「
訂正の 出来ぬ遺伝の この体 認め使えよ 惜しまず時を」、「知らぬ間に 初雪積もり 地を隠し 吾古希迎え 地はいよ露わ」、「知らぬ間に 増えし弛みや 皺ほくろ 母により似る 顔と囃され」、「迷いつつ 載せると決めた 吾写真 その大きさが 迷いを示す」

一昨日古希を迎えた。コロナの緊急事態宣言下でもあって、記念にどこかに食べに行くこともなく、自宅でさして祝いもせず、せめて家内に写真を撮ってもらうことにした。7,8枚撮ってもらって、そのうちの最も線が細そうな、つまり実像に近い1枚を今日は使う。ネット上の筆者の顔写真は他人が撮ったものが2、3枚、自身の撮影はこのブログに3,4枚で、なるべく載せないようにしている。今日の写真を最後にするつもりでいるが、人前に出る機会があれば他人が撮影したものは今後も載せられるかもしれない。TVでは高齢者向けの健康食品や化粧品の宣伝が多く、若く見えることに金を使うことに女性は特に抵抗がないのだろう。還暦の年齢であるのに10歳ほど若く見えることに喜ぶ心理はよくわかるが、実際は還暦であり、またその年齢に見えている。古希になった筆者もどこから見ても満70歳の古希で、絶対に年齢の隠しようがない。ただし、肉体と心が一体のものとすれば、心を若く保てば肉体の老化はわずかでも遅らせられると考えることも出来る。そして心を若く保つ方法は、適当な運動以外に、関心を広げ、面倒がらずに日々蓄積される思いを吐き出すことと筆者は信じているところがあり、このブログはその役割を果たしている。老人のたわごとで、無駄な抵抗と言われることは百も承知だが、元来怠惰な筆者はこうして何か毎日やることがなければ、より無為に過ごしてしまう。もっとも、筆者の関心事は日々増え、その中から文字にすることはほんの一部で、またかなり偏りがある。それはそれとして、ブログを即興かつ決めた字数で書くことで、あまり意識していないはずのことが明確になり、そのことでさらに関心が広がり、新たな目標が生まれる。思っているだけでは駄目で、記すことが作品の第一歩になることは、ストラヴィンスキーが毎日欠かさず、わずか数小節でも五線紙に書いたたことに似る。その日記的メモから名曲が生まれた。つまり名曲の背後に膨大な日々の書き留めがある。大芸術家といえども、日々の仕事から稀に名作が生まれる。練習量が少ない者はそのスタートラインにも就けない。ところがネットでは練習にもならない単なる誹謗中傷の言葉を撒き散らして真面目に努力する者を嘲笑する者が無数にいて、そういう短い駄文を信じる者も多い。嘆くことはない。最初からそのような者は消えているも同然だ。またそのことを知る、つまり自分が無能であることを知っているので、他者に中傷の言葉を投げつける。筆者は金儲けのうまいだけの連中を有能とは思わず、文章や音楽、絵画など、工夫が見られるものを作る人に関心がある。

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