「
噴くニキビ 潰してビキニ 着る娘 見られたくなし 見せたくもあり」、「日陰にて 咲く花笑むは 物悲し されど定めに 沿うは尊し」、「曖昧に 『アイミーマイン』 歌うまい 甘い考え 捨てて舞うべし」、「目覚めれば 歌が浮かびて 忘れじと 筆を探して 思い起こせず」

以前このカテゴリーで取り上げた
アリ・シャーロックや
カロリナ・プロツェンコのYouTubeでの演奏はその後ぴたりと見なくなった。年長のアリは十代半ばだが、数か月見ない間に成長し、めっきり大人っぽくなった。髪型や服装にもよるだろう。相変らずダブリンで最も繁華な多いグラフトン通りで演奏しているようだが、海辺に近い広々とした場所でブラジル移民の3人組インスト・バンドのザ・スリー・バスケッティアーズ(「三籠士(さんろうし)」と訳しておく)と一緒にやっている投稿もある。そこは名所ではなく、観光客は期待出来ず、たぶん見物客は数人だろうが、YouTubeへの投稿が主な目的であるのでそれでもかまわない。アリが来日公演するならばこのバンドと一緒がいいと思うと以前書いたが、同じ意見が書き込まれているようで、それを知ってアリはひとりで演奏する以外は、このバンドとよく組むのではないか。ところが入場料を徴収しての演奏となると、470万人台の登録者数のアリと1500人そこそこの三籠士とでは格が違い過ぎ、ギャラの配分で揉めるだろう。三籠士にはもっと有名になってほしいが、アイルランドでこのようなバンドが人気を博すことは難しいだろう。アメリカや日本でも同じと思える。そこで彼らもなるべくヴォーカリストと一緒に路上で演奏したいのだろう。現在のところ最も相性がよさそうなのはアリだが、三籠士は他の路上ミュージシャンとも演奏している。そのひとりに同じブラジル移民のレベッカ・タリタ(Rebecca Talita)がいる。彼女は十代後半のはずで、いかにもブラジル娘の顔だが、移民の肩身の狭さからか、翳りが隠せない。その点はアリとは大違いだ。レベッカもアリと同じようにギターを持って歌い、声がしっとりとしてとてもいい。ところがYouTubeでの投稿は数本しかなく、しかも自分では投稿していない。ネットに発表するために助けてくれる友人がいないのか、またコロナでたぶん仕事も苦労しているのではないかと想像するが、もったいないことだ。彼女の美貌と歌声があれば世界的に有名になっていいのに、よほどの幸運がない限り、2,3年はあっと言う間に過ぎ去り、現状のままで埋もれて行くのだろう。三籠士と一緒にもっと多くの曲を演奏すれば、アリとはまた違った、そしてより個性的な響きを聞かせるのではないかと思わせられるのが、今日取り上げるアメリカの夫婦バンドのザ・ホワイト・ストライプスの
大ヒット曲「セヴン・ネイション・アーミイ」の
カヴァー演奏だ。これが実によく、家内もレベッカのファンになっている。
筆者はレベッカと三籠士の共演によってこの曲を知った。それでホワイト・ストライプスのオリジナル演奏をYouTubeで知って驚いた。2月のことだ。それ以降たまにこの夫婦デュオのライヴをあれこれ聴いているが、さすがアメリカのロックの伝統の凄みを感じる。デュオのみの演奏で充分聴かせるのは、夫のジャック・ホワイトの尖った音色のギターと歌が圧倒的な力があるからで、彼が激しくギターをかき鳴らしながら高音で歌う様子はロックの持ち味の最良の部分を体現している。これを書くためにクーラーのない猛暑の部屋の中、ほとんど裸同然で彼らのYouTubeでの演奏を聴いているが、家内はよくもまあ熱い音楽を大きな音でと呆れている。ところが猛暑をなるべく感じないようにするためには彼らの激しいロックがちょうどよい。ギターかヴォーカルのどちらかひとつの才能だけでもたいしたものであるのに、ジャックは双方を完璧に個性的に操り、またシンクロさせている。オルガンやピアノやマリンバも演奏し、また静かな曲でも高い声は相変わらずで、筆者はレッド・ツェッペリンを思い出すが、メンバーがふたりであるゆえの音の少なさのよさがあって、そこがアメリカのロックの骨太の伝統を継いでいる。ドラムスのメグ・ホワイトは素人っぽい奏法だが、それも却ってよい。そしてステージでジャックはしばしばメグのそばに近寄り、顔を見合わせながら演奏する。夫婦ならではの息の妙があって、そのことが彼らの音楽に独特の味わいを添えている。もっと上手なドラマーは無数にいるが、メグでなければ彼らの音楽はないはずで、そのことに一種独特のロックという雰囲気を聴き手に伝える。彼らは当初は姉弟と公言したとネットに書かれるが、それは人気商売ではありがちなファン獲得のための手口で仕方なきところがある。だが、夫婦であることがわかっても彼らの人気は衰えなかった。また夫婦であるとわかってなるほどと思われたであろう。