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●好きなザッパのギター・ソロ曲
春になるとザッパの勢いのいいギターを聴きたくなる。それでも毎年その割合は減って来ている。それに聴く曲も変化して来た。



●好きなザッパのギター・ソロ曲_d0053294_064718.jpgこの1週間は『オン・ステージ第5集』のディスク2を引っ張り出して毎日聴いているが、これは1982年の録音で、発売されたのは1992年だ。発売当初から好きで、14年経った今もよく聴くザッパのアルバムのひとつだ。ただしディスク2のみで、しかもこの70分ほどの録音に収まる全曲が好きなのではない。たとえば8曲目「アドヴァンス・ロマンス」の全体や、「ア・パウンド・フォー・ア・ブラウン」の後半部は聴きたくない。飛ばして聴いてもいいが、そうするのが面倒なのでついそのまま全体を通して聴く。ザッパのライヴ盤で全曲が見事に選曲配置されているものと言えば、筆者には『音楽にユーモアはあるか』以外にないと思えるが、もう充分過ぎるほど聴いた同作よりも、近年は『オン・ステージ第5集』のディスク2を好む。そして、どうにかしてこの1枚をもっと完璧な内容にしたいと勝手に想像をすることもあるが、CD1枚ではやはりザッパのステージをまとめるのは無理なのだ。このディスク2を聴きたくなるのは、12曲目の「ザ・ブラック・ページ#2」が大好きだからで、その曲だけを選んで聴くことも多い。しかし、また厳しく言えば、この曲もギター・ソロが終わってからテーマ演奏が始まるつなぎ部分があまりに唐突で、編集の跡が感じられるところが気に食わない。にもかかわらず、筆者が目下のところ最も好きなザッパのギター・ソロとなっている。これと双璧を成すのが、『オン・ステージ第2集』の「インカ・ロード」のギター・ソロだが、近年は圧倒的にこの「ザ・ブラック・ページ#2」の7分少々の長さのあるギター・ソロの方がいい。それを春めいた中で聴くと、「よーし、やろう!」という気になれるが、そんな風に発奮させてくれる音楽はきわめて少ない。近年は「癒しの音楽」が歓迎されているが、そういう「優しい」音楽はたくさんあるので選択には全く困らない。だが、「癒し」から次のステップの「発奮」となるとそうはない。「軍艦マーチ」なんか聴けば大いに発奮する人もあるだろうが、みんなが整列して何かに向かって行進する姿を想像させるものとは違って、ザッパの「発奮」の音楽はもっと孤独なものだ。発奮させる一方で冷静にさせる。それは白けて冷めてしまうのではない。ザッパがきわめて冷静になって演奏していることが伝わって、今度はそれを自分が仕事でやりたくなるのだ。そのようなことを考える人はごく少ないであろうから、筆者は聴くことを勧めはしない。

●2001年9月14日(金)朝
TVでアメリカの貿易センター・ビル関連のニュースばかり探して見ている。今朝は印象に強い夢を見た。そして半ば目覚めながら、ああ、この夢はあの時の経験が元だなと分析している自分に気づいていたが、そのうちにまた眠りに入った。その後完全に目覚めてもまださっきの夢の映像が残っているのに気づいた。ところで、わが家には6坪ほどの小さな裏庭があって、そのすぐ向こうには桂川から引いた用水路の小川が流れている。数年に一度くらいは蛍が飛ぶのを見かける。白鷺が舞い下りて小魚をついばんだり、冬になると鴨も泳いでいる。もう10数年前、息子が1歳になるかならない頃に、桂川沿いの公園に1本だけ生えている合歓の木の実を拾って来て鉢で育て、やや大きくなった2、3年後に庭の片隅にじか植えした。合歓の木は川沿いでよく育つから、小川に最も近い庭隅に植えてやったが、それがぐんぐん伸びて、10年目にはわずかに花が咲いた。合歓の木は豆科だが、ほとんど剪定しないこともあって、どんどん幹を太くして、もう庭の上空のほとんどを覆うまでに育ち、毎年無数の花をつける。それも原因なのか、不手入れの庭からてんとう虫やカメ虫などのさまざま虫の大発生を招き、毎年悩ませられている。妻は植木屋を呼んで切るなどと毎年うるさく吠えるが、息子の成長とともにせっかく大きくなって来た木を切るには忍びない。しかし実は夢ではついにそれとおぼしき木を根こそぎ筆者がスコップで掘り起こしているのであった。ちょうど棺桶を下ろせる程度の形と深さに掘り進み、四角の周囲はきれいに垂直に切り立っている。そして木は背丈ほどの焼け焦げたような幹だけとなり、その根本周囲は土はうす緑色の透き通ったゼリーのような色の粘土質となっている。それを筆者は地上から四角の穴を両足で跨いで踏ん張りながら下にかがみつつ、先の四角い大型スコップで順に掘るのだが、足がいつからこんなに長く伸びたのだろうと不思議に思いながら、半透明の土を固い羊羹をざくりと切るような感触で切り取っている。