「
躊躇いて 言葉かけずに 背を向けて 思い留まり 月日流れる」、「捨てられし 仔犬さまよう 雨の中 吾を見つめる 眼差しさびし」、「五年ごと 暮す相手を 変えるのも人の勝手で 見て見ぬふりを」、「完全な 人はおらねど 作はあり 作が人とは 信ずるなかれ」
今日取り上げるのはヴァレリア・ブルーニ=テデスキが2005年に主演した映画で、DVDを見始めてから監督が日本人の諏訪敦彦であることを知った。これは意外であったが、前作『ぼくを葬る』の冒頭、ふたりのモデルの女性を主人公の男性が撮影する場面に日本人の若い男女がそばにいる様子が一瞬映り、また東京で撮影する仕事の予定があるのにそれを断る場面もあって、前作のオゾン監督と諏訪監督が親しかったのではという想像をする。その理由はほかにもある。オゾン監督の『ふたりの5つの分かれ路』が小さな子がいるのに別れてしまう男女を描くのに対し、本作は子どものいない同じ世代の男女を描きつつ、離婚がほとんど決まっていたのに、映画の最後では関係が修復されることで、『ふたりの……』の一種の後味の悪さを本作は払拭したことになる。本作でのヴァレリアは、ほとんど化粧が目立たず、色気に狙いを定めた演出ではないので、彼女の映画ベスト10には入っていないが、ヴァレリアの実情が『ふたりの……』や『ぼくを……』に近いのか、あるいは本作のように素朴な女性に近いのかとなれば、これは誰にもわからない。女優であるのでどんな役でも演じるし、筆者は本作の彼女を見て、新たな魅力を感じた。レストランのウェイトレスといった、いわば普通の女性がやる仕事ではなく、カメラマンで芸術好きとの設定であるからで、ヴァレリアに知性が感じられる。現実の彼女は監督もしているから、ただの女優でないことは確かで、女優として演じながら、監督を観察していたことがわかる。本作が前作や前々作と関連しながら対照的であるとすれば、ヴァレリアのその後の出演映画ともそういう関係があることは想像してよい。そのひとつは本作で示された芸術好きという面だ。本作でヴァレリアはマリーという名の女性を演じ、彼女はひとりでパリ市内にあるロダン美術館を二度訪れる。そこはゴッホの有名な「タンギー爺さん」を所蔵し、ヴァレリアが後年ゴッホの作品を解説する映画のナレーターを担当することのわずかな布石が本作にあると言ってよい。ロダン美術館は本作と同じ2005年に改装され、それで館の内部を撮影に使うことが許可されたのではないだろうか。とすれば、たまたま諏訪監督は好機に恵まれたことになる。では他の美術館でもよかったかとなれば、何ともわからない。映画の鑑賞者は提出された作品を味わうだけで、あり得た別の場所や俳優の行動は自由に想像出来ても、映画そのものとは直接の関係はない。ただし、そういう勝手な想像が広がり得るところに、その作品が持ち得る不思議さ、魅力、可能性がある。
表現されたものはその表現の範囲内で楽しむことを作者が願っているかと言えば、そうとは限らないし、また願っても強制出来ない。ある本の読後、数年経てほとんど忘れてしまうとして、内容のごく一部や本題とはあまり関係のない何かをよく記憶し、反芻することはある。本はよく行間を読めと言われる。書かれたこと以外に、書かれなかったこともあって、そういうふくらみを持っている本が面白い。書かれたことがそのまま正しく伝わることはもちろん大事だが、文章の背後に作者の思いの世界が広がっていることが感じられることはもっと大事ではないか。それも作者の技量で、文章は書かれたこと以上の何かを伝える。もちろん作者の平俗さを伝えることもままあり、また大半の作者はそういう人物だ。それはいいとして、本作を『ふたりの5つの……』と見比べるとフランスと日本の文化の差のようなものがわかる。本作ではロダン作の裸体の彫刻がクローズアップで映る場面があり、その直後にホテルでマリーが下着姿でドレスを選ぶ場面につながる。