普通の仲間とは違って始終生活を共にする夫婦であることによる表現物における一体感は必ずあるはずで、彼らの演奏は阿吽の呼吸がぴたりと合っている。もっとも、97年のバンド結成の前年の96年に結婚し、2000年に離婚しているから、YouTubeに上がるその後のふたりの仲のよさを示す演奏は、結婚していた間に培った気心が知れた者同士の芸と呼ぶべきものだ。デュオとしての演奏は2011年に終わり、その後ジャックはメンバーをかなり増やしてバンド活動を続けている。メグとの演奏を完全にやめたのは、ウィキペディアによると「今まで築き上げてきた自分たちの音楽・アートを最高の形で残したいため」とのことで、美意識の強さをよく伝える。その美意識は「セヴン・ネイション・アーミイ」の公式YouTube映像から一目瞭然で、赤白黒の三色を衣装、楽器、舞台の基本色とし、しかもとても凝っている。
モノクロに赤を加えることはフランスのレオ・カラックス監督による86年の映画『汚れた血』に通じるが、アメリカ的ではなく、筆者は最初イギリスのバンドかと思った。だがデトロイト出身で、ブルースを基調とし、特に「セヴン・ネイション……」は低音のリフが持ち味で、やはりアメリカでしかあり得ないと思い直す。白黒に赤となれば、赤は血を想起させるが、そのことは「セヴン・ネイション……」の歌詞に出て来る。それも後述するとして、彼らの見栄えに対する凝り具合は、他の曲の公式映像からもわかる。数分の曲にどれほどの多大な時間を投入したのかと、素人目にも気の遠くなる気にさせる無数のカットをつなぐ。CGを使えば簡単なようだが、ドラムスを0.5秒ごとに少しずつ移動撮影させるなど、一度見れば忘れ難い。デジタル時代になってミュージック・ヴィデオは凝ったものが容易になったのだろうが、このデュオのものは徹底している。そして曲作りとそうした力の入れた映像作りに限界が来たことを感じて解散したのだろう。ところが面白いことにと言えばいいか、筆者のように解散後10年経って知る者がいる。これはYouTubeのお陰だ。また筆者と同じようにして今後も彼らの音楽の存在に気づく人はいるに違いない。ジャックのようにギターも歌も巧みな才能はこれまでのアメリカのロックになかったわけではないが、70年代半ば生まれの才能が新時代を十全に引き継いでいることはロックを生んだ本家の貫禄を感じさせる。日本ではまず生まれ得ない才能で、ロックにはやはり英語の歌詞が似合うからだろう。それに宗教の差も大きい。筆者はジャック以降の世代の優れたアメリカのロックを知らないが、ジャックに比肩する才能が生まれたのであろうか。というのは、今日取り上げる曲のYouTubeでのオフィシャル投稿が3億回近い視聴に達し、2年前にはパリ郊外の野外競技場でロック・バンドのメンバーが1000人ほど集まってこの曲をカヴァーしている映像も出ていて、ロックの偉大な古典の仲間入りをしているとみなせるからだ。それでレベッカと三籠士がカヴァーしたことも納得が行くが、そこにはロックの名曲ということとは別の理由もある。ザ・ホワイト・ストライプスは2003年に初来日し、2006年にも来ている。彼らのYouTube映像で最も異色と思うのが、2005年7月にブラジルの熱帯雨林の中にある街マナウスでの演奏で、会場としてかつてのゴム産業で儲けた資金でヨーロッパから建築資材を運んで建てられた
テアトロ・アマゾナス(アマゾン歌劇場)が使われた。築120年ほど経っていて、今も美しく保たれて使用されている。この劇場はヴェルナー・ヘルツォークの『フィッカラルド』に建設の経緯が描かれる。ロックに使用されることが珍しいのかどうか知らないが、ジャックとメグの人気がブラジルに広がっていたことは確かだ。
そしてレベッカ・タリタや三籠士はブラジルにいた頃から「セヴン・ネイション……」を知っていたのだろう。あるいはそうでなくても若いブラジル人の間ではザ・ホワイト・ストライプスは有名なのだろう。ブラジルには日系人が多いが、日本のロック・バンドがアマゾン歌劇場で演奏しようという発想は生まれないだろう。今後はわからないが、それには英語の歌詞を書く必要があろう。英語に堪能な外国人に任せることも出来るが、ジャックが書くような個性的で深い歌詞は無理であろうし、可能であっても日本人が歌っても訴求力がない。「セヴン・ネイション・アーミイ」は何のことかと思うと、ジャックは「サルヴェイション・アーミイ」を聞き取り間違いしたらしい。日本では「救世軍」と訳されてその施設も各地にあるが、恵まれない人たちへのための募金を街角で行なうキリスト教の一団体だ。