「
併せての 五感働く 生なれど 眠る間は 理性も忘れ」、「歌詠みを 考え寝入り 目覚めれば 新たに浮かぶ 歌を書き留め」、「何事も 一度限りと 知ればこそ 何度も書くや 一語一絵を」、「ストローで 苺を吸って 母が草 ぐっと堪えて 『ベリーはグッド』」

先日の京都市の「しみんしんぶん」に、撤去された路上駐輪車の引き取り代が10月から3500円になるとあった。現在2300円なので5割ほどアップだ。この値上げは大きい。3500円で最低クラスの中古自転車が買えるので、引き取りに行く人が減り、京都市は撤去自転車を処分するのが大変になるだろう。引き取り手のない自転車は業者に払い下げられ、販売されるかもしれない。この話を嵯峨のFさんにすると、Fさんは舌打ちした。2300円でも高いと思っているからで、2300円出すなら、充分乗って元を取ったと考え、1万円ほどの中古自転車を買うという主義だ。筆者は何度も自転車を盗まれたこともあって、1万円でも高いと思っている。それで昔梅津の馴染みの自転車屋で3000円で買ったものを1年前まで使っていた。去年その自転車を家内が乗って梅津の郵便局に行くと、30代半ばの子連れの主婦がじろじろ見ながらこう言ったそうだ。「えらい年季が入ってますねえ。タイヤは交換してるようですけどね」この言葉に家内もその人も笑い合ったそうだ。実際その自転車はペダルを漕ぐと大きな音が鳴り、たいていの人は振り向く。錆び切った自転車だが、元は頑丈で高級品であったというし、筆者は自転車屋の主の思い出もあって乗り続けていた。Fさんが路上駐輪して撤去された自転車を筆者がもらい受け、今は「年季の入った」自転車は乗っていないが、捨てるのももったいない。そのような考えで物はたまる一方だ。物もそうだが、たとえばこのブログでもネタは無限にあるも同然で、ということはどのネタもどうでもいいものだ。それで今日もどうでもいいことを書く。昨日投稿した東寺稲荷神社を見た後、北東に向けて自転車を走らせ、六孫王神社に着いた。
一昨日の地図のDだ。今日の最初の写真は境内南辺の鳥居で、2枚目は東辺に回って西を向いて撮った。自転車を下りて境内に入ってもよかったが、路上駐輪は見つかれば即座に撤去される。それに2枚目の写真からわかるように右すなわち北に建物があり、そこに出入りする人たちが大型車から荷物を出し入れしていたので、その方向に進むことが何となく憚られた。それで写真を撮った位置から近くにあった公衆電話で家に電話した。公衆電話はめったに見つからず、見つけた時、そしてひとりで外出している時はたいてい家内に電話する。先月15日は家内の返事は素気なく、1分も要さずに電話を切って三条大宮を目指すことにした。そこにある染色工場で引き取るものがある。その後の用事は食料の買い出しだ。

電話後に自転車を停めた場所に戻って撮ったのが今日の3枚目の写真で、歩道際の植え込みにはきわめて珍しい大型の百合が咲いていた。これは六孫王神社の敷地で、神社が植えたものだ。この神社の周囲は人通りが少なく、路上駐輪してもたぶん撤去されない。あるいは通報されて撤去車が来るまでに充分境内を歩き回れるだろう。それで次の機会があれば参拝するが、今回はネットに頼り、思ったことを書く。境内の北にある建物は六孫王会館で、そのデザインからして建って半世紀以上経っているだろうが、そのこともあってどことなく陰気臭い。それで人影も少ないのかと思うが、この神社はかつて大通寺に属し、明治になって国鉄の線路が走ることになり、また神仏分離令によって境内北側が売却されて大通寺は別の地に移った。その後60年代に新幹線が東海道本線の南側に走るようになった時、この神社の境内の北側がさらに削られた。現在の六孫王会館は新幹線の高架際に位置する。鉄道の高架際は殺風景な眺めで、どこでも陰気さが漂っている。鉄道がなかった時代、この神社の北への見晴らしはよく、境内は悠々とした雰囲気であったと想像する。京都駅をどこに造り、線路をどう走らせるかを明治の人たちは充分考えたはずで、墓地を避け、寺社にもかからないことを優先したが、寺社だらけの京都では完全にそれらを避けることは不可能だ。そこで境内を狭めてもいいとみなされた寺社が対象になり、大通寺は南東の大宮通り沿いに移転し、源経基の邸宅跡の六孫王神社は、大通寺よりも歴史が古いので同じ地に残されたのだろう。大通寺の境内が線路に変わったからには、現在の梅小路公園は以前は何があったのかと調べると、公園南部は平清盛の邸宅があったが、今はその面影は皆無だ。経基は天皇の孫で、それで六孫王と称され、現在は300年前の社殿が建つ。同神社のホームページには、経基は牡丹を好み、現在もそれが植えられるとあって、筆者が歩道際で見た大型の百合も花好きの経基に因んだものか。桜もあるようで、花の季節に訪れると陰気臭さもないだろう。多くの人の利便にかなう鉄道に比べれば、寺社は存在価値が低いとみなすのが多くの人の意見を尊重する時代の考えであろうから、六孫王神社が鉄道で分断された市内南部の北辺に位置することになったのは仕方がない。今回初めてこの神社の存在を知ったが、それほどにと言えばいいか、京都盆地は国鉄(JR)線路の南北で雰囲気が異なり、南の八条、九条辺りはあまりいい土地柄とは言われていない。またそのことから国鉄の線路が敷かれたのではないか。あるいは話は逆で、鉄道が走ったことで京都駅の表玄関のある北側がより発展し、南側は取り残されたのかもしれない。南側の八条口は景観を保存するために建築に厳しい規制を設けている北側と違い、今後は高層ビルが林立し、京都らしさは京都駅から北部ということにますますなりそうだ。

