「
砥ぎすぎて 刃が減るを知り 歯磨きも 適当に済まし 虫歯蒸し無視」、「同乗し 同情あれば 無視もあり 無慈悲な事故も 自己責任か」、「乗り合いに ランクあるのは 世のならい 棲み分けありて 時に交わり」、「ぐらり来て じわりと滲む 腋の汗 地震に失くす ジムでの自信」
筆者はよく電車に乗ろうとする夢を見る。駅に向かい、切符を窓口で買う場面が必ずあり、駅構内に入って電車、列車に乗る場面はほとんど見ない。乗り換えに手間取っていたり、窓口の駅員の要領が悪かったりして、目的地に着くまではるかに遠いという感覚がいつもある。そんな夢が何を意味しているのか深く考えたことはないが、同じような夢をよく見るあまり、夢の中で以前見た夢に出て来た場所がすぐ近いという思いをしながら見知らぬ街を歩いていることがある。夢は出鱈目であるから深く考えたところで仕方がなく、目覚めた時に「ああ、また同じような夢を見たな」で忘れてしまうが、こうして書いていると、実際は忘れておらず、いくらでも夢に登場して来た場所、場面を思い出すことが出来る。その映像をそのまま他者に見せることは出来ず、したがって文字で説明しても他人に筆者の視覚は伝えられないので、こうして夢そのものの内容ではなく、駅に関する夢をよく見るという程度のことを書いてお茶を濁すしかない。ところで、筆者は車を運転しないので駅の夢をよく見るのだろうか。車好きな人ならば、ひとりあるいは連れとどこかにドライヴする夢を頻繁に見るだろう。どちらにしてもどこかへ向かうことは生きている限りあることで、筆者が駅で切符を買い、電車に乗り遅れないように焦っているのは、たぶんやるべきことをやらねばならないという切迫感が日常的にあるからで、また目的地に着かないのはそのやるべきことが滞っているからなのだろう。だが、先日書いたように人生は「バベルの塔」で、いつまで経っても完成はない。それは到着駅がないことだ。ただし現実的には死が訪れるので、どこかへ向かいながら強制的に下車させられる。それは自ら降りることでもあって、筆者がしばしば見る夢は死を暗示しているかもしれない。もちろん死にたくはないが、案外もう死んでいるような暮らしかと思わないこともない。話を変える。ドーミエは列車の乗客を観察するのを好んだようで、車内の人々をよく描いた。たいては三等の客車で、時には上流階級が乗る一等の人々も描いた。列車の階級つまり運賃の違いで、乗客の身なりや顔立ちが違うことが面白かったのだろう。だが金をたくさん持っている人が高貴とは限らない。ドーミエはそのことを政治家や弁護士を描くことで明らかにした。現在の日本でも全く同じで、YouTubeで大金を稼ぐ連中を初め政治家、アーティストと呼ばれるミュージシャン連中もみなろくでなしの顔をしている。あるいはそういう者だけが目立つ世の中になっている。
無人島で暮らしても今は地球規模の環境汚染から他の人々からの影響を受ける。国、地域、階級によって人の棲息場所は違うが、地球という乗り物に人類全部が乗っているからには他者と全く関わらないことは不可能だ。筆者はスーパーに買い物に行くか近くの温泉に行く以外は、家内以外の人とは顔を合わせない生活だが、TVやネットから情報が入って来るので世の動きには接している。ところが自分の年齢の自覚はあるので、事故や事件、あるいは深刻な病気に巻き込まれなくても寿命は縮まって来ていることを思う。そういう暮らしの中で若い頃と違った心境になって来ていることをよく自覚するかと言えば、あまりそのことを考えない。この点女性はどうだろう。男と違って出産する性であり、またそのことに年齢の限界があるから、男女の考え方が違ってあたりまえと思うが、男女平等の観点からそれを言うべきでないのが今の風潮だろう。昨夜書いたように、男女ともに年齢を重ねるほどに異性に若さを求めるところがあって、それは若さを吸収して少しでも老いを忘れたい、あるいは実際に老いを遅らせられると思うからで、人間は若さに価値を置いている。ところが加齢は必然で、やがて抗しようのない老化が訪れる。男は確かに女よりも生殖能力を持つ期間は長いが、高齢の男が金の力で若い女を手に入れるのは、あまり美しいことではない。以前書いたが、渡月橋から嵯峨のスーパーに向かっていると、20代の女性ふたりと擦れ違った。背が高く、肉づきもよく、平均以上の美人で、若さが横溢していた。擦れ違う瞬間、筆者は彼女らに汚らわしさを感じた。もっと言えば、絶対にキスしたくなく、生身の体にも触れたくないという思いだ。不思議な感覚で、そのようなことはそれまでになかったので意外であった。筆者に生殖能力がなくなったからではないが、減退している証拠なのだろうと自分に言い聞かせる一方、家内が時に筆者に言うように、筆者は女好きだとは思う。