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●『世界がおまえたちの舞台だ』
のない 家が増えたか 雀減り 静かでよしと 誰も気にせず」、「イタチ消え 蛇も昔に 見た切りで 犬猫増えた 老人の町」、「風呂場にて コオロギ響き 逃がしやり 暗き庭にて 仲間と歌え」、「猫の糞 踏んじゃったと 胸の糞 悪くしたとて 素知らぬは猫」



●『世界がおまえたちの舞台だ』_d0053294_00212685.jpg今日は韓国が生んだ世界的ヴァイオリニストのチョン・キョンファ(鄭京和)の母親、李元淑が書いた本を取り上げる。読み終えるのに半年ほど要した。一気に読む気がしなかったからだ。とても面白い本であるのに、登場する7人の子どもの名前がみなよく似ていて、しかも時系列にしたがって書かれておらず、いわばいくらでも別の話が書かれ得る状態で、日を置いて断続的に読む方がそのたびに新鮮な味わいが得られる。何度も途中で読むのをやめたほかの理由があるとすれば、成功者の苦労話はどれも似たところがあり、幸運に恵まれたことを読者が別世界の話と捉え、羨ましく思って手放しで喜べないからだ。「自分の同じ時代の同じ場所に生まれていれば同じような境地に至ったかもしれない」というやっかみがそこには混じる。ところで最近「親ガチャ」という言葉が流行っている。その正確な意味を筆者は知らないが、硬貨を入れれば1個出て来るカプセル入りの玩具「ガチャガチャ」のように、カプセルを開けなければ中身がわからない玩具に親をたとえているのだろう。当てが外れたという場合があるということだ。それを言えば親からすれば当然「子ガチャ」もある。未成年が事件を起こすと親の責任と言われる。そこには親の育て方によって子どもはどうにでもなるという考えがあるが、実際に子どもを育ててみると、親とは全然似ていない子が育つ場合がある。筆者の息子は筆者とは正反対で、本は読まず、たばこを吸い、酒もギャンブルも大好きだが、本人は普通と思っている。筆者が堅苦しいのだろう。とはいえ、息子の気質は夫婦に似てかなりおとなしく、他人の金をどうにかしようという根性はなく、気弱で女性とも交際したことがない。息子にすれば親を選べなかったことを罵っているかもしれないが、親からすれば幼ない頃からひとり息子ということもあって、厳しく躾けをしてまともに育てて来たはずなのに、危機意識のない人間に育ったことが不思議でならない。これは育て方というより、遺伝子が違うという理由をつけるしかない。結局のところ親子は互いに「ガチャガチャ」と思っている。わが子がかわいくない親はいないし、親を大切に思わない子はいないはずだが、どこかで何かが少し狂い、その後その狂いが大きくなって行き、理解し合えないことはままある。ただし、親子が理解し合えないことを筆者はごく普通と思っているし、悪いこととも思わない。親子は人間が違うのであるから、ある意味他人の関係はわずかでも混じる。また夫婦は他人同士で、夫婦の子どもはどちらの親から見ても半分は他人の遺伝子が入っている。
 筆者は息子に小学生の頃から好きなことをして好きなように生きればよいと言い続けて来た。それで学校の勉強に精を出せともあまり言わなかった。筆者が母からそう育てられたからだ。それに筆者の母は筆者がいくらいい成績を取ったところで少しも喜ばなかったし、他人に自慢したこともない。それで筆者も学校の成績がいいだけのような人物を今でも何とも思わない。成績のいいことと人格者であることはほとんど相反すると思っているほどだ。そこに資格を加えてもいい。国際弁護士とやらがTVのコメンテーターに男女とも毎日出ているが、彼らは本職でほとんど役立たずであるのでタレント活動をしている。顔を見るといかにも調子者で、発言でよくその本性を表わす。ある女性弁護士はアメリカ大統領の報道官が司法試験に何度か挑戦して合格したのに対し、自分はもっと簡単に同じ資格を得たと自慢気に話していたが、でななぜ日本のTVの大衆向きの番組でコメンテーターをしているのか。それほど才能に自信があれば、アメリカに住んで大統領の報道官になればいいではないか。学歴や資格だけが自慢の、社会では使いものにならない人間が多過ぎる。またその「使いもの」の定義が、顔を広く売り、金をたくさん得ることが最大の証しであると思う、ろくでもない連中が跋扈する世の中だ。