『ふたりの……』でヴァレリアは素っ裸になり、その姿に筆者はギリシア・ローマ時代の彫像を連想したが、本作ではロダンの彫刻からヴァレリアの全身の下着姿へと場面が移り、諏訪監督は明らかにヴァレリアの肉体美に注目していたことがわかる。ただし彼女を素っ裸にはせず、また本作の最後近くにある、夫と体を重ねる場面でも着衣のままで、肌を隠すことで却ってエロティックさを表現する。それは日本的と言ってよい。またヴァレリアに濃い化粧をさせず、ことさら美しく撮ろうとはしていないところに、彼女の映画のベスト10に選ばれない理由があるだろうが、筆者はヴァレリアの実像に近いと思える別の面が見られることに『ふたりの……』以上の評価を与えたい気がしている。それは言い方を変えれば、『ふたりの……』でのヴァレリアは完全に別世界の女性という雰囲気があるのに、本作では日本の、しかも案外ありふれた女性という気がするからだ。そこで思うのは、諏訪監督はヴァレリアを主役に撮ろうとした時、自分の思いの枠に収めたかったのだろうということだ。映画の中に存在する手の届かないスターとしてではなく、気軽に話せる、身近な女性との意味だ。それは虚飾性を剝ぎ取ったということだが、本作の彼女がヴァレリアの実像に近いかどうかは彼女にしかわからない。それで『明日へのチケット』における妖艶で謎めいた秘書役の彼女と、本作におけるごく普通な、知的でおとなしい女性というふたつの役柄の間でヴァレリアの、もっと言えば女の魅力が何であるかを悩ましく考えさせられるのだが、一方でミシュレの『女』を読み始めていることもあって、筆者における「女」問題は今後どういう展開をして行くのか、われながら興味深いところに向かっている。
それはともかく、本作でヴァレリアは結婚15年目の40歳を演じ、これは当時の彼女の年齢でもあって、相変らずリアリティがある。ただし、彼女は独身であったから、結婚15年で離婚の意思を固めているという役は演じにくかったのではないか。ヴァレリアが40歳になるまでどれほどの男性経験があったかは知る由がないが、そのことを少し匂わせる場面が『ふたりの……』にはある。離婚が法律的に決まった夫とベッドでセックスする場面の直後、夫から男性関係を訊かれ、彼女は遊びの関係はあると言う。それを受けて夫は「もっとやりまくれ!」と怒鳴ると、彼女は悲鳴で返し、無言で部屋から出て行く。関係が冷え切った夫婦は、妻も行きずりの肉体関係を他の男と結んでいたという設定だが、本作でのマリーは貞淑として描かれる。もちろん、描かれないだけで、鑑賞者はマリーが夫に内緒で奔放に遊んでいると想像してもよいが、本作では夫の愛が感じられず、さびしさに耐えている妻として描かれる。夫のブルーノも遊び人ではない。本作ではお互い話の合う異性が登場し、しばし話は弾むが、それだけの関係だ。その点がフランスの現実と乖離しているかどうかだが、日仏ともに本作に近いのではないか。話を少し戻すと、諏訪がヴァレリアを起用したいことを彼女に申し出た時、ヴァレリアは監督と会い、脚本を読んだはずだが、出演を決めたことは、幾分かは自分の実生活に関係があると思ったという想像は許される。本作のヴァレリアは夫にかなり辛辣だが、とても素直でかわいい面がある。そして『ふたりの……』とは違って、夫婦は激しく怒鳴り合わない。その寸前まで行きながら、夫のブルーノは紳士だ。それは見方によれば15年も一緒にいて、もう激しい喧嘩をするほどの熱情もないことを示しそうだが、それはお互いに立ち入らない職業を持っているからでもあろう。それに夫婦に子どもがなく、マリーは夫の仕事の忙しさに放置されがちだ。ブルーノは建築家で、マリーは写真集を出すほどのカメラマンだが、彼女は写真に出来ることはないと思っていて写真をやめてしまっている。となると、夫に置き去りにされた気分になるのはなおさらだ。この設定はなかなか現実的で、傍目には離婚とは無縁の仲のよさに見えながら、問題を抱えている。話が前後するが、夫婦はリスボンに10年ほど住んでいて、友人の結婚式に出るために久しぶりにパリに訪れる。タクシーでパリを走る場面から始まり、結婚式の後、マリーはパリにブルーノを残してひとりで、ブルーノの出身地のボルドーに列車で向かうという場面で終わるが、サン・ラザール駅で列車に乗ろうとするマリーは最後の最後で、見送るブルーノに対峙してプラットフォームに留まる。直後画面が暗転し、マリーのくすっとした笑い声が聞こえ、ふたりが関係と取り戻したことがわかる。なぜマリーが思いを変えたのか。
