「
屠られる 牛を哀れと 言う人が 哀れな人を 罵り嗤う」、「論破王 ロンパールームで 好き勝手 幼稚相手に 口泡飛ばし」、「生きるとは 意気るのみには あらずなり 息して胸の 鼓動に触れよ」、「秋が来て 飽きも来るかと 夫婦仲 ともに商い するには耐えよ」
去年の七夕に投稿した
『10ミニッツ・オールダー GREEN』の「水の寓話」で、女優のヴァレリア・ブルーニ=テデスキ(以下ヴァレリア)に関心を持ったことを書いた。その後彼女が出演した映画のDVDやビデオの中古品を買い集めている。アマゾンで300円程度支払えば2日間視聴出来るサービスがあって、そちらに頼るほうが安価で済むが、視聴購入ボタンを押して2日以内に見なければならないことが性に合わない。昨日書いたように筆者は40年数前に買った本でも今頃読んでいて、手元に置きながらいつか読みたくなる時が来るまで待つことを好む。アマゾンで映画を見るのは映画館に行くことと同じと思えばいいが、出かけることと家にいることとでは緊張感が違う。とはいえ、アマゾンで初めて視聴する気になっている映画がある。ヴァレリアが司会を務めるゴッホの絵を紹介するドキュメンタリー作品で、彼女が出演する最新作だ。アマゾンではDVDの価格の10分の1程度で視聴出来るので、すぐにでも見ればいいようなものだが、彼女が出演した映画をひととおり見た後がいい。つまり何年先になるかわからない。ところでこのブログでは連日ゴッホの名前を出しているが、ヴァレリアとゴッホの組み合わせは筆者には何となく運命的に思えている。もっとも、筆者がヴァレリアを知ったのは去年のことだ。「水の寓話」での彼女は未婚から中年までを演じ、その変化は化粧や衣装だけではなく、彼女の演技力に負い、強い印象を受けた。大柄で特徴のある容貌は一目で覚えられるが、個性の強さから日本では大女優と呼ばれるほどの人気はないだろう。イングリット・バーグマンやオードリー・ヘプバーンのような清楚なタイプではなく、またソフィア・ローレンのような貧困を跳ね返す情熱的な女という感じでもなく、美人ではあってもその枠を超えているようなところがある。そこが魅力と言えばいいか、男の筆者としては「世の中にこんな女がいるのか」という新鮮な驚きに戸惑っている。これは女の妖艶さにがんじがらめになる危うさと言ってよく、筆者にはめったにないことだが、幸いなことに彼女は画面内の二次元の存在であり、その意味で幻影に留まり、筆者の妄想は一定以上進まず、進めようもない。そしてそのことに安堵している。安堵というのは、一歩離れたところで彼女を吟味する立場を有していることを実感するからで、あたりまえのそのことを絶えず片方で意識し、もう片方で彼女の仕草や表情に惚れ惚れしている。そういう一種困ったわくわく感は筆者のような年齢ではみっともないと思われるし、筆者は充分それを自覚もしている。
ウィキペディアによると、ヴァレリアは1964年、イタリア生まれで、フランスの女優だ。両親は音楽家で、妹はモデル兼歌手でフランスのサルコジ大統領夫人というから、有名人の血筋と言ってよい。名前は貴族的で、「ヴァレリア」は彼女の容貌にふさわしい。妹はあまり似ておらず、筆者は妹には魅力を感じない。ヴァレリアは女優業のみに満足出来ないらしく、脚本、監督作品も3作ある。そのうちの2007年の『女優』では交際していた19歳下の男優ルイ・ガレルを起用したとあり、ルイの顔を確認するとヴァレリアにとても似ていて、弟のように感じたのかもしれない。5年後に別れたそうだが、当時ルイは29歳、ヴァレリアは48で、破局は致し方がない気がする。どの国でも同じだろうが、力のある中年女性は必ずかなり年下の男性を求める。これは男と同じで、若さから活力を得たいのだろう。ヴァレリアは結局正式に結婚せず、養子を迎えているが、これも珍しくない。監督までするのであるから、両親に似て、作品が自分の子どもと思っているのだろう。ジョニ・ミッチェルも同棲は何度もしても一度も結婚しなかったと思うが、ジョニとヴァレリアは長身でスタイルがいい点で似ている。ただし、美人度で言えば女優のヴァレリアがはるかに勝るのは当然か。とはいえこれは好みの問題で、いろんな好みがあるので世の中がうまく回っている。