筆者の息子がそういう連中の考えに染まらずにいることだけは褒めてやりたい。世の中は常にいわば普通に生きる人が大半だ。その普通こそが最も立派だ。ところが若い女性はたいてい愚かであるので、見かけだけ格好いい「ろくでなし」に熱を上げ、何度騙されても目が覚めないのもままいるし、またそういうふたりの間に生まれる子が普通に育てばいいが、世間を騒がす事件になることもあるだろう。何を言いたいかと言えば、女は勘違いせずに、普通の男を選べということだ。今読んでいるミシュレの『女』の言わんとすることは結局はそのことだろう。話がどんどん外れて来た。鳶が鷹を産むはずがないのに、それを信じようとしない母親が早くから子どもを枠に嵌め、天才目指して学習を強制することが昔から行なわれ続けている。もちろんそういう早期教育された者の万にひとつの割合で才能が群を抜く場合があるが、それは大きな賭けだ。それに失敗して子どもの人生、矜持が台無しになる場合もある。筆者は息子にそういう期待をかけず、それなりの教育もしなかった。真に才能を発揮する者は、どんな苦しい逆境にあっても頭角を現わすと信じているからだ。またそういう人物でなければたいした業績を遺せるはずがないとも思っている。褒められ過ぎて潰れて行くか、そこそこの才能と努力で自惚れのきつい人物になるか、そのどちらもいいと思わない筆者は、普通が一番と考え、息子はそれにしたがったと言うべきだろう。ただし、その普通ですら実際は難しい。
 前置きが長くなった。本書は1990年に書かれた『おまえの夢をひろげよ』の邦訳で、1994年に日本で出版された。日本版に際して加筆された部分はクラシック音楽好きにはとても興味深いことが書かれる。おそらく本書のみの情報だろう。たとえば尹伊桑との関係だ。チョン・キョンファが彼の曲を演奏しなかった理由は戦後朝鮮が南北に分けられたことが遠因だが、実に惜しく、悲しいことだ。加筆に際してもっとチョン・キョンファのことが書かれてもよかったと思うが、彼女の才能がどういう家庭のどういう歴史で育まれて来たかについては本書で充分だろう。また本書を読まねば彼女の演奏の本質がわからないと言ってもよい。筆者はクラシック音楽を聴き始めた20歳頃からチョン・キョンファの名は知っていたが、レコードを買わず、ラジオでも演奏をまともに聴いたことがない。長年聴き続けたNHKのFM放送でも彼女の演奏はさほどかからなかったのではないか。そこに韓国に対する偏見があったのかどうかは知る由がないが、評論家の吉田秀和が彼女の演奏についてどう書いたかは知らないが、書かなかったとすれば黙殺すなわち評価に値しないと思っていたからだろう。日本のクラシック音楽界では大物評論家の意見がレコードの売り上げに大きく影響するはずで、70年代初頭のチョン・キョンファの日本での認知度は一部に留まったのではないか。ところがネット時代のYouTubeによって、若い日の彼女の演奏が見られるに至り、その驚愕すべき演奏に打ちのめされる人が後を絶たないだろう。筆者もその口で、あまりの凄さに他のどの女性ヴァイオリニストも目に入らない。なぜそれほどの演奏が日本でもっと広く喧伝されなかったのか。そこに日韓の文化の違い、また吉田に代表されるように、韓国への一種の偏見が根深かった、また今でも深いことを思う。とはいえ、吉田はキョンファの激しく個性的な演奏にどう言葉を尽くせばいいかわからず、無視するしかなったのだろう。彼女の演奏を理解することは、韓国の歴史や文化に関心を持つことでもある。それは吉田の関心の外にあった。日本が統治したことのある、いわば三等国の文化になぜ関心を持つ必要があるのかという驕り、偏見が日本の知識人にあっても驚かない。だが、日本はキョンファに比肩する女性ヴァイオリニストを輩出出来なかったし、今もそう言ってよい。筆者はチョンのすべての録音を入手し、暇を見つけて聴き込んでいて、いずれ何かの曲を取り上げて論じたいが、今日はその予告編としてよい。断っておくと、キョンファの演奏のすべてがいいとは筆者は思っておらず、度が過ぎているかと思わないでもない録音もある。YouTubeで彼女より若い女性の演奏が大量に見られるが、どれもどんぐりの背比べで、小粒感がある。チョン・キョンファのような才能はもう韓国からも出て来ないと筆者は思う。
