「
麩の毬を 浮かべた汁の 松茸の 香りに結ぶ 昔の市場」、「手を引かれ 母と通いし 市場にて 松茸知りて 香り忘れず」、「乾物に 青果に煮豆 花に肉 市場の前に コロッケ売りも」、「ポケットに 怪獣入れて 笑顔の子 親も生きると 懐柔されし」
先日
お菓子の「おっとっと」の新型について投稿した際、ピカチュウがポケモンことポケット・モンスターのひとつのキャラクターであることに気づかなかった。気づいてから投稿を訂正するのも面倒なので、今日の投稿を思いついた。数か月前、嵐山の中ノ島の食事処が並ぶ前の石畳みの道に、カラフルなマンホールの蓋が出現した。京都市の古い蓋と取り替えてのことで、ポケモンのキャラクターのひとつがデザインされている。渡月橋から100メートルほどで、多くの観光客が気づく。同様の蓋は日本全国に数十か百程度設置されたことをネットで読んだが、嵐山ではたぶんその場所のみだ。以前の蓋を派手なものに取り換える必要はないが、京都市にすれば企業が経費負担し、その蓋目当てに観光客が増えれば文句はないとの考えだろう。それはそれでわからないでもないが、何となくいい気はしない。蓋を取り替える際に円形の周囲を幾分削り、そこをセメントで埋めたはいいが、その仕事がいまだに周囲に馴染み切っていないからでもある。だが、ポケモン好きの子どもが見れば喜ぶ。それに子どもはデザインされている「ホウオウ」からやがて「鳳凰」を知り、その空想の鳥が中国から日本へとわたって来てさまざまに造形されていることをやがて知るだろう。逆に言えば、古い吉祥の題材をこうした新しいアニメ・キャラクターが新世代に伝達する役割を果たしている。とはいえ、ピカチュウは完全な新しいキャラクターで、ポケモンの多くのモンスターも同類だろう。とすれば、嵐山に「ホウオウ」が選ばれたのは心配りが行き届いている。実際筆者はこの新たな蓋に黄色のピカチュウが象られていれば、かなりげんなりした。そう言えば儀間比呂志が描いた鳳凰の壁画と手塚治虫のそれが京都市内にあって、その2点の写真を同時にブログで紹介することを数年前から予定しているのに、手塚の作品を撮影する機会があっても忘れてしまう。手塚の『火の鳥』に関心がないからだろう。小学校の卒業と同時にぴたりと漫画に関心を持たなくなった筆者で、手塚の『鉄腕アトム』も小学3,4年生の頃に充分堪能した。漫画家にも主張する思想があるのは当然だが、絵を描く分、言葉に深みがないのも当然ではないか。言葉を選び抜き、精緻に組み立て、そこに誰のものでもない個性を築く詩に関心を抱くと、雑誌連載のストーリー漫画を読んでいる暇はないと感じる。これは費やす時間の質を高めたいかどうかの問題で、その質は人によって違うが、悪銭が良貨を駆逐することを思っておいたほうがよい。そう言えばロジェ・カイヨワの『蛸』は水木しげるの妖怪まで扱っていたから視野の広さに呆然とする。
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