ウィキペディアに彼女が出演した映画のリストがあり、1987年のデビュー後、毎年のように作品がある。その全部をDVDやビデオでは見られないが、代表作だけでも充分だろう。そう思う筆者は彼女の熱烈なファンにはなれないし、また前言とは矛盾するようだが、その必要もないと思っている。憧れの芸能人を追いかけるファンがよくいるが、筆者はそこまで誰かに夢中になれない。ところがヴァレリアの演技を「水の寓話」以降の映画で知った後、知るほどに夢中になる女優という気はしている。それに筆者の年齢もあるが、若い頃の彼女よりも中年以降がいい。ただし2002年の「水の寓話」以前の作品を筆者はまだ見ていない。「水の寓話」は彼女が38歳の作品で、それなら子どもをもうけてその子どもが思春期を迎えた頃の母親役もこなせる。今日取り上げる『ふたりの5つの分かれ路』は2004年の作で、当時40歳のヴァレリアが独身から結婚、出産、離婚までの数年を演じることには無理がない。その意味で本作の監督フランソワ・オゾンは「水の寓話」のヴァレリアを見て起用を決めたのではないか。因みにオゾン監督はヴァレリアより3歳下だが、本作は別の女優でもよかったかとなると、これは何とも言えない。筆者は相手役の男優ステファン・フレイスはミス・キャストに思える。ヴァレリアとは似合っていないからだ。ただしそれゆえに本作の脚本にぴったりと言える。ステファンは1960年生まれで、ヴァレリアと世代は同じだ。
映画女優は誰でもではないが、セックス・シンボルとして自他ともに認められるものと言ってよい。現実では満たされるはずがないが、それだけにお気に入りの俳優相手に恋心を寄せるのだが、これは男女ともに同じで、それで昔から俳優は必要とされて来ている。筆者がヴァレリアに思うことも幾分はそのセックス・シンボルで説明がつくと言っていいかもしれないが、筆者が彼女と可能であればセックスしたいかと言えば、それはない。あるいはほとんどない。最初から諦めているからではない。現実の彼女と言葉を交わせられるようになったとしても、筆者は彼女とは全く釣り合わないことを知っているし、また仮に釣り合ったとしても彼女の内面のすべては把握出来ないという直感のようなものがある。それゆえなおさら彼女が魅力的と言っていいのだが、それは別の言葉で言えば、美の不可思議さで、捉えどころのなさが彼女にはある。それは俳優業ゆえに当然で、監督の説得を受け入れるのであれば、どんな役でも演じる。それは本当の姿が彼女にはないことを意味しそうだが、そのことは筆者にはわからない。筆者としては映画を通じて彼女を見るだけで、どこまで虚像でどこまでが実像かはわからない。またそのことは本物の彼女を知ることになったとしてもおそらくつきまとう思いのはずで、男女間に横たわる暗い川のなせるわざであるのかどうか、女優とは何かを越えて女とは何かを筆者に考えさせる。そういうことをドーミエやゴッホは考えたであろうか。当然考えたはずだが、自分が得意とする絵画という表現では女を描き切ることは無理とわかっていたろう。ドーミエに限れば、幼ないわが子の手を引く洗濯女や乳房を子どもに吸わせる逞しい女を女性の理想像と考えていたふしがあり、そこにセックス・シンボルへの眼差しは皆無だ。ゴッホもそうだ。大金を投じて多くの人が製作に携わる映画は万単位の多くの人が楽しむもので、人並み外れた魅力を持つ俳優が必要とされ、女優であれば時にセクシーさが要求される。ヴァレリアは初期作からおそらく官能性を求められる役が多かったのではないか。これは演技し過ぎるといやらしく、安っぽくなるが、ヴァレリアがその点どういう演技を見せるのかは今後買い集めているDVDやビデオを見ての楽しみだ。「水の寓意」では庶民的な女性を演じたが、彼女の役どころの基本はそれであろう。ところが本作でカラーで彼女を存分に見ると、意思のはっきりとした、強い性格を演技の奧に見る気がする。その点はジョニ・ミッチェルと同じで、結婚して家庭に収まって満足するようなタイプではない。またそういう女性にありがちの男を否定しがちな冷たさはなく、一瞬で男を射る眼力の鋭さがある。彼女を起用する監督はそのことをよく知っているはずで、したがって彼女が登場するどの作品も男が絡み、男を振り回すのではないかと想像する。
