人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●「VIOLIN SONATA A-major」
るほど 長く伸びたる 後ろ髪 何か未練の 徴と見られ」、「書くことで 未練なくしつ 問い直す 新たな謎に 輝きあるか」、「晩成を 願いて終わる 小粒でも 負けじと言いし 吾は山椒」、「褪せてなお 味わいある 絵のごとく 老いたる人の 露わな個性」



●「VIOLIN SONATA  A-major」_d0053294_01131209.jpg
少し蒸し暑い日が続くが、お彼岸も終わって秋のよさをしみじみ味わえる頃になった。そんな時にふさわしい音楽と言えばおおげさかもしれないが、今日はフランクの有名なヴァイオリン・ソナタを取り上げる。この曲を筆者が初めて知ったのは京都に住むようになり、日中仕事しながらNHKのFM放送を朝から夕方までずっと聴きっ放しであった時期で、たぶん30歳頃と思う。人気曲なので半年に一度は放送されていた。それででもないが、レコードもCDも買わなかった。そのため誰の演奏が最も好きというほどの関心はなく、たまにラジオで聴くことで満足しつつ、やがてカセットに録音した。それを先ほど探した。54分収録可能のテープで、この曲は片面の27分にちょうど収まる。ラベル・カードの鉛筆書きによれば、A面はアンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリンにランバート・オークスのピアノで、1989年12月9日、サントリー・ホールでのライヴ演奏だ。B面はフォーレの「ペレアスとメリザンド」などを録音していたが、後にフランクのヴァイオリン・ソナタを重ねた。カセット本体のシールに1982年11月17日、昭和女子大学人見記念講堂でのメニューヒンの演奏と書いているが、シールはA面用で、どちらの面がアンネ・ゾフィーでメニューヒンかわからない。メニューヒンの演奏はアンネ・ゾフィーよりも7年前で、それを後からエア・チェックしたのは、NHKが古い録音を紹介したからで、筆者が先に聴いて録音したのはアンネ・ゾフィーだ。それがA面であったが、後にメニューヒンの演奏をB面に録音し、B面のシールを剥がしたままにし、手元にあったA面用シールにメニューヒンの演奏であることを記して添付したはずだ。聴き比べると、やはりA面のメニューヒンはとても枯れた味わいで、当時66歳であることを納得させる。もっとも、筆者がカセットに録音した際の音量の差が大きく、メニューヒンの演奏は、当初A面その後B面となったアンネ・ゾフィーの録音よりも音がやや小さい。ところが演奏そのものの迫力がアンネ・ゾフィーのものはやはり若々しく、力強い。演奏当時26歳で、メニューヒンとは40も差があり、さすが一聴してどちらが誰かがわかるし、演奏後の観客の大轟音の拍手からアンネ・ゾフィーの人気のほども伝わる。筆者はどちらかと言えばより古風なメニューヒンの演奏がいい。メニューヒンはフランク没後から26年経っての生まれで、19世紀の香りをより伝えるはずだ。また枯れた味わいの演奏は全体に静かなこの曲に似合っている。ところで筆者が記したシールには「ニ短調」としているが、「イ長調」が正しい。
 ヴァイオリンの代わりにヴィオラで演奏した録音も確か所有しているはずだが、探すのが面倒だ。昨夜はコルトーがこの曲をピアノのみで演奏するために編曲していたことも知り、YouTubeでその演奏を聴いたが、本来ヴァイオリン・ソナタとして書かれたのであるから、やはりピアノのみでは物足りず、またこの曲の午睡の夢のような雰囲気をピアノのみで表現することは無理な気がする。吉田秀和が言っていたが、ヴァイオリン・ソナタはヴァイオリンとピアノで演奏するのであるから、本来はヴァイオリンとピアノのためのソナタと言うべきなのに、ピアノ・ソナタはピアノだけの曲であることに対し、ヴァイオリンだけのソナタは珍しいせいか、ヴァイオリン・ソナタと言えばヴァイオリンとピアノで演奏する曲を指す。そしてどちらの楽器も聴かせどころを持っているのが普通だが、ピアノの音量はヴァイオリンよりも大きくなりやすく、本曲は録音の際に双方の楽器のバランスが問題となりやすいと想像する。メニューヒンとアンネ・ゾフィーの演奏は、ピアノがヴァイオリンに合わせた従の立場をわきまえている。ところが有名なピアニストを起用すると、その持ち味を期待するファンがいるから、ヴァイオリンに負けじと大きな音を出しがちではないか。そのことを感じるのがチョン・キョンファとラド・ルプーの演奏だ。このCDを聴きながら筆者は戸惑っている。ごくたまにカセット・テープを引っ張り出して聴いて来たメニューヒンとアンネ・ゾフィーの演奏とかなり違うからだ。キョンファにすればかなり遠慮気味の静かな、そして音量が小さな演奏で、ピアノがかなり目立っている。これではヴァイオリン・ソナタらしくないとやや不満だが、その透き通るようなか細いヴァイオリンの音色は神秘性が露わで、これこそフランクが求めていた音ではないかという気もする。