六孫王会館は全部貸し会場となっていて、大小の宴会や展示、会議に使える。何年か前、京都の郷土玩具の会を再興する時、愛好家が集まる貸し会場が京都駅近くにないかと訊ねられた。八条口に近いビルの1室に決まって閉会まで使ったが、六孫王会館は妥当な賃料でも駅からやや離れて辺鄙で、慣れないと利用する気にはなれない。それでもひとつの選択肢として覚えておくのはいい。さて、3枚目の写真を撮った後、自転車に乗ると空模様が急に陰り、大粒の雨が降り始めた。一昨日の地図のEが道の突き当たりで、そこに幔幕を張った洞穴のようなものがあったので自転車を停めた。そして撮ったのが4枚目の写真で、帰宅して調べると「兒水(ちごのみず)不動明王」とある。道路を挟んで南東にある児童公園が「兒水」と関係するかと思うと、そうでもなさそうだ。この不動はかつての大通寺にあったものだろう。調べるとやはりそうだ。源実朝の妻が実朝を弔うために建てたもので、当時のままの位置にある。暗い中を覗いていないが、奧はごろごろとした岩が張りつき、まだ新しそうな小さな不動明王の石像がある。よくぞ新幹線にかからなかったものだ。移転させていれば実朝の祟りがあったかもしれない。雨がきつくなって来たので大特急で自転車を漕ぎ、新幹線沿いをFまで走った。その暗い高架下に入ると向こうから2,3台の若い母親の自転車がやはり猛速度でやって来る。地上に出ると左手が水族館で、その付近の大きな木立の下でしばらく休んだが、雨宿りに適さない。雷鳴は聞こえるが、本降りに近い雨が少しましになった頃、大宮通りを北上した。そして
先日書いたように高辻通りを少し上がった小さなビルの庇の下に駆け込んだ。シャッターが下りていたからだ。20分ほど待って雨の勢いがやや収まった頃、三条の染色工場に向かった。嵐山、向日市、三条大宮の3か所を結ぶ三角形の二辺を走った後、残り一辺の三条通りの3店で買い物をし、嵐山に夕方に着いた。蛇足的に書いておくと、JR山陰線でごくたまに京都駅に出る。その際車窓から眼下にまだ訪れていない神社が2か所見える。それとは別に最初に気になったのは円町駅に近い
川沿いの社で、そこは数年前に足を運んでこのカテゴリーに書いた。残る2か所は線路が敷かれた際にそこに移されたか狭められた可能性がある。その2か所のうちのひとつが六孫王神社かと思うとそうではなかった。ということはほかにも線路沿いぎりぎりの神社があるだろう。またJR西大路駅から少し北に目立つ神社があることを10年ほど前自転車で走って知っている。そこも気になり続けているので、次に向日市に自転車で行けば、久世橋をわたって西大路通りを北上しよう。市内に土地勘のない、未知の道路はいくらでもある。そんな道を無目的で行くことは楽しくないので、神社巡りにしろ、何か目指すものがあるほうがよい。

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