「
寛ぎの 巣ごもり終えて 飛ぶ空に 雨降り始め 大鷹舞うや」、「施しを 乞う人嗤う 盗人は 賽銭狙い 月明かり避け」、「公は オレのことだと 好き勝手 大悪党が 偉大な人と」、「肺やられ 息が出来ずに ころんとな 陰で息抜き ロックのフェスや」
『明日へのチケット』の邦題は明日を生き抜くにはチケットが必要というドライな資本主義を象徴していると感じるが、金がなければチケットが買えないかと言えば、善意からただでもらえる場合がある。人間に善意が具わっていると考えるお人好はそれなりに同類と親しくなるもので、生きづらさの程度は誰でも同じではないかと筆者は思う。先日少し書いた岩崎巴人は、晩年盛んに良寛の絵を描いた。富山に住んだことがあるので、その縁で良寛に関心を抱いたのだろう。筆者は昔から良寛は気になっているが、その独特の書のよさをまだ本当にわかっていない。それはさておき、良寛が暮す貧しい寺に泥棒が寺に入って来て何かを盗もうとし、寝ていた良寛はその泥棒の哀れさを思って涙し、狸寝入りを装い、布団を蹴ってそれを奪わせる。そしてその事件から「盗人にとり残されし窓の月」を詠んだ。泥棒が去った後は月が美しく、それは泥棒が奪えなかったものだ。この句は月明かりを意図してのもので秋と思っていいが、新潟ではすぐに厳しい寒さが訪れる。何も持たない僧侶がさらに寒さを凌ぐ布団を泥棒に持って行かせるこの句に対し、ほとんどすべての政治家はただの馬鹿と思うだろう。YouTubeで稼ごうとする卑しい連中も全員そうに違いない。だが良寛の時代も同じはずで、武士は名ばかりで酷い連中が中心になっていたであろう。それはいいとして、ジョニ・ミッチェルはこの良寛の俳句に触発されて「MOON AT THE WINDOW」を40歳頃に作詞作曲している。ジョニらしく希望と絶望の愛の二面性に言及しながら、そして常に喜びは怖れに変わる現実を知りながら、窓の月明かりを思い浮かべる。彼女が尊敬したレナード・コーエンが日本の禅に関心が強かったので、ジョニもそれなりに日本の僧侶に興味を持ったのかもしれない。だが良寛のこの俳句にある無一物の思いがジョニに理解出来るだろうか。ザッパもこの句は知っていたはずだが、この句の境地を理解しなかった。アメリカでは何をするにも金が必要で、無一物で生きることはホームレスでも無理だ。良寛から奪って行く泥棒はいたが、布施をしてくれる村人もいて、それで昔なら長寿の70前半まで生きた。良寛は村の子ども好きで有名で、それに40歳年下の美人とされる貞心尼との文通や交友のエピソードからしても、良寛ほどに幸福な男はいないように思える。無一物に徹してあらゆるものを得た逆説が良寛にある。無一物の生き方は誰でも無理としても、困っている人に情けをかけることは誰でも出来る。
『明日へのチケット』の第1篇は、老教授の一目惚れの恋心が貧しい家族の困窮へと眼差しが向き、一杯のミルクをその家族の幼ない子どもに与える場面で終わる。この家族はおそらく祖母とその娘ふたり、そして10代半ばの男子と2,3歳の男児の5人で、彼らはアルバニア人で、映画の最初でオーストリアのインスブルック駅の構内にやって来る。また同駅には寄付箱を持ってうろつく男もいて、セリフのない人物などの細部から伝わることが多い。たとえば教授とヴァレリアが演じる秘書が乗るべき車両の真横で向い合って会話する場面では、背後の列車の窓辺にひとりの中年男性がいて、彼は教授と秘書をちらちらと見ている。その男は後に何度か仕草が大写しになるが、一言程度のセリフしかなく、またどういう人物かは明らかにされない。さまざまな国のさまざまな階層の人物が同じ列車に乗るとの設定は、どの乗客を扱ってもそれなりに語るべき物語があることを意味する。本作では3篇によって3組の人物を主役にし、特に第1篇は教授と秘書のふたりに焦点を合わせるが、キアロスタミが担当する第2篇では将軍の未亡人と25歳のフィリッポという青年の組み合わせ以外に男女が数人ずつ重要な役を演じ、みな個性的で印象深い。未亡人と青年のやり取りは、教授と秘書のほのかな関係から一転し、醜い主従関係で、第1篇から一気に気分が悪くなると言ってよいが、キアロスタミはこのふたりで何を言いたかったのかと疑問に思う。兵士と言えば、第1篇の最初に迷彩服を来て銃を持った7,8人が駅構内にやって来て、犬を連れて教授の乗る車両を点検する場面がある。教授が空港を利用出来なかったのもテロの問題からだろう。兵士のものものしい警戒の中、前述のアルバニア人や教授は身分証明書の提示を求められ、教授は秘書に「わたしが不審者に見えるかね」と訊ねる場面がある。すると秘書は「謎めいています……」と答えるが、それは少し言葉が噛み合っていない。