掘りながら、これは何か価値のある物質なのか、あるいは放射能のためにこんな輝く色を放っているのかと心配している。やがてうす緑が同じく半透明なうす青に変わって、それが地面のずっと底まで続いているのが見えている。合歓の木の精のためにこんな宝石のような土になったのかとも考えながら、稲垣足穂が同じような暗闇に輝く光について書いていたなと思い出していた。ところが半ば目覚めながらそれを否定し、8日に九州からやって来たお客さんと大徳寺納豆で有名で、精進料理を出す一久に行ったことに今度は思い至った。座敷に入って最初に抹茶が出され、添えられた菓子は透明な琥珀色のべっこう羹であったが、それをくろもじでザクリと順に切る時の抵抗感がおそらくスコップで奇妙な土を切る夢に転移した。筆者はこのように半ば目覚めながら自分で夢の出所を解釈することがよくあって、それが納得できるとまた眠りに入る。一方、土を掘る夢は倒壊した貿易センター・ビルの瓦礫を掘り続ける作業員の光景が反映したものだろう。
 一久は料理ともどもさすがの風格で、古い建物や庭を堪能した。しかし、その堂々たる和風建物の真裏には十数階建ての大きなマンションがそびえていて、壁には一久と同じロゴマークがはっきりと記されていた。京都市内はもはや借景ががたがたになっている。そんな京都から生まれる芸術がどのようなものになるかは想像に難くはない。出鱈目な、見方によってはシュルレアリスムそのもの、しかしそれほどの詩情はないちぐはぐな作品にしかなり様がない気がする。伝統は細々と保存されてはいるが、その周囲を圧倒的な開発の嵐が吹きまくり、作り手がそのどちらに目を多く移すかで作品の性格は変化する。伝統のみに視点を定めるのは時代遅れかもしれないが、そこから目をそらして、幻のように毎月変化するような新しい建設の方を歓迎しても、作品行為は根なし草に終始するだろう。当然双方を混ぜることになるが、借景がとんでもないようなちぐはぐなものに傾くだろう。仕事柄そんなことを筆者はよく考えるが、東京と違って京都はもっとそういう実験と呼んでよいような微妙な位置にある。本当に新しいものは伝統の蓄積が多い場所からとよく言われる。その意味で京都は最適なところであろう。長い年月を経て来たものと、欧米的価値観による文化とどう折り合いをつけるか。こう言えば大袈裟かもしれないが、『大論』も『大論2』も日本の視点を忘れずにいたつもりだ。それがザッパとどういう関係があるのかと問われそうだが、日米の違いがわかれば、その分ザッパの理解にもなるはずであり、伝統や文化の類推関係を強引グ蔓ウェイで関係づけて示唆したい思いがある。それに、そこからはイスラム原理主義への理解への道も多少は開かれている。宗教や文化の違いが憎悪に発展するとやがてテロや戦争に至る。他者を理解するにはまずは自分の足下をよく知る必要がある。話は変わる。昨日だったか、筆者は民芸的な仮面などを好むと書いた。実はこの気まぐれ日記を始めた翌日の日曜日は、伏見にぶらりと出かけた。わが家から1時間ほどだ。別に用事はない。伏見桃山の駅前には大手筋という大きな商店街があって、さほど長くはないが、ゆったりとして老舗もあるため落ち着きがある。反対方向には御香宮神社という名水で有名な立派な神社があり、これまた立派な蘇鉄など植わっているが、ま、その話はよい。大手筋を抜けてすぐ左に折れると龍馬通りに連なり、坂本龍馬で馴染みの寺田屋までわずかだ。数年ぶりに龍馬通りを歩くと、一変して観光地になっていた。小さいが古くて有名な和菓子店はもはやなく、道の幅は同じだが、きれいな石張りに変化し、倉敷の大原美術館界隈をうんとちゃちにしたような感じがどうもいただけない。
 龍馬通りを出てすぐ右に折れると寺田屋が間近に見えるが、そのまま目前の角の小さな店の小さなガラスケースで伏見人形が売られているのが見えた。伏見人形は本来は伏見稲荷の近くで作られているものだ。おかしいなと思いながら店に入っておばあさんに話を聞いた。すると、近年寺田屋なども含めて付近一帯が観光客誘致アップを狙い、土産物を工夫しようということになったらしい。それでその店では新京極や清水寺、嵐山などにはないものということになって、伏見人形を取り寄せて置いているという。龍馬のTシャツも新しくデザイン開発したというが、それは龍馬の顔の下半分が切れて血の吹き出しに置き換えられている絵で、そのジョン・ゾーン好みのグロテスクさはあまりに悪趣味だ。暑い日であったのに小さな店内にクーラーはなく、わずかにそうした土産品やタバコを販売している。10種ほどの伏見人形が並べてある小さなガラスケースはもう50年以上は昔のものだ。タバコを並べていたケースだ。