「
彩の 秋の果実の 並ぶ棚 渋さ甘さの 落ち着き払い」、「松茸を 使わず作る 土瓶蒸し もらいすだちを 主役にするや」、「輪切りした すだちで覆う うどん見て 「酸っぱらしい」と 唾を飲み込む」、「ライムなく すだちで作る クバリブレ 急場を凌げ カクテル自由」
今日の午後、嵯峨のFさんの妹さんご夫婦からすだちをたくさんいただいた。自宅に実ったものだそうだ。Fさんが言うには、家の敷地が100坪か200坪ほどあって、庭が広いと聞く。いただいたすだちは、絵を描くご主人らしく、葉がついたものが混じっていた。スーパーでは売られないその珍しさもあって、全部並べて写真を撮った。先ほど写真を加工しながら、円形にして笑顔を象ればよかったと思ったが、2個つながりの葉つき、1個の葉つき、葉なしの1個というように3段に算段した意図を伝えるにはいい。どれかひとつを精密に描きたい気もあるが、宋元画を思わせるように絵具で着色せねば面白くない。華岳には1個のすだちを魚や貝とともに描いた静物画がある。宋元画を意識した作だ。今年3月27日、花見で祇園の八坂神社を家内と訪れた際、石段近くの骨董店のウィンドウにそうした華岳の横幅がかかっていた。画面の中心は横に置いたヒラメで、そのそばにすだちは描かれていなかったかもしれない。その写真を撮ったのに、不思議とその写真だけ写っておらず、確認のしようがない。残念。京都の画廊が華岳の静物画の軸を道行く人に見せることは自然なことだが、めったに見られない華岳の絵をガラス越しにしろ、間近で見られた記憶は生々しい。御舟も確かすだちを描いた。ただし、筆者はすだちとかぼすの区別がつかない。ライムもだ。どれも緑色の柑橘類で、味の違いも知らない。それで今日の4つの句を作った。数年前に投稿したように、
「クバリブレ」「キューバの自由」の意味で、自由に作ってよいカクテルを、手元にたくさんあるすだちを急場で応用するには、ファスビンダーの映画を思い出しつつ、「クバリブレ」がよい。手許にラム酒はあり、後はコーラを買えばいいが、カロリーゼロのコーラでは本来の味が出ないだろう。それを言えばラム酒もさまざま、それにライムの代わりのすだちで、さらにはキューバとは全然空気が違う秋の京都では、本場キューバのバーテンダーが作る「クバリブレ」を持って来てもあまり意味はない。つまり筆者が自由に作ればいい。そう言えば、ファスビンダーのまだ見ていないDVDが本棚に5,6本はあるが、それを言えばヘルツォークもだ。今はヴァレリア・ブルーニ=テデスキに関心があり、明日は先日見たDVDの感想を書く気になっている。映画を見た直後に感想を書ける場合もあるが、何日か過ぎる間にあれこれ思うことが増え、より多角的に分析出来る。ところがあまりに月日が過ぎても駄目で、そのようにして書く機会を失うことのほうが筆者には多い。
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