「
鼓腹 ポンと鳴らして 布袋様 満月指して あれは食べるな」、「幸運の 万にひとつの 稀求め 宝の籤に 群れる万人」、「よきことを よく聞く人は 素直なり よきこと信じず すねる人あり」、「明日知らぬ 人は誰しも 運任せ 禍あれば 乗り切るも運」

今日の最初の写真は先月18日、大阪で『表現の不自由展』の整理券を得るために天神橋筋商店街を歩いている時に見かけた。朝8時15分頃か。観光客用のおみくじ自動販売機で、似たものは珍しくないだろう。確か京都の錦天満宮にもあった気がする。このような装置でくじを引くのはたいてい若い女性と思うが、くじの文面もおそらく恋愛に関係することが中心になっているのではないか。このようなものはアジア圏全般にありそうな気がする。西洋ではどうだろう。占星術やタロットがあるので、運を占ってもらうのは世界共通だろう。それは当然賭けの一種で、直接的な利潤を生まず、暗示にかけてもらうことを楽しむだけだ。中国の「易」は、何事かに対処する際、考え抜いたあげく、どの方法がいいかわからない場合にのみ頼るべしとされる。これは至極まともな考えだ。人知を尽くしてなおわからない場合にのみ、運命の神に訊ねる。ところが日本ではおみくじは娯楽と化し、ロボットに占ってもらう。凶が出れば吉が出るまで引き続ける人もいるはずで、運を占ってもらうことに真剣さはない。おそらくそうであるので、ゲーム感覚でくじや占いは人気があり、ネットにも多くのサイトがある。訪日する外国人観光客の数がコロナ禍以前の規模に戻るかどうか今のところ誰にもわからないが、ホテル業界は有名な占い師に命運を占ってもらっているかもしれない。そして凶であれば、さっさと商売替えをするか。それはさておき、このおみくじ自動販売機を外国人観光客が関心を持つように、多国語で用意するのはどうか。中国語と英語を増やすだけでも売り上げは倍増しそうだ。筆者が思うまでもなく、そのようなものはもうとっくにあるかもしれない。それはともかく、このくじ自販機の写真は当日最初に撮り、当日撮った写真では最後に使うことになった。どういう文脈で使えばいいかと思っていたが、今年に入って撮った別の鳥居の写真を2枚使う。1月25日、三条通り沿いにある菓子問屋の一角にある稲荷の祠と、3月15日に税務申告で右京税務署を訪れた際に撮った屋上の鳥居だ。ともに商売繁昌を祈願するもので、同類は百貨店の屋上や大きな工場の敷地内にもある。日本での籤は比叡山の元三大師の発明で、それが神社専門のような形になったのは願掛けをするのがもっぱら神社であるからか。また明治以前は神仏混交であったので、寺に行くことは神社に行くことでもあった。くじの自販機は「籤ミニ神社」と言ってよいが、これが寺の雰囲気をまとうと鳥居は不要で、建物は茶色となってありがたみが失せそうだ。

筆者は賭け事は全くしない。嵯峨のFさんは競馬が大好きで、コロナ禍の緊急事態宣言下は祇園の馬券売り場が閉まっていたので出かけなかったが、最近また週末に買いに出かけるという。ただしいつもは自転車だが、猛暑のために市バスを利用し、外食の時間を含むと3時間以上は費やしている。たいていは負けるし、絶対に儲からないとわかっていてもやめられないのは、賭けることが楽しいからだ。これは書こうかどうか迷っていたが、今なら書いていいだろう。「風風の湯」の常連で1年ほど前からたまに会うOさんは、16歳のお孫さんが今年から園田競馬の騎手になった。陽気なOさんで、家業のことも隠さずに話してくれるが、先月のかかり、お孫さんがデビュー戦から20連勝し、その次のレースでは15馬身差でトップを走っていたのに、走る距離を1週短く勘違いし、結局最後尾でゴールした。そうしたミスはきわめて珍しく、せっかくの華々しいデビューの経歴が御破算になり、今月かかりまで出場停止になった。Oさんはその話を筆者にネットで調べてほしいと言い、またその後はFさんにも言った。Fさんは先週水曜日、競馬新聞でOさんお孫さんがまたレースに出ることを知った。体重51キロで、デビューから1年間はその体重を保持して云々と、いろいろ専門的なことをFさんは話してくれたが、筆者は競馬に関心がなく、よくわからないことがある。Fさんは先週末にまた祇園に馬券を買いに行ったが、Oさんのお孫さんに賭けたかどうかは訊かなかった。筆者が競馬ファンなら話のネタにそのお孫さんに賭けるが、Fさんは自分が勝つと思う騎手にしか賭けない。そういうFさんの合理的な面は、たとえば「風風の湯」では絶対に露天風呂や泡風呂に入らないことだ。温泉ではなく白湯であるからで、銭湯の倍ほどの金額で利用しているのであるから、効用のある温泉に入らねば損との考えだ。そこは筆者と全く違う。露店風呂は解放的でそれでしか得られない気分のよさがあり、泡風呂も微細な泡が気持ちいい。気分がよければ効用があることと同じだ。また損したくないのであればなぜ絶対に儲からないとわかっている競馬に金を費やすのか。そんなことをFさんに質問したことはないが、誰しも合理的に動いていると思っていてもそうではないことがままあり、人間そのものが合理的な存在かどうかもわからない。Oさんのお孫さんの騎手という職業はスポーツマンに分類してよく、自転車競技のあるオリンピックに競馬があっていいと思うが、外国からの馬の運搬が難しいか。スポーツマンはみな賭け事師の部分を持つ。もちろん努力によっていい成績を上げるが、運も左右する。競馬なら馬が相棒で、自分の力だけではどうにもならないところがあるだろう。そうであるから競馬は賭け向きで、競輪よりも八百長はやりにくいのではないか。

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