 そう言えば韓国はクラシック音楽ではなく、BTSなどのポップ・ミュージックで世界的に認知されることを目論んでいるようだ。これは世界的にクラシック音楽の享受者が減少して欧米のセレブのさらに一部の人が歓迎する骨董品になりつつあるのかもしれない。それはチョン・キョンファの名前は聞いたことがなくても、韓国のアイドルはよく知る人が多いことが如実に示すと言ってもよい。また話を戻すと、本書は著者が72歳での出版で、その頃までのことしか書かれない。ネットで調べると彼女は2014年に亡くなり、96まで生きた。本書の訳者があとがきに書くように、本書は韓国の近現代史でもあって、いかに戦前戦中戦後の韓国、そして日本、アメリカをキョンファの家族が激しく生きたかの証しになっている。彼女のその人生こそ韓国は大河ドラマにすべきだろう。わずかだが、本書にはキョンファと同じように才能を持った音楽家が、さまざまな理由で闇に消えて行ったことも触れられる。同じように才能がありながら、またもっと経済的に豊かであったにもかかわらず、キョンファのようには世界的な名声は得られなかった。その理由を李元淑はさりげなく書き、またそこに彼女の人間としての正しさ、尊厳を読者は見る。それは端的に言えば儒教の精神だ。ただし、李元淑はアメリカにわたり、英語をものにし、本書の最後では神学を学んで教会を持つことまで書かれ、彼女の信心はキリスト教に変わって行った。そこにチョン・キョンファが世界的に活躍出来たひとつの理由があった気もする。日本では儒教はほとんど忘れ去られ、しかも韓国のようにはキリスト教は広まらず、音楽や生き方に込める信仰心はよりどころを見失っている。そういう国で生まれるクラシック音楽がどこに至るか。キリスト教を背景にした国ではないことが不利に働くのか、それとも有利なのかという問題だ。そのことはザッパも語っていた。スズキ・メソッドでヴァイオリンを学んだ日本人が、どのように表現豊かに西洋のクラシック音楽を演奏出来るかとなれば、はなはだ疑問という考えだ。だが、それは演奏を聴いてからの判断であるべきで、そのひとつの答えがチョン・キョンファだ。彼女の登場によってアジアの音楽家が一挙に世界へ躍り出ることが出来た。それはクラシック音楽がより普遍的なものであったことを証明し、ファンの数を増やした。ファンを広げた功績を言えばカラヤンが筆頭で、そのカラヤンとチョン・キョンファがどう対立したかについても本書に書かれる。端的に言えば、キョンファやその家族はクラシック界でいじめ同然の憂き目に会ったが、見事にそれを跳ねつけたということだ。吉田秀和はカラヤンの秘蔵っ子アンネ=ゾフィー・ムターを正統として大いに評価したようだが、今になってキョンファの演奏と聴き比べると、アンネ=ゾフィーの演奏は何となくねっとり、もっちゃりとして筆者は好まない。
 本書は李元淑の7人の子どもをほとんど平等に扱い、チョン・キョンファの情報がたくさん得られると思って読むと退屈な部分が多い。もっとも、その退屈な部分は音楽ファンではない人にとっては大いに子育てのヒントになり、本書がわが子の才能を伸ばしてやりたいと考える母親の手引きとして歓迎されて来ていることに納得が行く。激動の時代を生きた著者とはいえ、考え方によっては誰でも人生は激動であって、比べられるものではない。そのことを重々わかって著者は本書を書いている。つまり、子育てに何が最も大事であるかだ。ひとつは子どもを信じることだ。またひとつは才能を早期から見極め、それなりの育て方をすることだが、前者はただであるので誰でも可能として、後者は経済力が関係する。クラシック音楽となればなおさらだ。音大、高価なヴァイオリン、演奏会での衣装など、すべて自分で賄う必要があり、それは親の役割だ。李元淑は韓国料理を提供する食堂の経営で経済問題を切り抜けるが、そこには彼女が戦前に日本の女子栄養大学の前身である学校に学んだ経験が役立った。そのことは強調されてよい。チョン・キョンファの才能を母親が見出し、伸ばしたとすれば、その母親が日本に留学して学んだ栄養学が役立ったのであって、日本は間接的にチョン・キョンファを産んだ。李元淑の活力の凄まじさはそっくりそのままキョンファに受け継がれたが、他の6人のうち、ふたりが音楽家となったものの、キョンファほどには有名でない。それはふたりの風貌からもわかる。温和で優しいのだ。もちろんそうい人はそれなりの音楽を奏でるし、筆者は目下キョンファとそのふたりが合奏するCDを繰り返し聴いている。