教授は何か悪いこと企む人物との意味で言ったのだが、秘書は普通ではあまり見かけないタイプで、それで魅力的と言ったのだが、それは秘書の最大の褒め言葉だ。それが世辞かどうかはわからないが、会社に20年勤務して多くの人を見て来ている秘書にすれば、珍しいタイプと映っていたことは確かだろう。ただし、そのことで男が恋愛感情云々を思うのは早合点だ。もちろんそのことを教授は自覚していて、それでただ一方的に思いを伝えたかったのだが、昨日書いたようにレストランでの場面は教授の妄想だろう。そして妄想という執着は老いるほどに素早く忘れるもので、眼前に繰り広げられる不幸に心が痛む。またそういう教授であることが秘書にはわかっていて、それで別れ際にキスをしたのだろう。教授役の男優は素晴らしい演技をする。これがまだぎらつきのある精力を感じさせる男では物語は成立しない。
教授の乗った列車は、ドイツのフランクフルトから南東に進んでインスブルックに着き、そこからローマに向かう「インターシティ」だ。本作のDVDのパッケージ中央右端にイタリア半島の簡単な地図が印刷される。それは本作をつぶさに見るためにはほとんど用をなさないが、本作がイタリア北部から中部に南下するまでの車内での出来事を描くことはわかる。教授が下車したのはイタリア北部であることは間違いがないが、第2篇は教授が過ごした夜が明けての朝の場面から始まる。しかもアルバニア人家族の5人はプラットフォームで電車に乗ろうとし、また第2篇の主役である太った未亡人と25歳の青年も一緒に右往左往するが、木陰から撮影されたその駅がどこかわからない。インターシティの乗り換えはミラノやボローニャが代表だが、どちらも今は新しく改装され、本作に映る木はなく、鄙びた雰囲気もない。本作はインスブルック駅と終着のローマ駅構内は映るが、そのほかはすべて車内および車内から外を眺めた撮影で、効率よく撮影するために列車での本番以外に建物の中で入念にリハーサルを重ねたに違いない。列車を貸し切っての撮影はそう長期にわたることは許されない。そしてセリフのないちょい役の乗客も全部キャスティングしたはずで、列車を舞台にすることは予想以上に問題が多いのではないか。車窓の風景はあまり大写しにならないが、イタリアのトスカーナの住民で列車好きなら、どこの眺めかはわかるはずだ。そのことは映画で描かれる場所との整合性が求められ、撮影はなおさら俳優の技量に負う面が大きい。つまり一発撮りでなければ、撮り直すのにとても苦労する。これは些細な場面だが、青年が4,5歳年下のかつて同郷の女性と話す場面がある。女性は青年が忘れてしまっているであろうエピソードを話し、公園でかくれんぼして土管に潜り込んだことがあると言った瞬間、列車は短いトンネルに入って一瞬暗くなる。それはキアロスタミ監督が計画したことか。きっとそうだろう。監督でなくても表現者はそうした細部にこだわる。逆に言えば、ごくわずかな部分で全体が台なしになる。その点で第1篇は完璧で、どの瞬間も見事と言うほかない。話を戻して、聞き役の青年とは違って、よく話すかつての同郷女性の演技がまずければ撮り直しせねばならず、そうなれば列車がまた同じかあるいは同様のトンネルに差しかかるのを待つ必要がある。もっと言えばキアロスタミは撮影前に同じ路線に乗り、どこでどういうように撮るかを吟味した。そしてそのとおりに撮影することは、俳優やカメラマンの技量が優れていなければならない。その意味で3篇ともあまりに見事で、さすが3人とも巨匠と呼ばれるだけはあると思える。とはいえ、第2篇には少し矛盾がある。これはイタリアの鉄道ファンなら気づくだろう。
第2,3篇はミラノ、ボローニャを経てローマに向かう同じ列車の中での物語だ。前述のように未亡人と青年はアルバニア人家族と一緒に同じ車両に乗る。その駅がどこかは不明だが、未亡人が夫の一周忌のために訪れるのはキュージ=キアンチャーノ・テルミという駅だ。その駅にひとりで未亡人は降り立つところで第2篇は終わる。第2篇の中心エピソードは、未亡人が青年をひどく怒鳴り続け、召使のように扱うことから青年が嫌気を差し、未亡人から逃げるというものだ。列車の中で必死になって青年を探す未亡人をうまく巻く、青年はひとりローマに着くが、到着の様子はわずか数秒、第3篇の最後で描かれる。未亡人は列車の先頭まで行き、そこで青年が運転車両との連結部から身投げしたと思うが、青年はどこかに隠れていたのだ。もっとも、そのことは第2篇では明らかにされず、本当に自殺したのかと鑑賞者も不安になる。大きなトランクを2個に小さなトランクとスーツを抱えて未亡人はキュージ駅に降りるが、荷物を下ろす手伝いをするのが中年の大柄な男性だ。