駅に向かう前、ホテルの別の部屋にわざわざ移ったマリーをブルーノが訪れ、彼はマリーを求める。それは久々のセックスを暗示するだろう。そのことが現実的かどうかだが、パリの空気を吸い、お互い珍しい人と話をした結果、新鮮な気持ちが湧いたとみなせる。だが、夫が妻を哀れと思って抱いたのであれば、セックスをしても妻はそれを感じて幻滅するだろう。リスボンからホテルに到着してすぐ、ふたりは扉1枚を隔てて別の部屋に寝ることにしたのだが、結婚式の前日、友人宅のパーティから戻って来た夜、マリーは夫に思いの丈をぶちまける。自分が孤独で老いる一方であるのに、夫は若返って楽しいだろうと嫌味を言う。これは交際の多さを比較してのことだろう。マリーが不機嫌な理由のひとつは、夫がパーティで昔の友人たちに離婚を伝えたことだ。離婚は事実としても、マリーは口外してほしくなかったのだ。友人たちは驚きながら、「また結婚すればいい。5年ごとに離婚と結婚を繰り返すのもいい」と言う。そういう夫婦は実際にいるし、またマリーとブルーノはそれほどに仲のよい夫婦と見られている。マリーが嫌味にしても夫に思いを吐けるのは、完全に間柄が冷め切っていないからだろう。マリーはかまってほしいのだ。マリーは夫に「俗物だとようやくわかったわ」というひどい言葉も笑いながら投げかける。尊敬していた面が色褪せて見えることは夫婦には珍しくないだろう。俗物と言われたブルーノは「馬鹿に見えるか」と訊き返すと、「馬鹿とは言っていないわ。俗物なのよ」と言うが、夫にすれば馬鹿と俗物は同義だ。ではマリーはどういう人物を俗物ではないと思っているのか。そこでロダン美術館だ。ロダンは大巨匠だ。だが、女性にだらしなく、その点では俗物であったことは有名だ。そういうことを知って本作を見るとまた思いが違って来る。つまり、諏訪監督が提供しているわずかな場面や言葉から自由に思いを広げ、映画の人物の気持ちを想像する楽しみがある。ロダン美術館が撮影に使えなければ別の美術館の別の作品が関係することになったが、そうなればまたマリーの思いは別の方向に想像される。つまり、映画はきわめて適当に作られ、曖昧な内容を鑑賞者が勝手に想像して楽しむものということになる。ところがそういう作品には行間に詩情が存分に漂い、全体はどうっていうことのない淡々とした日常を描くのに、忘れ難いちょっとした印象が散りばめられている。それが日本の芸術の真髄とは言わないが、フランスでは珍しい手法ではあるだろう。そしてそういう独特の味のある映像詩にヴァレリアが出演したことが嬉しい。本作の最後近く、腹が空いたふたりは何か食べようかという話になり、日本料理という言葉が出て来る。本作を見る欧米人は日本人監督の作品ということでかまえるだろうか。筆者は何ら情報を得ずに見て、ものの5分で手法がわかった。それはカメラの長回しだ。
先ほどカット数を数えると全部で42しかない。1本の映画で多い場合は2000以上になるが、たったの42だ。長い場面では5分以上ある。アクション映画好きには耐えられない退屈さで、我慢して見てもどこがいいかさっぱりわからず、すぐに忘れるだろう。カメラの長回しはたとえば小津安二郎がよく知られる。これは俳優の演技力が普通のカット数の多い映画より求められる。セリフの言い間違いや、動きのちょっとしたミスで撮り直さねばならず、本作のヴァレリアは演劇の舞台のような演技力を発揮し、また自然さを醸し出している。それに間が印象的だ。