「
貴婦人の 眼差し見えず 口惜しき 後ろ姿や みめうるわしき」、「向日葵の 見下ろす顔に 言われしは 『お前の残す 種はたわわか』」、「たわけ者 叱咤恨んで なおたわけ 裏でたわわの 悪口分ける」、「揃えるは 楽でないこと 知りながら 焦がれて待つに 楽しみもあり」
一昨日書いたことでふんぎりがつき、今日は2箱の「おっとっと」つまり4袋を全部調べて写真を撮った。ピカチュウに筆者は全く感心がなく、そのアニメに登場するキャラクターについて何も知らないが、今回の新シリーズは14種のキャラクターを製品化し、その一覧が箱の側面に印刷される。4袋にこれら14種のみが入っているかと思いきや、以前のシリーズの形も含む。今日の2枚目の写真の上2段の計12種が今回入っていたもので、パッケージ側面の14種との違いを比較しやすいように、上段の右から3個目、下段の左から2個目に少し空間を設けて撮影した。3段目に並ぶ6種は、今回の新シリーズに該当しそうに思えるが、以前のシリーズのものかもしれない。3枚目の写真は上方に以前から馴染みの魚を並べ、下方の大半は何を象ったものかわからない。以前投稿した旧シリーズと突き合わせるとわかるかもしれないが、面倒なのでしない。4袋で46種は以前よりもだぶりが少なくなっている気がするが、シリーズが増えるごとに旧シリーズも多少混ぜるのではそうなる。今回のシリーズはピカチュウをよく知っている人には歓迎されても、そうでない筆者は煩雑さを感じる。単純な形から複雑な形に変化して行くことは必然と言えるか。これは絵画で言えば抽象から具象か、具象から抽象かという問題に関係することでもある。また具象でもより写実へと向かい、写真同様の克明な表現に至ることが、進化であるかという問題でもある。古代ギリシア美術は最初は抽象表現で、アルカイック期からクラシック期に向かうにつれて写実性が強まった。一方近代から現代の絵画ではレアリスムの写実からやがてゴッホを経てフォーヴィスム、そしてキュビスムからピカソの抽象画が出て来るが、その後はアメリカに美術の本場が移ってさらに抽象が進む。そういう絵画の歴史と「おっとっと」がどう関係するかと言えば、ゴッホが浮世絵に強い関心を寄せ、その影響を油彩画に活かしたことにはひとまずは見られない。ゴッホが浮世絵に見た魅力は構図の奇抜さと色彩の平面性で、「おっとっと」の単純な意匠性ではない。ただしゴッホは浮世絵に描かれる人物の髪型や衣装、身振り、風景などに日本独特の意匠性を認め、画面がその集積であることを知っていたはずだ。その意匠性のひとつにたとえば南画に連なる草や葉の定型的な表現がある。それをゴッホは筆のタッチになぞらえ、最晩年まで筆致に命を込めた。ついでに書けば、トム・ウェッセルマンが裸婦を題材に鉄で透かし彫りして着色した絵画に、筆者はゴッホの最晩年の筆致を減らした作品の影響を認める。
「おっとっと」はその商品名からわかるように当初は子どもでもわかる魚を象った。魚はどれも流線形で似ているが、鯛と鮫では外形は大きくことなり、蛸や烏賊、海胆や貝も含めると多彩な意匠を網羅出来る。形をどこまでも単純化してなお本来の形であることを伝えようとする意匠性に関して日本は伝統的に豊かな表現力を持っている。これは日本に限らない人間の普遍的な能力だが、日本では特に意匠化の能力を開花させて来た。その延長上にたとえば1964年のオリンピックで採用された各競技を意匠化したピクトグラムがある。当時そう呼ばれていたのではなかったと思うが、その後のオリンピックでその手法は踏襲され、国ごとの意匠の工夫が見られた。先ごろのさんざんな評判であった東京オリンピックの開会式で意外に評価が高かったのは、各種競技のピクトグラムを人間ふたりが短い動きの連続で表現したことであった。その場面に歴代のオリンピックにおけるピクトグラムの歴史が簡単に映像で紹介された。日本の意匠能力の高さを示すことは、日本の文化、芸術の本質を伝えることでもあって、またそのピクトグラムは「おっとっと」にもつながっている。オリンピックの選手村では日本の菓子が人気であったそうで、「おっとっと」を手に取りながらピクトグラムを思う選手はいたであろう。さて、親指の爪ほどの大きさの菓子を魚や恐竜、ピカチュウのキャラクターに象ってそれとわからせることには意匠作りの才能が欠かせない。それに菓子として成立させるためにはなるべく丸みを帯び、尖った箇所を減らさねばならない。とはいえ、それを守るあまりどれも似た形になっては面白くない。
前回の恐竜シリーズではかなり苦しい、怪しい形が混じっていたが、今回のピカチュウは箱側面の14種を一瞥しただけで筆者は複雑になって行かざるを得ない意匠性の限界を思った。おそらくそのことが買って1か月も放置していた最大の理由だ。もちろんこれはピカチュウに無関心な筆者の思いであり、ピカチュウのファンは大喜びし、14種はそれぞれ独特な形で、複雑とも思わないだろう。だが漢字からもわかるように、画数の少ないものからほとんどの人が書けないような複雑なものまであって、後者のひとつの代表の「鬱」が「鬱陶しい」に使われ、見るのも「鬱陶しい」と思われるのは、意匠としてあまりに複雑であるからだ。英語でも同じで、単純で基本的な数百語で日常生活には困らない。「おっとっと」は当初の基本から今や複雑な意匠を扱わねば珍しがられなくなった。一方で味に変化を持たせるなどして今後も時代を乗り切って行くだろうが、ロッテの「コアラのマーチ」と同じく、今の日本の造形の本質を代表する伝統的、芸術的菓子としてその意匠性はもっと論じられてよい。とっくに誰かがやっていると思うが、筆者なりに思うところはある。
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