その人物はトイレに立って座席に戻って来た時、未亡人が電話している携帯電話を自分のものだと主張し、未亡人と喧嘩になる。結局男は席をひとつ間違えていて、携帯電話は自分の上着にあることがわかる。その気まずい思いから、未亡人が下車する際に「青年はどこへ行った?」と訊きながら荷物を下ろす手伝いをする。そこはキアロスタミらしい、ほっとさせる人情を描く。それを言えばふたりの中年サラリーマンらしき男性とのエピソードも重要だ。未亡人は列車に乗り込んだ時、青年から指定の座席ではないことを指摘されながら、どんどん進んで空いている席に陣取る。インターシティはたぶんみな指定席だが、途中で乗って来る客がある。それまでは指定券を持たずとも空席に座っても文句を言う人はない。とはいえそれは図々しい。つまり第2篇は最初から未亡人がその権化のように描かれる。それで夫の将軍の部下であった青年を小間使いのように奉仕させているのだが、傍目には不思議な関係に映り、不倫かと囁かれもする。祖母か母親のような年齢ではそれはないが、世の中にはそういう不倫もあるかもしれない。また未亡人は青年がかつて同郷の娘たちと親しく立ち話をすることを妬き、ますます横柄な態度を取るが、さすがの優しい青年も堪忍袋の緒が切れる。同郷の娘を演じる女性はセリフが多く、また特徴的な顔立ちで、その後他の映画に出たのかどうか知らないが、なかなかの才能だ。青年にすれば昔は恋人といちゃつくために、周囲にいる邪魔な子どもたちにかくれんぼしようと言って、自分たちの目の届かないところ、たとえば土管に行かせたのに、今はセックスを知る娘となって自分に声をかけるので、悪い気はしない。そのことを未亡人は感じるのだ。
指定座席券を持たない未亡人と青年の前に、その券を持つ中年サラリーマンがふたりやって来る。ガレーゼ(GALLESE)という駅でのことだ。同駅は未亡人が下りたつキュージ駅より南50キロほどにある。ということは、列車はローマに向かわずに北上していることになる。これでは物語に合わない。未亡人が目指す駅がキュージで、サラリーマンが乗って来る駅がガレーゼであれば辻褄が合うので、編集ミスか。ガレーゼ駅はその表示が車窓から撮られるが、キュージ駅はプラットフォームがわずかに見えるだけで、本当に同駅かどうかはわからない。話が前後するが、未亡人が列車に乗ったのは車窓の明るさからして降りた駅からは数時間前だろう。インターシティは新幹線のような速度ではないので、未亡人が乗った鄙びた駅はフィレンツェかもしれない。同駅も乗り換え路線がある。そんなことを詮索しながら本作を見るとちょっとした旅行気分になれる。筆者は最近TV番組『ヒロシの迷宮グルメ』を欠かさず見るが、彼はインターシティに乗車したことがあるだろう。同番組は必ず最初に列車の内部をわずかに映し、また同乗客の姿も見えるとこが面白いが、本作のように客同士の触れ合いは主眼ではない。駅前食堂に金を払って入るのではなく、他人に迷惑をかけるだけであるのでそれも当然か。話を戻すと、第2篇の未亡人は他人に迷惑をかけても平気で、それは夫が将軍であったという思い上がりからだろう。キアロスタミの風刺精神がそこには垣間見える。それを言えば第1篇に登場する迷彩服の軍人たちも、いくら業務とは言え、態度は横柄で、列車の端に座り込み、まるで客全員をサングラスの奧から監視している雰囲気があった。それもテロが頻発する世情では仕方なきところがある。第2篇では彼らの姿が消え、変わって25歳の兵士経験のある男性が登場する。未亡人からコーヒーを頼まれて食堂車に行った彼は、座席券を持って入って来たサラリーマンふたりと語り合い、「先ほどは失礼しました」と謝る。将軍の未亡人にその常識がなく、無名の一兵卒がまともで、ついに反旗を翻すことを描く第2篇は権力風刺がひとつの主題と言ってよい。それ以上に重要なことは女の難しい性質だ。青年は食堂車でサラリーマン相手に、「年配女性だけではなく、女はみな扱いが難しい」と口にする。この名言は第1篇とも微妙に関係し、青年の同郷であった車内で出会った娘たちにも言えるだろう。今日の最初の写真はアルバニア人家族と未亡人、青年が列車に乗る場面、2枚目は食堂車での青年で、右手に映る白と緑の横縞模様のシャツを着る若者は第3篇の主人公だ。3篇ともに登場するのはアルバニア人家族のみで、本作は彼らの運命を通奏低音として表現する。今後EUがどこまで国を包含するのかという問題と絡み、本作は人間のあるべき姿を提示している。
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