李元淑は楽譜が読めず、音楽については何も知らないが、感動出来る才能を持っている。音楽は誰でも感動するものかと言えば、そうとは限らない。特にクラシック音楽となると、金がかかるばかりで儲からず、そもそも退屈で聴く気になれない人が10人中9人の割合だろう。戦前戦時中のややこしい時代に韓国でクラシック音楽のLPが楽しめる空間はごく限られていて、李元淑はソウルの音楽喫茶に子どもを連れて行って聴かせた。3歳で抜群な音感を示したキョンファに母親は音楽を学ばせようとし、フルートとヴァイオリンのどちらかを選ばせたところ、キョンファは後者を採った。韓国にいては世界の舞台に出られないと考え、10代半ばでアメリカにキョンファを移住させ、ジュリアードで学ばせる。そして先生の指導で人前に出ずにみっちりと修行することにし、10代の終わりで頭角を現わす。デビュー当時、彼女は年に150回ほどのコンサートを開いたというが、若いからこそ出来た芸当で、またその頃の会場での演奏をYouTubeで見ると、指揮者、楽団と対等もしくは上回る度量を見せ、すでに大物の風格だ。そのような天才がなぜ生まれたか。
 キョンファの世界的名声は半分は遺伝子のなせる技で、半分は境遇だ。経済的に恵まれなければ正しく学べず、レコード会社との契約もなかったろうが、李元淑が最初から溢れる資産を持っていたのではない。人を見抜く力や商才があり、好機を逃さなかった。本書は危うい綱渡り的な事業についてしばしば言及するが、一歩間違えば夜逃げせねばならなかったであろう。そういう人が多かった時代を一家は生き延びて来た。嫌なことでも神が定めたものと思って我慢する奉仕精神に富み、多くの人に信頼された。子どものため、多くの他者のため、祖国のためという思いで生きて来たところに、母親の鑑として大いに伝えられ価値がある。故国に音楽を目指す人たちのための財団を作り、大韓民国勲章の柘榴賞を得たが、当然の褒章であろう。子ども全員が望む道に進み、途中で曲がらなかったかと言えば、たとえばアメリカ在住の息子のひとりに車を買い与えた結果、勉学が疎かになり、父親が激怒したといったことが正直に書かれていて、その息子の遊び呆けに却って人間味を感じるが、総じて子どもたちは他者に優しく、親が逆に教えられることもあった。ところで李元淑は成功という言葉が嫌いで、その点は筆者と考えが同じだ。成功とは何か。芸術での成功は世界的に有名になることか。そうではないと彼女は言う。芸術に到達点はなく、成功したと自惚れるのは驕りだ。彼女はどこまでも謙虚で、どこまでも高みを見つめ、次々に計画を実行に移した。寸暇を惜しんで学び、そのようにしてわずかでも神に近づこうとした。そんな勉強好きは本書の随所に書かれる。還暦過ぎて聖書を一から学び、理解するために英語と韓国語で全部書き写したというが、神学校では当初英語はちんぷんかんぷんながら、人の何倍も努力すればどうにかなると踏ん張り、優秀な成績で卒業する。そのような彼女が本書以降亡くなる94歳までの22年間をどのように過ごしたのか、そのドキュメンタリーを韓国の放送局が撮っていればいいが、日本語や英語で読めるネット情報は皆無に近い。音楽は音楽を聴くだけで楽しめばよく、それ以外の、たとえば作曲者や演奏者の生涯はどうでもよいと思う人がある。本書によってキョンファの演奏の背後にこの母親ありとわかると、キョンファの音楽性が違って見えるかと言えばそうでもない。何となく感じることがよりはっきりとわかるのであって、音楽を楽しむこと対して邪魔にはならない。女性の音楽家は美貌が問われやすく、レコード会社もそのことで売り上げを画策するが、キョンファはたとえばアンネ=ゾフィーのようなモデル級の顔と体形で全くない。そのことで損しているかとなればそうかもしれない。それこそ「親ガチャ」で、美人ではなく生まれた女性は母親を怨むことになりがちだが、女性の魅力は容貌の美しさが第一とは限らない。稀有な芸術家となればそれだけで人類の財産になる。
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by uuuzen | 2021-09-19 23:59 | ●本当の当たり本
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