「
饅頭を マンドゥと言う 韓国語 日本と違い 餃子を指す」、「スーパーの 割り引きおはぎ 食べ比べ 最もよきの 売り場すぐ消え」、「自転車で たまに遠出の スーパーに これと目を引く 品は並ばず」、「おっとっと これは新し また出たな すぐに二箱 籠に投げ入れ」

5日に自転車で出かけた際に撮った写真の最終回。目指したのは太秦の大型スーパーで、その存在は昔から知っていたが、初めて訪れたのは5年ほど前か。そして今日の投稿の直接のきっかけとなったのは
去年3月7日のことだ。その日の午後、家内と一緒に阪急の西院駅から四つ辻ごとに同じ方角に折れ曲がる歩き方(オレオレ歩き)をしながら北西を目指し、丸太町通りに出るまでに、普段は人が歩かない細い道に入り込み、そこを抜け出た眼前に大きな建物があった。後で調べて知ったが、太秦安井にある右京文化ふれあい会館で、今日の最初の写真の背後にそびえている。この会館の南東50メートルほどのところに、写真からわかるように朱塗りの鳥居がある。これに初めて気づいたのは去年3月7日で、この1年半の間、5,6回はその大型スーパーに出かけ、ようやく先日の5日に、今日の2枚目の写真のように真正面から撮影した。当日家内と自転車で買い物に出かけたのは、この神社を撮影することが最大の目的であった。自転車を停めた後、家内を大型スーパーの中に行かせ、筆者はスーパーの北にある大駐車場に入り、真っすぐ神社に向かった。筆者は車の免許がないので、こうした大きな駐車場の中に入ることは気が進まない。それで今年の春、この駐車場の西と北にある
並木の木蓮が満開になった時、スーパーを訪れ、まず木蓮の写真を撮り、そして去年3月7日、右京ふれあい文化館に出る直前に家内と歩いたきわめて細い道を逆に南に進み、神社を撮ろうとしたが、神社の背後に至ったはいいが、そこは高い塀で遮られ、鳥居も祠も見えなかった。つまり、神社の正面に出るにはスーパー前の大駐車場に入らねばならない。今年の春はその気になれず、結局半年近く経った。気がかりなことが長い間そのままになることは多い。筆者はそういう場合のほうがはるかに多いかもしれない。人生の長さは限られているというのに、なぜ悠長にかまえているのだろう。そう思ったせいではないが、今月5日はとにかく太秦安井の大型スーパーに久しぶりに訪れ、筆者は神社の写真を撮ることに決めた。そして撮ったはいいが、疑問が湧き、それを晴らす方法がわからない。この神社の名前がまずわからない。稲荷神社と思うが、祠はふたつ並んでいて、また手前右手に男性の銅像がある。これが誰がわからない。筆者は高さ80センチほどのコンクリートの土台に足をかけ、さらに80センチほどの塀越しに今日の2枚目の写真を撮ったが、これは個人所有の神社だろう。ブログに写真を載せるのはまずい気もするが、銅像の存在は遠目にもわかり、撮影禁止の表示はなさそうだ。

ネットで調べてもこの神社がいつ出来たものかわからない。右京区役所に訊ねるとわかるかもしれないが、個人所有であれば詳しいことはわからないだろう。そこでアメリカの軍部が作成した戦前の地図を調べた。今日の3枚目の上がそれで、下は現在の地図だ。戦前は畑が広がっていて、この神社のある場所は赤丸のAで示したが、果樹園であったことがわかる。畑の中に道路はわずかに「太子道」があって、それが西に進み、現在この神社がある、つまりかつての果樹園や畑を迂回しているのがわかる。畑や果樹園は北は右京文化ふれあい館やその隣りの公園となり、南部は大型スーパーの駐車場になっている。戦前の地図ではこの果樹園、畑の中央付近に四角く囲った区域がある。赤丸Aの真下だ。これが何を意味するかわからない。神社であれば鳥居の記号がある。たとえば赤丸Bで、これは去年家内と西院からオレオレ歩きをした際に知った山王神社だ。またCの緑色に着色される広大な境内は蚕の社の木島坐天照御魂神社で、赤丸Aの付近には神社はなかったと考えられる。太子道は木島坐天照御魂神社前を西に延び、三条通りに合流して広隆寺に至るが、太子道を迂回させる形で果樹園や畑がかつてあり、その中央に地図で四角く囲った地域があったのは、現在の太秦安井西裏町の南部が歴史的にそれなりに重要であったことを想像させる。たぶん地元の古くからの大地主ではないか。その果樹園や畑を右京区の文化会館やスーパーの駐車場になるに際し、そのことに首を縦に振った人の銅像が、この駐車場内の神社に祀られているのではないか。それにしても百年を経ずして太秦安井の変わり様は凄まじい。それを言えば梅津も同じで、右京区の田畑がことごとく民家になった。また田畑を少しずつ切り売りして来た結果、袋小路が少なくなく、小さな家が密集している。それゆえ大型スーパーが必要となった。そのためには大きな駐車場も欠かせない。話を戻して、この駐車場内の神社の背面は太秦安井西裏町に接し、神社そのものは太秦安井池田町の北端に位置する。それでネットで「太秦安井池田 神社 銅像」と検索すると、チキンラーメンの発明者の安藤百福がヒットする。それに安藤の銅像はこの神社のそれをよく似ているので、安藤が太秦安井と関係があるのかと早合点するが、関係はない。それはともかく、駐車場の端ではなく、かつての果樹園の中心に近い位置にこの神社はあって、戦前の地図で四角く囲った地域は大きな家があったかもしれない。その家が相続の関係で取り壊したほうがいいと判断され、せめて最後の代の主の銅像を建て、また家にあった小さな神社を駐車場の端に移設せず、かつてと同じ場所に残したのかもしれない。世話をしているのはその子孫だろう。銅像の土台には人名が記されるが、左手で塀のてっぺんをつかみ、右手で撮影する姿勢で、しかも2,3秒で撮り、名前の確認まで頭が回らなかった。

スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する 