それに第2楽章の最後の素早く激しい部分はさすがにキョンファで、めりはりがとても効いている。目下のところ本曲の最大の愛聴盤というほどでもないが、キョンファらしい演奏に大いに納得している。因みに1980年、キョンファ32歳の録音だ。キョンファはオーケストラとの共演が聴きもので、それほどにスケールが大きいが、こういう静かな曲に、変な言い方になるが、強気、元気な彼女の女らしい面が出ていて味わい深い。それはさておき、今日はキョンファのことを書く気はなく、本曲を書いたセザール・フランクについて以下少々書いておく。本曲はあまりにも有名で、また本曲のみでフランクの名が知れわたっているところがある。それはフランクにすれば不本意だろう。そんなことを筆者は思って彼の別の曲のCDを昔買った。20年ほど前と思う。ただし、めったに聴かず、たぶんこれまで4,5回で、曲の本質を理解したとは言い難い。それでここ数日は集中して聴いているし、また新たにCDを注文した。
●「VIOLIN SONATA  A-major」_d0053294_01133007.jpg アマゾンで調べると2年前にフランクの23枚組CDボックスが発売された。6000円ほどなので買ってもいいが、手元にはまだ聴いていないCDがたくさんあって、たぶん埃を積もらせる。それに前述の発注したCDはそのボックス・セットに収録されない珍しいヴァージョンで、まずはそれを聴いてからだ。話を戻すと、20年ほど前に買ったCDは「交響曲 ニ短調」と交響詩「プシシェ」が入っている。どちらも1888年、死ぬ二年前の66歳に書かれた。64歳作曲のヴァイオリン・ソナタに比べて演奏される機会ははるかに少なく、たぶん筆者はNHK-FMで聴いたことがない。あっても印象に残らなかった。このCDを買ったのはヴァイオリン・ソナタの独特の雰囲気がどのように大規模に展開されているかに関心があったからだ。期待外れと言えば筆者の無理解を晒すことになるが、あまり特徴を感じなかった。だが、今回繰り返し聴いて思った。その特徴のなさのような、つまり捉えどころがなさそうなところこそ、フランクが求めたものではないか。音楽とは元来そういうものだろう。次から次へと音は鳴るが、それは次から次へと消えて行くことであり、その湧いては消えて行く音の連なりに何を思うか、その思うこと、思えることが価値で、捉えられそうで捉えられない何かを感じられるところに、音楽を聴くことの醍醐味がある。そんなようなことを筆者に最も思わせて来た曲がフランクのヴァイオリン・ソナタと言ってもよい。そして最初に聴いた頃から40年経った今、筆者は同じ気持ちでこの曲を聴き、同じ気分に浸ることが出来る。それは40年が一瞬であったという、考えてみれば恐ろしい現実だが、逆に言えば40年も変わらずに真実のような何かをこの曲によって支えられて来たことへの感謝でもある。おそらく筆者が本曲を聴いて思い描く真実の愉悦のようなものは、凝視しないだけで誰でも感じるだろうし、また何によって感じてもいいものだが、筆者の場合は仕事しながら40年の間、何度もたまたま聴いて来たことの思い出につながりながら、この曲が持つ覚えやすい旋律をつい口ずさみたくなることが毎年のある季節、ある時間帯にあって、毎回新鮮な思いが蘇るところに、流行歌では決して得られない芸術の永遠性を感じずにはおれない。そこでフランクという作曲家に興味が湧き、他の曲をもっと知りたいと思うのだが、まずは「交響曲 ニ短調」と「プシシェ」だ。後者の「PSYCHE」は英語の「サイケ」で、「サイケデリック」からカラフルな色合いの音楽を思い浮かべる人が多いと思うが、とても静かな、やや哀しみを帯びた曲で、「交響曲 ニ短調」に比べて捉えどころがない。「プシシェ」はギリシア神話のエロスとプシシェ(プシケー)の物語を題材にしている。プシシェは古代ギリシアでは息や命、魂を意味し、ローマ時代の小説では美女としてエロスと夫婦になるように描かれる。
 フランクは後者に沿って交響詩「プシシェ」を書いた。となればとても官能的な音楽と捉え得るが、フランクは元の小説のエロスが自分の姿を明かさぬままプシシェを天上に誘う様子を繊細に描き、その精神性、光の輝きを一旦感じると忘れ難い印象をもたらす。つまり稀有な曲だが、筆者は少々思い当たることがある。これも80年代のことだが、NHKのFMでブルックナーの交響曲のシリーズ放送を録音していた時、第7番の冒頭部にとても感銘を受けた。今でもブルックナーの交響曲では第7番が最も好きだが、その第1楽章が少しずつ光が射して行く様子を思わせるからだ。ところが「プシシェ」にも同じような光がもっと微妙にきらめいている。その意味ではサイケデリックと言ってよい。そこで気になって調べると、フランクとブルックナーは同じ世代で、しかもフランクも教会のオルガニストとして生きた。さらにフランクはブルックナーのオルガン演奏を聴いたこともあって、フランスとドイツは偉大な作曲家を同時期に輩出していた。日本ではブルックナーの人気は80年代以降大いに高まったが、フランクの人気はヴァイオリン・ソナタに留まり、前述の23枚組CDも日本の購買者のコメントが皆無だ。