前置きが長くなった。本作は原題が『5×2』で、これの意味するところは邦題からわかる。2は本作の主人公の男女、5はそのふたりの出会いから別れまでの5段階で、「5×2」であるので、10の運命的な出来事ないし各人の選択肢があったという物語だ。フランス映画なので恋愛をテーマにすることはあたりまえとして、本作では世界的に増加している離婚をテーマにし、また浮気や同性愛、略奪愛も描く。5段階は離婚、ある告白、出産、結婚、出会いで、本作ではその順に、つまり遡って描かれるので、理解しにくいところがあるが、一度見ればなるほどとわかる。そしてDVDのチャプターのサムネイルをクリックして各段階を個別に見るとなおよくわかり、DVD時代の編集と言ってよい。年月を遡っての描写となると、テープの逆回転のように人が前進しているのに後ずさりしているように見えることになるが、本作はそうではなく、5つのパートはそれぞれ時計は前に進む。離婚の場面を最初に見せられるので、暗い内容がその後も続くのかと最初から見る気が失せがちだが、結婚や出会いの章では明るく、初々しさが満ちているので、最後に近づくほど色鮮やかになって豪華な気分に浸れる。ところが最初に離婚の場面を見ているだけに、たとえば最後の場面は、カリプソの海に太陽が沈み切ろうとしているところに主人公のふたりが沖へと泳ぎに出るので、輝かしい場面ではあるがすぐに日没になる暗示が込められている。これはかなり苦い人生訓で、出会いの最初が最も心華やかで、その後はそれがくすんで行く一方ということを示唆し、実際本作はそのように物語が進む。それは出会いからして双方が別の選択をしていればそうはならなかったのかという疑問の提出でもある。つまり最終的な離婚の段階でもそれを思いひとつで変えることが出来たかもしれない。実際そのとおりだが、日本では今や3組に1組が離婚する時代だ。おそらくフランスではもっと多く、どちらかに、あるいは双方に決定的に妥協出来ない何かがあるので別れてしまう。これは結婚でなくても同棲や交際でも同じで、そういうことをジョニ・ミッチェルはこれまでさんざん歌詞にして来た。恋愛相手との出会いと別離を繰り返す行為が芸術に必要とは限らないとしても、芸術以前に、特に女性は特定の誰かとの恋愛が大切で、それ抜きでは創作の表現もないのだろう。あるいはそういう意見は男尊女卑の考えであって、異性への関心を作品化しなかったドーミエやゴッホのようなタイプの女性芸術家による作品もあると謗られるかもしれない。それに、いい年齢になっているのに若い女を求めてばかりの男もたくさんいて、ドーミエやゴッホは例外中の例外で、その名前や作品に無関心な男のほうがいつの世にも圧倒的に多い。それで映画はいつの時代もそんな芸術家の話ではなく、ごく一般的な人々の恋愛やその破綻をテーマにする。
離婚の原因の第一は浮気だろう。本作ではヴァレリアはマリオン・シャバールという広告会社に勤務している独身女性役で、友だちとヴァカンスにアフリカに行く予定がキャンセルになってひとりでカリプソの海辺に訪れる。カリブ海のどこかはわからないが、西洋人ばかりが目につく観光地で、そこで泳いだり寝そべったりするマリオンはゴージャスだ。彼女がひとりで泳いでいると、すぐそばにいたジル・フェロンという男が水しぶきをかけられ、顔を拭いながら女がマリオンであることに気づく。ジルは勤務する会社の関係からマリオンを知っていたのだ。ふたりは奇遇に驚き、食事を一緒にするようになるが、ジルには4年交際している彼女が同伴していて、彼女はマリオンに魅せられているジルに気づく。そしてジルはそれを隠さない。ジルの女は交際が長引いているせいもあるのだろう、とても冷たい表情になっている。長すぎた恋のせいで、結婚の機会を失ったまま付き合い、そこにどちらかに異性が現われて転機が訪れることは珍しくない。マリオンはシチリアの男と交際し、同島には三度訪れたことがあるが、4か月前に別れている。本作の最後の場面では、ひとり砂浜に寝そべっているマリオンのそばにジルがやって来て横に寝ようとする。マリオンはジルがひとりである理由を訊くと、ジルは彼女がひとりで山登りに行ったと答える。そこでマリオンがジルにそれ以上深入りしなければその後の関係はなかったのに、海が荒れているので泳がないようにとマリオンはジルに言った後、一緒に泳ごうと誘う。