ただし、筆者が30歳半ばの頃、知り合いの一回りほど年上の女性から聞いた言葉に、「年齢を重ねるほどに異性への理想が高くなる」があって、筆者はそのことをしばしば想起し、なるほど当時のその女性よりはるかに老いた筆者が、「女は好きであってもめったに惚れることはない」と自覚する境地に来たのだなと思う。それを言えば「そもそも女性に相手にされないからだろう」と言われそうだが、前述のようにいくら若い女性でも場合によっては近くにいるのも嫌という境地にあって、女性に対する眼差しは年々厳しくなっている。素敵だなと思える女性を見かけず、出会わず、またTVに出て来る女優やタレントでもめったに瞠目することがないが、老化とはそういうものなのだろう。そしてそれは自然であり、それを受け入れるのがよい。つまり、そうあるべきだ。
今日取り上げる映画『明日へのチケット』は原題が『TICKETS』という複数で、列車の切符を指す。ヴァレリア・ブルーニ=テデスキが登場し、昨日取り上げた『ふたりの5つの分かれ路』の翌年つまり2005年の作品だ。ヴァレリアは当時41歳で、成人の子がいてもよく、また子どもを産んだことがなければもう産めない頃で、女性としては人生のひとつの大きな曲がり角だろう。ヴァレリアは結婚も出産の経験もないので、女優らしくていつまでも美貌を保つであろうし、本作でも謎めいた色気がたっぷりで、彼女のことが気になる筆者は彼女の顔が画面いっぱいにクローズアップされる数か所を見ただけでDVDを買ってよかったと思っている。本作は3人の監督がそれぞれ30分ほどを受け持ち、オムニバス形式でありながら3篇が関連する。ヴァレリアが登場するのは最初の篇で、3篇では最も地味で印象に残らないと言う人がほとんどだろう。そしてDVDのジャケットに印刷される3人の若者が登場する第3篇が最も面白いという定評があるはずだが、筆者は文句なしに最初の篇がよい。これほど味わい深い作品は人生にそう何度も出会わない。それはもちろんヴァレリアの出演のためだが、相手役の薬学者の老教授を演じる男優が当時筆者と同じ69歳であることにもよる。映画では何歳の役であるかは明かされず、それで実際の俳優の年齢として演じていると思うしかないが、とすれば秘書を演じるヴァレリアと教授の年齢差は28だ。筆者の周囲に現在41歳の女性はいないが、ヴァレリアのような魅力的な女性が面前に現われると狼狽えることは間違いない。第1篇の監督はエルマンノ・オルミで、『木靴の樹』が代表作らしいが、筆者はそれを見ておらず、他の映画も知らない。だが本作で充分にその才能はわかる。オルミがヴァレリアを起用したのは、その妖艶な魅力に圧倒されたからだろう。オルミは1931年の生まれで、本篇時74歳だ。オルミはおそらく本篇で描かれる経験をしたのだろう。その相手がヴァレリアであったとまでは言わないが、彼女以外の起用は考えられない。彼女がもう4,5歳若くても老いていても駄目で、ちょうどよかった。完熟し切った女の魅力は本人がさほど意識せずとも常時発散されるもので、特にその能力に優れている女性はいる。それは男でも同じだが、不思議なことに誰でもそういう人に魅せられるかと言えばそうではない。筆者はヴァレリアに魅せられるが、そうではない男もたくさんいるはずだ。ともかく、オルミはヴァレリアを起用し、70歳前後の知的な男が一瞬のうちに彼女の魅力に打たれることを本篇は描く。それは人生の最終段階を迎えている男の見苦しい本能だろうか。そう見る女性は多いだろう。娘のような年齢の女にのぼせ上がることは確かに醜い。だが本篇では教授役はぎらつき感が皆無で、芸術を理解する紳士として描かれる。
教授はイタリア在住でオーストリアの製薬会社の顧問をしている。そしてたまに同社に呼ばれて出かける。ある日教授はかわいい孫から出かけるなと言われながら、小遣い稼ぎに行って来ると言って同社に飛ぶ。ところが会議の最中に教授は孫の顔見たさにその日のうちに帰ると言い始める。残務はノート・パソコンで書類を作ってメールすればいいという気持ちだ。会社は飛行機の手配をするが、空港が閉鎖され、列車しか使えない。その切符の手配をしたのがヴァレリアが演じる会社の秘書で、彼女は欧州を横断する列車の食堂車の切符を用意する。教授が駅で待っていると、雑踏の中、ヴァレリアが切符を持ってやって来る。彼女は1時間遅れで出発することを教授に告げると、教授は安堵し、彼女と列車の窓際で立ち話を始める。その最中に孫から電話があり、話を中断する教授だが、ヴァレリアはほとんど聞き役だ。教授は彼女と初対面で、彼女は20年勤務していると言う。その間、教授は何度も出会う機会があったはずなのに、不思議な縁だ。