扉を閉めて向こうの部屋が見えなくなった状態でマリーが話す場面がある。カメラは動かず、扉を撮影し続ける。10数秒の無音があってマリーが扉の向こうで声を発する。それを鑑賞者側にいて姿の見えないブルーノが聞く。同じホテルの同じ部屋に泊まりながら、夫婦を1枚の扉が遮っている。それを荒々しく閉じたのはマリーだが、彼女はそのように夫を避けた状態に自分を追い込むことで、本音が吐露出来る。それはさておき、ロダン美術館の場面も含めて、本作の大半は部屋の中で撮影された。マリーが奥の部屋にいながらこちらを向いて話す場面は、暗い室内であることも手伝って、ホイッスラーのような室内画の雰囲気があり、芸術の香りを感じさせる。その頂点はロダン美術館だが、そこを訪れるマリーが最初に見るのは、有名な「カテドラル」だ。これは男女の手首を向い合わせに彫った白い大理石の像で、マリーとブルーノの愛が暗示される。「カテドラル」の男女の手首はひとつの空間を包み込みながら、触れ合ってはいない。裸の男女が触れ合う彫刻も紹介されるが、それは「カテドラル」の延長としての行為で、またマリーにすればそれが理想だろうが、ブルーノとの冷えた関係ではそういう愛を交わす場面は望みようがない。マリーが友人の結婚式の前と結婚式の後にロダン美術館を訪れることは、ロダンの彫刻に芸術性を感じるためというよりも、男女の愛とは何かを考える目的があったと解釈出来る。マリーは館内でリルケがかつて同館を訪れ、ロダン論を書いたことを聞き知り、買って来た図録にあるリルケの言葉を夫に読み聞かせようとする場面がある。夫は結婚式に間に合わないと文句を言い、下着姿のマリーを急き立てる。そこに夫婦の思いのすれ違いがあるが、マリーにすれば友人の結婚式に際して、自分たちの生活の原点を見直したいのだろう。愛とは何か、どうあるべきかだ。「カテドラル」は支え合う男女のあるべき姿を暗示し、そのふたりの愛は「大聖堂」ほどの巨大という考えによるだろう。ただし、今ロダン展の図録を繙くのは面倒なので、それは筆者の思いだ。本作でのリルケの言葉は、ロダンの「地獄の門」における男女は地獄でも天国でもない煉獄にいる様子を伝えるというもので、それもマリーの思いだろう。
夫婦は天国にいる気分であるべきなのに、今は離婚の危機にあり、地獄が迫っている。それを煉獄の状態にどう戻せるか。最後でマリーが考えを翻して列車に乗らなかったのは、夫とやり直そうと考えたからだが、その考えに至った理由は、夫から体を求められたという関係修復の行為の提示以外に、ロダン美術館での出来事の影響がある。二度目にマリーが同館を訪れた際、黒人男性と3,4歳の男子の親子連れがマリーに声をかける。リセ時代の同級生で、マリーは意外な邂逅に喜ぶ。本作でのヴァレリアはほとんどの場面で彼女かどうかわからないほど遠目かつ暗く撮られる。それではヴァレリア・ファンには面白くないので、画面から顔がはみ出すほどのクローズアップの場面がいくつか用意されている。今日の3枚目の写真はロダン美術館で会った黒人親子に見せる笑顔で、本作では唯一の嬉しさを示す表情だ。このたまたまの出会いがマリーの塞がる気分を氷解させた。ただし、彼女はその友人の黒人が妻を亡くしたことを知り、顔を覆って泣く場面がある。人生の悲喜を知り、自分は悲しみに沈みたくないと思ったとしても不思議ではない。一方ブルーノも心のもやもやを見つめる出会いがある。彼は結婚式の後、ホテルに妻を残して夜通しパリ市内のカフェで過ごす。その時、久々に出会った建築家の女性から電話があり、彼女をカフェに呼ぶ。彼女が着くまでの間、ひとりで飲んでいた老人がブルーノに話しかける。この場面は重要だ。老人は「学生であれば戦争に行かずに済んだが、自分はそうではなかった」と言いながら、戦場では恐怖を鎮めるために無茶をしたことを話す。老人は80代後半ということになるが、自分は話し相手がおらず、酒のグラスの底を覗き込みながら、過去ばかり思い出しているとも言う。