つまりジルが女と別れたことを察し、自分が横取りするという決心だ。恋人と別れて4か月のマリオンがそのような大胆な行動に出るのは若さゆえか。ジルも4年も関係を持った女性とあっさりと別れるのは、大人としては双方が互いに飽きていたことで説明がつく。結婚は勢いが必要だ。4年も関係を続けると結婚しているも同じで、今さら挙式や入籍もない。それはともかくジルとマリオンは正式に結婚し、入籍する。そこまではふたりは絶頂にある。出会いの章ではマリオンの水着姿が眩しいが、結婚式の場面でもそれは同じで、ウェディング・ドレスで踊るマリオンは艶めかしい。ふたりきりになってベッドに就いた時、ジルはマリオンにコルセットを外すなと言う。その言葉にしたがって下着姿になったマリオンは「今からストリップを見せようか」と笑顔でベッドのジルに近づくが、宴会の疲れからジルは寝入っている。当てが外れたマリオンはジーンズを履き、涼みに外に出る。夜の林でひとり座っていると、陰から男が現われ、隣りに座っていいかと言う。男はアメリカ人で明日帰国すると言い、マリオンにたばこを勧める。それを吸うマリオンは警戒を緩めず、ホテルに帰ろうとする。男はマリオンを抱きしめ、それを振り解こうとするマリオンだが、やがて肉欲のスイッチが入って積極的に男を求める。
結婚式の初夜に夫に抱かれずに見ず知らずの男に身を委ねたマリオンは、そこで人生の岐路をひとつ間違った。それは半ば事故だが、マリオンも積極的になった。そしてその出来事をマリオンはジルには言わない。またマリオンがジルに「ストリップを見せようか」と言う前にベッドでじゃれ合っている時、マリオンは「もう私に飽きた?」と訊く。これは結婚式まで性交渉が何度もあったことを意味するが、そうでなくてもやがてお互いの体には飽きる。ただふたりの間ではそれが思いのほか早く訪れていたのだろう。それで「出産」の章が理解出来る。マリオンは妊娠の定期検査に病院に行くと胎盤の位置がおかしいと言われ、すぐに陣痛が始まり出産する。そのことを会社にいるジルに電話で伝えようとすると、五度もつかながらない。ジルは携帯電話を切っていたのだ。そしてマリオンの出血がひどく帝王切開で男児が生まれたとマリオンの母から聞いても喜ばない。これは戸惑っているというよりも、もうマリオンに飽きているからだ。当然マリオンは機嫌が悪い。次の「ある告白」の章ではマリオンは意外なことをジルから話される。ジルの兄は同性愛者で、かなり年下の男と一緒にマリオン宅にやって来る。酔いも回ったのか、セックスの打ち明け話になり、マリオンは会社の関係者と乱交パーティに参加したことを話す。そこで若い女性とセックスしたと言った後、男性とも関係を持ったと告白する。そのことをジルの兄は同類になったと喜ぶが、マリオンは呆れる。若い女は許せても男根を受け入れることが生理的に許せないのだろう。自分は不要なのかという思いだ。それで最初の裁判所の場面、つまり離婚の手続きになる。それが終わった後、ふたりは自宅に戻り、ジルはマリオンとセックスしようと言い、マリオンはそれにしたがって素っ裸になり、ふたりは重なって関係を持つ。ところが途中でマリオンは拒否して叫び、服を着る。ジルは「やり直せないか」と言うが、マリオンは無言で扉を閉めて出て行く。産んだ子どもは2歳ほどになっていて、一番かわいい時だが、マリオンはとりあえずひとりで育てて行くだろう。それぞれに新たな異性との出会いがあるはずだ。結局愛は最初は輝かしくても、数年持てば色褪せるという反結婚観を監督は示したかったのだろうか。あるいは最初の出会いの輝かしさを思い出せば、いつでも壊れかかった関係は修復出来ると言いたいのか。本作の最初のほうにいきなり裸のヴァレリアが横たわる場面があって、その体の白さと美しさに筆者は実物を前に描きたい欲求が湧く。パンティとガーターだけの姿もエロティックだが、潔く裸になればむしろそれは消えて神々しい。そんなヴァレリアに似合う男性が思い浮かばない。先に書いたようにジルはマリオンに似つかわしくない。とはいえ現実のヴァレリアが19歳も年下の男性を愛したという事実も受け入れたくない。
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