「
柱には 恵比須もあるか 漁村には 鯛の飾りの 赤きを笹に」、「雨多し 固まる土地も 緩み過ぎ 天の采配 常にむらあり」、「雨乞いの 後に懸念の 豪雨かな 雨漏りの下 雫の音色」、「夢を見て そのこと告げる 人遠き 時は止まりつ 流れ戻らず」

昨夜の投稿が普段の倍以上のアクセス数になっている。いつもとは違うことを書いたつもりがないので不思議だが、このブログを多くの人に読んでもらいたいとはさして思っていないのでどうでもいい。何百万人に読んでもらっても、無料であるので筆者の生活は変わらず、自惚れることもない。YouTubeは新しい金儲けの手段だが、運営会社に首ねっこをつかまれているも同然で、筆者は感心しない。時間と頭を使って投稿しても収入が得られないのであれば、投稿者は激減するはずで、そこに人間の卑しさが露わになっている。時間と頭を使うことは労働であるから、YouTubeで人気者になり、それで金持ちになることは理屈としてはたとえばミュージシャンがレコードやCDを発売することに似るが、昨日も書いたように、創作と呼べる投稿あるいは投稿者が創造者と呼べるほどの「玉」のごとき存在はたぶん皆無だろう。つまり芸術とは無縁だ。それで筆者はYouTubeでは音楽の投稿以外に関心がない。ところで一昨日はテオドール・リップスの短い文章を引用した。その出典をいずれ調べるとして、筆者はその文章を引いた岩崎巴人の文章をたまたま読んで大いに驚いている。昔から巴人は知っていたし、2年前の秋に永観堂に家内と訪れた時、巴人の絵を特別に展示する建物があって意外な気がしたのだが、還暦を迎えた巴人は剃髪して永観堂で僧の資格を得たことをこのたび知った。それよりも巴人の画歴がとても興味深く、本を読みながら唸り続けている。1冊の本のさほど多くない量の文章がこれほど筆者の関心を沸き立たせることは珍しい。それよりも本が著者の没後にいつ誰にどのように読まれるかわからない可能性を持っていることに今さらながらに感嘆する。これまでに知っていた巴人の絵が彼の文章を読んだことで一気に理解しやすくなった気がする。これは本当はおかしなことで、絵そのものを凝視して深く感動することが正道だろう。ところがゴッホにしても大量の手紙が絵の深みの味わいを補助し、言葉の力は大きい。それで筆者もいい加減なことや、また下品なことや後味の悪いことは書かないと自戒するが、凡人ゆえにすぐにそれを忘れる。世間で言われるように老人になればもう無理なのだろう。30代半ばでも人格の変わりようがないとされるから、筆者はその倍ほどを生きて来た。それで巴人の年譜を読み、高齢までかくしゃくとしていたことに凄みを感じ、筆者もまだひと踏ん張りは頑張れるかと元気づけられる。それには健康第一で、健康には精神のそれも当然含まれる。

もう少し巴人のことを書く。40歳頃か、富山に住み、冬の寒空の下で和紙の原料を洗っている女性を見て巴人は1枚の紙も無駄に使えないと思う。この下りを読んで筆者は落涙しそうになった。貧しかったこともあって巴人は材料費が安価で済む水墨画を描くのだが、その紙は厳しい肉体労働をするおばさんたちが作ることを目の当たりにする。白い紙を前にした時、巴人は富山の寒空の下で苛酷な労働をする女性を思い出し、感謝と厳しさで描く気になったであろう。こんな話をすると、始末して紙を使うより、たくさん紙を買ってあげることが紙漉きのおばさんたちを裕福にすると、すぐに金の話にすり替える愚か者がいるだろう。嘲笑にも値しないそんな連中はどうでもいい。ここから本題。今日の最初の写真は5月17日に撮った。その日は家内と梅津から「千代の古道」を通って嵯峨のスーパーに行った。その帰り、筆者は数日前に地図でたまたま知った車折神社のすぐ近くで三条通りを少し入ったところにある愛宕神社を訪れる気になり、家内をひとりで先に帰らせた。神社は思ったようなものではなく、ほとんど地蔵の祠程度の大きさだ。2枚目の写真は先月15日に撮った。西国街道を向日市から羅城門跡まで走った日で、この写真はJR向日町駅から東500メートルで、
「西国街道、その3」の2枚目とほぼ同じ場所から撮ったが、今回は「愛宕大権現」と彫った道標を目当てにした。阪急電車の京都線に乗ると、東向日駅から洛西口駅に着くまでの間、西北に愛宕山がとてもよく見える。田畑がまだ多いからで、筆者は自転車でその畑の中を道を走る際に愛宕山を眺めて気分がよい。愛宕山への道標は嵯峨を初め京都市内の各地にある。高槻や茨木の西国街道沿いにもあるのではないか。筆者は見かけるたびに全部調べたいと思うが、調べた本があるかもしれない。今や無用の長物となったが、さりとて処分することも出来ないのだろう。嵯峨の鹿王院近くには2か所に大きなものがあって、愛宕山の膝元として嵯峨は愛宕信仰が盛んであったに違いない。それで今日の最初の写真のような祠も建てられたと思う。戦争がなければ嵐山から愛宕山に至る線路やまた山裾からのケーブル・カーやホテルもあったはずで、戦争によって愛宕山は一気に観光客が訪れない場所になった。とはいえ、そのほうが自然も豊かになってよかったかもしれない。戦前まで愛宕山に登る人目当ての旅籠が清凉寺門前に並んでいた。今は絶無となり、先を読むことに長けた1軒は渡月橋の畔で料理旅館を経営している。渡月橋の上からは愛宕山も小倉山も東の比叡山も大文字山もよく見え、絶妙の場所に渡月橋がある。今日は稀な大雨で、愛宕山は裾しか見えなかった。もう千日詣りで愛宕山に登る体力はないが、そんなことを言えば70半ばで毎週2,3回登っているYさんに笑われる。「踏ん張れば 屁こきに恥じる 古希爺 上品忘れ 次回は自戒」
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する 