「
栗と桃 三年育ち 実りあり 大風吹いて 落ちるも知りつ」、「雨の後 二三転がる 青き実に 柿の蔕なく 李下に吾あり」、「手を伸ばし スモモに触れる 雨上がり 赤くなれよと 夕陽晴れるや」、「巴旦杏の 実を拾う子の 喜び見つめ 溢れる川の 水の音聞く」

今日は1週間ぶりに「風風の湯」に行った。相変らず若者は多いが、7時半過ぎには激減する。今夜は「五山の送り火」で、カメラ持参で同温泉に行き、8時20分にそこを出て桂川沿いに向かった。「鳥居型」の送り火がよく見える場所に出ると、10人ほどがいて、みなスマホをかざしていたが、中ノ島公園全体では50人はいたと思う。去年もコロナ禍で送り火は星座の点状に縮小された。来年こそは元に戻ってほしいが、コロナ感染はこれまでにない規模で拡大中で、「風風の湯」は京都に緊急事態宣言が出る20日からはまた午後8時までの営業になるだろう。昨日嵯峨のスーパーに行く途中、渡月橋北詰め東の小さな空き地に今夜の燈籠流し用の紙燈籠がたくさん並べてあったが、今夜それらは流せなかったはずだ。水嵩はやや減ったとはいえ、まだ轟音を立てて大量の水が流れている。それにまた今夜からまた雨だ。昨日の夕方、冨田渓仙の家の通りを挟んだ向かいの家の塀の下に、大雨で落ちた緑色の大きな実を4,5個見つけた。柿かと思えば蔕がない。南高梅の実よりも大きく、桃とわかったが、頭上を見るとたぶん100個以上が鈴なりになっている。そう言えば春に濃い桃色の花が咲いていた。先ほど温泉で85Mさんにその桃のことを話した。というのは1か月ほど前、85Mさんから赤くて同じほどの大きさの桃の実をいただき、それからかなり遅れて桃の実が出来ることを不思議に思ったからだ。85Mさんはおそらく巴旦杏か李で、来月になれば赤くなるのではないかとのこと。筆者は今の青い実を梅酒と同じ要領で漬けるとおいしい酒になりそうだと言うと、たぶんそうだとのことだが、まさか手を伸ばして道路にはみ出ている多くの実をもぎ取ることは出来ない。「李下に冠を糺さず」で、不審と思われる行動は慎まねばならない。それよりも、筆者は桃が実っている場面に出くわしたことがなく、写生したいと思った。ところがその道は狭く、頻繁に車が往来する。それにその後は雨で、スーパーに行かず、したがって撮影もしていない。ネットで調べると巴旦杏の花は白っぽいので、やはり李か。85MさんはJR嵯峨嵐山近辺をよく散歩するので、筆者が昨日見かけた李の木をよく知っていて、その裏庭には柿の木もあり、よくぞ大きく育っているものだと感心していた。嵯峨でも大きな家が古くなって売られると、数軒の小さな家が建ち、どこも桃や柿の木を植えない。もう桃源郷の言葉もとっくに死語と化し、唐時代のホームレスのような禅僧が自由に生きる時代ではなくなったが、憧れはなくならない。「川海老を つまんで和む ホームレス 蜆子和尚の 化身やお前」

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