場面はふたりの話以外に残り2篇との関連性を持たせる必要上、ふたりとは直接関係のない人物を何人も登場させ、本篇のみを見ると意味不明な点が多く、また教授の妄想、回想の場面もあって、なかなかややこしい。ふたりがレストランでワインを飲みながら話し合う場面があるが、これは教授の妄想であろう。あるいは列車の出発が1時間遅れたので実際にふたりは駅構内のレストランで時間を過ごし、そこで教授は素直に秘書に魅せられたという思いを伝えたのかもしれない。どちらとも受け取れるが、ほかの場面では教授は子どもの頃から家に籠って夢見がちであったと秘書に話すので、彼女と別れ、列車が動き始めてから教授はレストランで話すことを空想したのだろう。動き始めた列車の窓からプラットフォーム上のヴァレリアの姿が一瞬見える場面がある。教授は慌ただしく別れてお礼の言葉を言えなかったと後悔し、そしてパソコンを開いて、製作中の業務文書を横にメールを書き始める。ところが最初の挨拶から先は進まない。彼女への思いに浸りながら、一方で子どもの頃に近所から聞こえて来たショパンのピアノ曲『24の前奏曲』を弾く若い女性の後ろ姿を反芻する。列車が出発する前、教授は秘書に「あなたはピアノを弾きますか」と訊ねると、彼女はそれを否定する。教授のいわば初恋に似た思いが秘書に会った途端に蘇り、自分は今まで熱い恋をせずに生きて来たことを自覚する。孫がいるので結婚して子をもうけたが、妻は秘書のような魅力を持っていなかったのだろう。あるいは結婚当初は妻に魅力を感じていても、やがてそれは消え、今は孫が第一になっている。そういう好々爺を満喫している生活に突如妖艶な女性が割り込んで来た。教授は早く孫に会いたいのに、列車に不具合が生じ、元の駅に戻らねばならないことがあればいいのにと思う。
これは妄想ではないが、秘書は教授に向かって、「女は謎めいた雰囲気の男性に惹かれます」といったことを言い、教授の頬に口づけする。教授は白い髭を生やし、秘書より一回りも体が小さくて柔和で、40歳の美女が相手にする男らしさはないが、「謎めいた雰囲気」はあるのだろう。老人がみな汚らしいはずはなく、真面目に研究に打ち込んで来てそれなりの名声を築いている学者となれば、時に少年そのままの感性を持ち、女性が優しい気持ちを抱く場合もあるだろう。秘書は名刺を教授にわたし、いつでも連絡していいと言う。それもあって別れてすぐに教授は列車の中でメールの文面を考え始めるが、食堂車の中はさまざまな人物がいて慌ただしく、妄想は中断されがちで、ついに宛名だけ書いたメールを消去する。教授は列車の連結部に最も近い場所に座っているが、貧しい移民らしき家族が連結部で困っている様子が気になっている。そして兵士のひとりがその家族の幼ない子のミルクに与えるべきミルク瓶を蹴飛ばしたのを目撃し、教授は車掌にミルクを持って来させ、それをその家族に与えに行く。そこで第1篇が終わる。教授はその家族の小さな子を見て孫を思い出したのだろう。秘書から離れるほどに彼女への思いは断ち切られた。淡い恋心がどうにも育ちようがないことを知っているからだ。レストランでの会話は教授の妄想か現実かわからないが、どっちでも同じことだ。実際に彼女に恋心を打ち明けたかどうかも重要ではない。恋心を抱いたことは確かで、教授はその一方通行で充分満足なのだ。それは相手に受け入れてもらえない場合の屈辱を惧れてのことではない。現実問題として、娘のような若い女性に恋心を抱いてその先に何が待っているか。また会社から呼ばれて出かけた時に秘書に会えればそれでよいし、会えなくてもよい。彼女には彼女の人生があり、教授の入り込める隙は皆無だ。教授はそのことをよく知っている。素敵な人に偶然会えてほんのわずかでも言葉を交わし、楽しい時間が過ごせたことは、それだけで人生に華やかな彩を添えてくれる。秘書は教授を尊敬し、その紳士的な印象を忘れないだろう。口に出さずともお互い何を思ったかを知っている。それが大人の恋で、70にもなれば若い女性の美しさをただ惚れ惚れと眺めているだけでよい。そしてそんなことはまず生じない。それでなお筆者には本篇があまりにも美しく、死ぬまでに何度も思い返すだろう。それはヴァレリア以外では考えられない。ミステリアスなのは彼女のほうだ。教授はそのミステリアスな雰囲気そのままを真空パックしたように記憶に留めているだけで充分幸福なのだ。教授は人生の残り時間が少ないことを知っている。それは列車で言えば目的地に着くことだ。実際教授はこの映画の最終地であるローマではなく、その途中の小さな駅で降りる。
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