ジェスロ・タルの「アクアラング」にこの単語が出て来て、ホームレスの生態が歌われるが、ジェスロ・タルはアルバム『アクアラング』の発表40周年にホームレス支援のために同アルバムを全曲ライヴ演奏して収録したアルバムを作った。そこにはもしロック・ミュージシャンとして売れなければホームレスになっていたかもしれない自分たちとの思いが反映しているだろう。もっと言えば救世軍の募金を求める街頭演奏に感じるものがあったと見てよい。一方、ジャックの本曲の歌詞は、救世軍に背を向けることから始まる。そして「放っておけ」と冷ややかに見つめるのだが、救世軍の募金に偽善を思うからだろう。もっと言えば宗教、信仰とは何かという疑問で、これはジェスロ・タルの『アクアラング』の「マイ・ゴッド」の歌詞に通じるだろう。本曲の歌詞はその後、「イギリス女王から地獄の鬼まで誰もが物語を持っている……」と続くが、これは救世軍が募金で救おうとする貧しい人だけではなく、人間は誰しもそれなりに悩みを抱えているということだ。そして誰も他者が抱える問題を聞きたいとは思わないが、自分はそうしたいと言う。そのことがつまり本曲の歌詞を書く契機になっているということだろう。「そして骨からの感情がこう言う、『家を見つけろ』」。この「家」は歌詞では「home」だ。内なる声が「ホームを見つけろ」とは、ホームレスにならずに家庭を持てと解釈してよく、最初の救世軍に背を向けることからして、「しっかり働いて家を持て」と自分を鼓舞する思いとしてよい。歌詞の後半が重要で、「この永遠に続く歌劇から遠いウィチタに行こう。そこで中身のない(straw)仕事をし、体中から汗を流す。血を流している。……神の御前ですべての言葉が出血させる。もう歌わない。私の血の滲みは、「家に帰れ」と言っている。」汗と血は聖書の「ゲッセマネの祈り」を念頭に置いてのことに相違ない。ウィチタで汗水流して働きながら、「家に帰れ」との内なる声を聞くとはどういうことか。

キリストがゲッセマネで祈ったのは自分が殺されることを悟った後で、また殺される恐怖のあまり全身から血の汗を流したことは小人物の証しではないかという意見がある。そのことはさておき、ジャックは中西部の生まれ育ちで、キリスト教の価値感で育ったであろう。ロックはだいたい反キリストの立場だが、黒人が多く、貧困地帯が目立つデトロイトでは、本曲の歌詞にあるような救世軍の働きだけでは救い切れない多くの人々を目にしたであろう。ジャックがウィチタに行って麦畑で働いたどうかは知らないが、そこで血の汗を流す働きをしても救われなかったのだろう。そこで「家」が問題になる。家や家族を持っていても社会の事情でそれを失う人は日本にも大勢いる。ジャックは各人が固有の事情を抱えていて、募金程度では他者を救えないと思っているのだろう。そして「家」を持つことにして20歳少々でメグと結婚し、音楽作りに勤しんだ。その充実はザ・ホワイト・ストライプスの演奏からわかる。子どもいるかどうかは知らないが、結婚して家と家族を持ち、それを基盤に充実感が得られるロックを生んだ。歌詞からはそう読み取れるが、無価値と思える労働で流した血のような汗、汗のような血は、キリストやその運命とどう関係するか。ゲッセマネの祈りの後、キリストは弟子の裏切りに遭い、殺された。歌詞の「ウィチタ」は電線工事者の思いを歌う
名曲「ウィチタ・ラインマン」を連想させるが、ジャックはメグと暮らし、同曲の歌詞が表わす野外での肉体労働ではなく、電気を使った音楽の創造に汗と血を流した。その血は彼らの衣装や楽器、舞台で必ず使われる赤が示し、汗は音楽に憑依したジャックの歌や動きであり、その激しさは肉体労働よりも苛酷だ。そしてジャックは才能で名声を得て、ブラジルの奥地の歌劇場で演奏するまでになった。一方、貧しいブラジル人は生活の豊かさを求めて寒いアイルランドに移民する。そこでレベッカ・タリタのような若いミュージシャンが空前の人気を博すことは万にひとつほどの出来事だ。それは三籠士にも言える。アイルランドでのびのびと育ったアリ・シャーロックや、あるいは音楽の才能に遺伝的に恵まれていたカロリナ・プロツェンコは、両親の絶大な支持もあって、YouTubeで500万人以上の登録者数を得る。とはいえ、筆者はレベッカと三籠士が演奏する本曲が大好きで、アリとは別にレベッカが三籠士と一緒にもっと路上演奏してほしいと思っている。彼らはブラジルという大きな家を捨てたが、音楽というもっと大きな家を信じて異国に移住した。その異国が本曲のウィチタであるのが現実だが、ネット時代は誰がいつどこで注目するかわからない。救世軍の演奏を前に筆者も募金しないと思うが、レベッカや三籠士が眼前で演奏すると応援したい。いや、眼前でなくても応援している。
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