「
添えるなら バツバツ印 多いほど 笑顔伝わる 手紙の最後」、「実は落ちて 後は知らぬの 心理とは ただ引力の 真理に沿いつ」、「寝床から 曇天眺め 白紙気分 やがて青見え さあもう起きよ」、「曇り空 必ず覗く 青は増し 生き物みなに 生きる笑み湧く」

カイヨワの『バベル』を読み終えた。「本当の当たり本」のカテゴリーに感想を書いてもいいが、全体をどうまとめていいか手に負える気が今は強い。いくつか気になる箇所があって、そのひとつについては昨日触れた。今日はまた別のことについて。第38章にこんな下りがある。「小説的な気分(ロマネスク)は、文学によって非常に左右されるので、いわばその一範疇となっているほどである。大抵の場合、だれについても、その恋文を読めば、彼がどれくらいの程度の、どういう種類の本を読んでいるかが、十分にわかる。というのは、恋愛は、すべての感情の中でも、最も内面的なものであるように見え、最も規律に従わないものと通常考えられているけれども、自己を告白する時には、全く出来合いの手本を求めるものだからである。この手本に恋愛は絶対的に従い、時には、その通りを盲目的に繰り返すことで満足する。……ここから、習慣と、作法に対する極端な従順さが生まれる。……確かに、熱情と結婚は、規則と、そこからの解放のように、対立している。しかし、熱情によってもまた、人間は社会に結びつけられ、その習慣を受け入れる。……」この後、社会の頽廃に加担する、「単純な人たちに対する、文学のもつ不孝な魔術」としての小説について論じられるが、「頽廃」の言葉はヒトラーのナチ党が自分たちにつごうの悪い表現をする画家や作家たちをそう呼んだことに呼応しているだろう。『バベル』にはヒトラーの演説についても言及している。そこから筆者はカイヨワが言葉を発することと書くことの差をどう思っていたかについて関心が湧くが、それについては掘り下げられない。蛇足ながら書いておくと、筆者が『バベル』を今頃読もうと思ったのは、以前紹介した
サイモン・プレンティスの『SPEECH!』を一方で読んでいるからでもある。92年にサイモンさんと会った時、筆者はカイヨワの著作『反対称』を話題に取り上げた。簡単な説明であったので同書の言わんとすることを正確に伝えられず、サイモンさんは反論したが、一方でカイヨワに関心を持ったようであった。その当時の筆者は『バベル』のおおよその内容は知っていたが、読破はしておらず、またサイモンさんが本を書くとは思っていなかったので話題にしなかった。それはともかく、言葉を話すことと書くことの間にどのような差があるかとなれば、文章を読むことは純粋に言葉の結構に浸ることであるのに対し、語りを聴くことはその人の声や身振りが魔術的な影響を与え、文章本来の意味を受け取りにくくさせる危険を伴う。

チャップリンのどの映画か記憶にないが、チャップリンが確か花屋の若い美人店員に何度か語りかける際、恋愛詩に散りばめられる言葉を口にした。最初店員はきょとんとするが、何度も同様の言葉をかけられ、最後はチャップリンをうっとりして見つめるようになる。その店員をチャップリンはどうにかしたいというストーリーではないが、チャップリンがこのエピソードをわざわざ挿入したのは、女の気を引くには、金持ちである必要はなく、普通は誰も口にしない、また出来ない美しい愛の言葉で充分という考えによる。見栄えが滑稽を誇張するチャップリンであるので、そういう歯の浮くような言葉を女に執拗に投げかける行為は、映画の鑑賞者には詐欺師に見えるが、もちろんチャップリンはそのことを意図しつつ、実際は映画の中では人間味のある金持ちとして演じている。チャップリンのどの映画も男は経済的に豊かでなければ女をものに出来ないという非情さを描き、またチャップリンは経済的な成功者となったので、なおさらチャップリンの映画は夢物語に見え、幸運に恵まれることがなければ貧しさのまま浮かび上がれない現実を突きつける。そしてチャップリンが成功した理由のひとつは、前述の花屋の店員にかける文学的な愛の言葉を操れる才能であったことで、チャップリンはおそらく恋愛詩を始め、本をよく読み、また言葉をどう使うかで人心を左右出来るかを知っていた。ゆえにチャップリンが演説好きのヒトラーに関心を抱くことも当然で、またチャップリンが文章を書くより、語ることに向いていたこともわかる。それは言うなれば映画は魔術で、カイヨワが懸念する頽廃性を持ちやすい。そしてその観点から筆者はある意味では
ヴァレリア・ブルーニ=テデスキが出演する映画に関心があるが、これは女優と頽廃性が結びつきやすいからでもある。話を戻して、たとえば小説をそのまま語ることはあって、そういうラジオ番組もある。だが、それは語り手の声や抑揚が伴ない、個人の読書とは異なる印象を付与する。そこで、文章を書いた本人が読むことを聴くのが最もよさそうだが、そういう機会としては講演がある。筆者は鶴見俊輔の講演を間近で聴いたことがある。氏は手元のカードを繰りながら、それをほとんど見ずに語ったが、語り方が見事というより、論理が明確で、無駄な言葉が一切なく、曖昧さが感じられず、筆者は驚嘆した。厳格な文章にした言葉があってその語りがある。一方、TVやYouTubeではただただ曖昧なだけの、論理も何もない話し言葉が氾濫している。もちろん倫理もよく無視され、炎上しては平謝りする愚か者が相変わらず大きな顔をしている。さて、今日の写真も5日に撮った。以前書いた冨田渓仙の家の前の李で、ぼたぼたと落花している。もぎることが許されるなら、酒に漬けたいが。「梅スモモ 同じバラ科で 違う属 酒に漬ければ 味も違うか」

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