人形はどれも真新しくて、青や赤、黄色の原色の泥絵具は毒々しいほどだが、筆者はそういう配色は嫌いではない。有名な饅頭食いの少年は大小の2種類あって、大が2800円と少々高い。それもよかったが、赤い衣装で座った形の天神さんはもっと貫祿があった。こっちは3500円で最も高額だ。いずれも高さ10数センチ程度。その界隈にはそこだけで売っている。さびれた店内でいろいろと話を聞きながら、よほど買おうかと思ったが、あいにく3500円払うと帰りは懐がさびしくなるほどしか当日は持って出なかった。それにどうせなら伏見稲荷まで行く方がよいとも思った。伏見人形は実は日本で最古の土人形であり、そこから全国に土人形が伝播した。それを考えると、ろくに飾る場所はないにせよ、京都人でそういう人形好きならば1個は所有したい。しかしどういうわけかこの歳になるまで伏見人形を売っている場所を見かけたことがなかった。それで驚いて当日は店内に入ったのであった。千年以上の伝統を細々と守りながら、今も同じものを作っているところには頭が下がる。店を後にして龍馬通りに戻り、宇治茶を販売しているお茶屋の店の隅っこの椅子を2、3置いて小さく営業している場所をふと見ると、買い物帰りの近所の太ったおばさんがひとり抹茶アイスクリームを食べていた。交代するかのように暖簾をくぐって、宇治金時を注文。380円也。おばあさんがガシャガシャと騒々しく手回しで氷をかき、ガラス鉢の氷の山のうえに最後に抹茶の粉を豪放にまぶして出してくれた。緑色の粉がガラス容器の縁にこびりついていかにも田舎っぽいが、氷はきめ細やかで蜜も金時も味はよかった。これこそ本場の宇治金時か。今までに食べたことのないその古風な感じは、洒落た喫茶店の10倍はよかった。毎年必ずあちこちの店で宇治金時を食べるが、今年は当日が初めてであった。
 伏見になぜ行ったかと言えば、筆者は小学1、2年生の頃から毎年伏見の伯母の家に長期滞在して過ごした記憶があるからだ。そして中学生になってからはその夏休みの光とけだるさの中で、従兄が所有するヴェンチャーズやビートルズの新しいシングル・レコードをよく聴いて過ごした。今も耳奥にビートルズの「イエス・イット・イズ」のサウンドが蘇る。夜になって蚊帳を吊ってラジオの洋楽番組をかけ、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」やローリング・ストーンズの「サティスファクション」が流れて来た日の鮮烈な記憶は、みな伏見の空気の中で体験した。しかし当時はごく狭い地域しか知らず、大手筋商店街は20分ほどの距離だったが、行ったことはなかった。かつて市電が走っていた通りはもうとっくに道路に変わってしまったが、ところどころに京都ならではの古い家があって、当時の面影は濃厚に残る。大阪のごちゃごちゃした地域とは違い、古いものがたくさん残る町には独特の懐かしい匂いがある。筆者が土人形を初めて意識したことははっきりと覚えている。それは小学校の図画工作の教科書に載っていた埴輪の写真だ。あの赤茶色の土の色や造形になぜとはなしに興味を強く抱いた。画用紙を近所の文具店で買って来てそれを水彩で描き、母がどこからかもらって来た青く細長いプラスティック板にその絵を貼りつけて、まるで掛け軸のように飾って楽しんだ。わが家はカレンダーの絵ひとつなかったので、それは誇らし気な絵になった。その後の土人形の思い出は、中学2年生の時に東京方面に修学旅行に行った時、静岡で買った「なんじゃもんじゃ」と書いた和紙の紙片のついた小さなペンダント・サイズの翁か妖怪の顔をした民芸仮面と呼んでよい飾りものであった。紙片は2枚ついていてもう一枚は真紅だった。面にはぶら下げるために細い縄がついていて、埴輪と同じ素焼き色で目をぎょろりとむき、口を一文字につぐんでいる。長らく家にあったのに、いつの間にかなくなった。乏しい小遣いでなぜそんな品物を買ったのだろう。きっと古くて民衆の力強い造形に興味があったのだ。それに「なんじゃもんじゃ」という名前がなんじゃか面白かった。その語呂は「大ザッパ大雑把論」にそのまま影響を与えている。古いものと言えば、最近盲目のブルース歌手ウィリー・マックテルのCDを繰り返し聴いている。大きな家に住みたいとか、名声を高めてちやほやされたいとか、そんなことを全く考えずに、歌うことと生きていることが完全に一致して、それ以外の何ものもないようなその音楽を聴いていると、今の音楽の失ったものの大きさがわかる。ブルースのあらゆる精神やメロディがすでにそこにはある。

by uuuzen | 2006-03-26 23:59 | ○『大論2の本当の物語』
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