老人がブルーノに話しかけたのは、ブルーノが女性と電話して呼び寄せたことをそばで見ていたからだが、戦場での恐怖にかられた行為は、恋愛における行為と似ていると言いたかったのだ。この意見をブルーノは興味深く思う。男は魅力ある女性を前にすると精神的にかまえる。慄くと言ってもよい。裸を前にするとなおさらだ。それで正常な考えが出来なくなり、そのことが戦場での死の恐怖と似ているというのは、少しは当たっているだろう。結局ブルーノが予備寄せた建築家の女性が来た時には老人はおらず、ふたりはそれなりに話が弾むが、女性のアパートまでブルーノが送って行った後、ふたりはそのまま別れ、男女の関係は暗示されない。その点はマリーがロダン美術館で会った黒人親子とも同じで、ブルーノもマリーも他の異性を求めてはいない。関係が冷えたのは、浮気が原因ではないという描き方だが、前述のようにそれは描かれないだけと想像することは許される。ともかく、15年の夫婦生活を経て、どこかに擦れ違いがあっただけで、それが久しぶりの短い旅行で解消された。
本作の邦題『不完全なふたり』は違和感がある。「不完全」とは何かを思わせられるからだ。15年の結婚生活を続けた40歳のふたりが離婚に同意したとして、そのことが人間として不完全か。そうだとすれば、どういう夫婦のどういう状態が完全なのか。そもそも人間に完全はない。不完全をそう思い込むだけのことで、思いひとつで完全にも不完全にもなる。男女ともにより完全と思える相手を理想として結婚したがるが、本作のマリーのようにいつしか夫を俗物とみなすことにもなる。それは経済力の問題ではなく、ちょっとした気になる仕草の問題だ。そして一旦そういう点が鼻につき始めると、何もかもそのことに結びつき、全体が嫌になって行く。離婚する夫婦はたいていそれが原因だろう。そして不完全と思うがゆえに相手を嫌悪し、離婚に至るとすれば、不完全な夫婦、カップルが別れるということになり、結婚生活が長年続いている者ほどに完全という価値観が見え透く。諏訪監督がそのような思いで本作を撮ったかどうかは、本作を見た人が考えればいいことだが、最後の和解の場面、すなわちマリーがひとりで去らずに躊躇いながらプラットフォームに居残る場面はなかなかよい。ふたりは向い合ったままで、その後どうしたかは、DVDのディスクに印刷される写真が伝える。それは映画にはない場面で、ふたりは抱き合っている。さて、本作の原題は『Un Couple Parfait』で、「完全なふたり」の意味だ。これは邦題とは正反対だが、フランス語の題名は含蓄がある。「Parfait」は「パーフェクト」が語源の「パフェ」でもあって、「甘い」のニュアンスが込められ、『甘いふたり』と訳すことも出来る。映画の最後でマリーがくすっと笑う声を立てるところからして、夫婦は甘い関係を取り戻したことがわかるが、「甘い」はまだ人生の大きな荒波を経験していないことを示唆もする。マリーがロダン美術館で出会った黒人の友人はすでに配偶者を亡くし、ブルーノがカフェで話しかけられた老人は戦争を経験し、もう余命がわずかだ。マリーは黒人の友人に会って、また写真を始めようという気になる。ブルーノもカフェで話した建築家の女性から大きな刺激をもらったであろう。彼女はある島でのコンペの話をする。仕事に生きているその姿はブルーノも同じだろうが、妻から俗物と罵られるところ、コンペに応募しようという努力が感じられないのだろう。40歳となれば、すでに頭角を現していなければ、その後の才能の開花はない。大きな刺激を受けるのは、人間からでしかあり得ない。あるいは偉大な作品からだ。マリーはそれをロダン美術館で得た。そこにカミーユ・クローデルとロダンの関係を持ち出すと話がややこしくなるが、そんな連想も含めて本作からいろいろと空想が広げられる。ただしそういう作品がいいかどうかは見る人次第だ。
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