角度で撮ったものをトリミングして花を大きくしたが、雑草の蔓に目が行く。河川敷に下りられるが、写真からわかるように雑草が密集し、地面がどうなっているのかわからない。割れたガラスなどのゴミが散乱しているはずで、また野犬はいないとしても鼠などの小動物はいるだろう。20年ほど前には雉などの珍しい野鳥もそれなりにいたが、昨日書いたように重機用の仮設道路を造り、そして河川敷の高さを削った際に、水辺の野鳥の棲家が消失したと聞く。全滅したかどうかはわからないが、たぶん雉はもういない。家の庭の雑草はだらしない証になるが、河川敷が草ぼうぼうで、たまに大きな柳やまた女竹の藪があって蔦や葛が絡まっている雑然とした様子は、人の手が入らない自然をわずかでも感じられ、筆者は眺めるのが好きだ。松尾橋のすぎ上流の左岸がそのような状態になっていて、橋の歩道の欄干から手を延ばせば柳の枝に触れられほどだ。そんな時筆者は猿になった気分で橋から飛び移り、するすると枝を伝って河川敷の地面に降りられるのではないかと思う。渡月橋北詰めの下流側にもそのような大きな木の枝が、欄干より高く、また欄干に被さっていて、やはり同じように猿になって飛び移る自分の姿を想像するが、もちろんよほど小さな猿でなければ枝はすぐにちぎれる。ムササビなら大丈夫だが、いるだろうか。そう言えば今年はオオサンショウウオを見かけた話を「風風の湯」の常連の85MさんやYさんから聞かなかった。雨の日が多く、桂川の支流の小川が濁り続けていたせいもあるだろう。ひょっとして豪雨でずっと下流まで流されたかもしれない。60センチほどのものが澄んだ小川でじっといる様子の動画をYさんから去年の真夏に見せてもらったが、今頃ではもう嵐山まで下って来ないだろう。真夏日の気温が続けばわからないが。
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