これは日本ではドイツ音楽が昔から圧倒的な人気を保っているところからもっともなことで、さらに言えばフランスの音楽は軽くて論じる対象にないという意見も筆者が若い頃には目立った。今もそうだと思うが、それに対する反感もあって筆者は若い頃からラヴェルが好きであった。ところがラヴェルあるいはドビュッシー以前となると夢中になれる作曲家がいない。話は変わるが、去年読んだ串田孫一の山登りについて書いた本に、登山にまつわる曲はリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」があるが、それ以前にヴァンサン・ダンディが書いているという下りがあった。早速そのCDを入手しようと思いつつそのままになっているが、串田がヴァンサン・ダンディのその曲を聴いたのは昭和30年代から40年代半ばのはずで、そういう珍しい曲を知るほどにクラシック音楽に造詣が深いことに感心した。それが知識人というものだ。それはいいとして、ヴァンサン・ダンディはフランクの一番弟子で、音楽における精神性をどのように引き継いだのか、その登山を題材にした管弦楽曲をいずれ聴く必要がある。さて、WIKIPEDIAはフランクの生涯をうまくまとめていて教えられるところが多いが、結局のところ彼の音楽にじっくり耳を傾けることが一番で、その意味で23枚組CDを全部聴くのがいいが、先に少し触れたように、「プシシェ」の本来の全曲版はそのボックス・セットには収録されない。その全曲版を収めたCDが届いてからフランクについて書いてもよかったが、今日はヴァイオリン・ソナタについて書くべきで、「プシシェ」まで話を広げる必要はない。
 「交響曲 ニ短調」は3楽章形式で、ロマン派の色合いが濃厚だ。第2楽章は20世紀半ばのロマンティックな映画音楽を先取りしている感があっていかにもフランス的だ。ヴァイオリン・ソナタほどには聴き込んでいないのでまだよさがよくわからないが、わかると言うのは感じるところがはっきりとして心地よいという意味で、耳馴染む必要がある。何度聴いても覚えにくい曲はあるが、たいていは聴き込むほどに細部がよくわかり、より楽しくなる。それには楽譜を見ながら聴くのが最適だが、フランクの音楽は記号の集成のイメージがちらつかないほうがよい。それを言えばどのような音楽もそうだが、フランクが目指したのは神秘性と言えばいいか、音の塊が手に取るようにわかるといった、つまり音の響きの楽しみの向こうにある音を使って感じさせたい何か別のものの気がする。そう思うので筆者は長年フランクのヴァイオリン・ソナタは誰の演奏でもよかったし、今もそうだ。カトリック教会のオルガニストとして生活する中で、ミサのしきたりなど身近に感じる宗教の神秘性がフランクの場合は他の音楽家以上に重要な何かをもたらしたであろうが、「プシシェ」は多神教の物語を用いた交響詩で、フランクはキリスト教に限らない神秘性に関心があったのだろう。それは珍しいことではなく、時代の好みに応じただけであったとも言える。ワグナー以降の音楽は半音音階を多用し、その点はフランクも多用し、そのことはヴァイオリン・ソナタにおけるどこか不安定さを感じさせる旋律にも表われている。その半音音階は20世紀に入ると1オクターヴ内の12音を等しく使って調性を無視する方向が生み出されるが、そのような無調音楽になる一歩手前の情緒豊かな、印象主義的ですらある音楽の名曲をフランクは最晩年に書いた。だがそれはとても脆く、一時期のみに可能であったろう。キョンファのCDでは本曲の次にドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを収録するが、フランクの曲ほどに神秘性はなく、また耳馴染みにくい。ではまた振り子をフランクに戻すことが可能かと言えば、もはや19世紀の終わりの再現は不可能で、フランクの名曲は歴史のごく一時期に生み出されたはかないものだ。そのはかなさがフランクの音楽の持ち味だが、本曲のヴァイオリンとピアノの掛け合いは、プシシェとエロスのふたりのように分かち難く、聴くたびに筆者は恍惚の気分に浸れる。フランクは父親の反対を押し切って結婚し、生涯別れなかった。そして作品に対する妻の意見をよく聴いたが、弟子の意見と対立すると困惑したようだ。美女プシシェの魂がエロスと合体することで天に昇る精神が育まれたというのは美しい話だが、これは男はエロを忘れてはならないということでもあって、本曲や「プシシェ」を聴いて女性に具わる美を思うべきなのだろう。それをヴァレリア・ブルーニ=テデスキを通じてやろうとしている。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する

by uuuzen | 2021-09-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●〇は〇か、その45 >> << ●クバタイリブレ

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?