「
鐘の数 一打も嬉し 喉自慢 予選通過で 選ばれし人」、「もしかして もっと知られて 人気者 そもそも楽し 好きをやること」、「新しさ わかる間は 気が若し 若さ肯定 老いの行程」、「劣化して 烈火のごとき 赤き爺 酒と世に酔い 宵から歌い」

ここ2週間ほどのことだが、このブログに新しいカテゴリーを作ってゴッホについて書こうかという気になっている。系統立ててのことではない。筆者は10代の終わりに小林秀雄の著作を読みながら、『ゴッホの手紙』について気になっていたが、それを理解するにはゴッホが書いた手紙をまとめ、エミール・ベルナールが序文を書いた本家の『ゴッホの手紙』を読む必要がある。それは小林のモーツァルト本も同じで、モーツァルトの全曲を聴いてから読むのが理想だ。ゴッホもモーツァルトもその後の半世紀で筆者なりに作品に接して来たので、今なら小林の著作を読めるのではないかと思っているが、20歳前後では理解出来なかったと言うか、面白いと思わず、やがて本も処分した。ところが気になっていることがひとつある。小林が晩年に本居宣長について書いたことだ。今なら上田秋成がらみで批判的に少しは読めるのではないかと考えつつ、小林がそうしたように一度は神社となっている松阪の本居の住まいを訪れる一方、国学についての初歩的な文献を繙くことが先かとも思っている。今気づいたが、こういうことを書くのは去年12月28日に「風風の湯」で出会った若い女性ピアニストに話したことを思い出したからだ。彼女には上記のことを話さなかったが、似たこととしてヘッセの小説を持ち出した。10代半ばから20歳くらいまでに読み終えることが出来なかった本を筆者は長年気になり、今頃になって読む気になっている。それは10代半ばの頃から死ぬまで人間の本質は変わらないことを意味し、10代半ばの直感は正しいということだ。さて、今日はその女性ピアニストの音楽について書くが、名刺には「パフォーミング・アーティスト MOKA」とある。「MOKA」は正しくはその後に王冠の記号と上に小さな星印、そして下にピリオド」がついている。この王冠記号はツイッターで使える記号の中に含まれるのかもしれない。また名前の後にピリオドをつけるのは芸能人の間で流行っている。ツイッターで「MOKA」を検索すると、同じ名前の人が何人も表示され、しかも筆者が出会ったMOKAさんはそこに含まれない。それは王冠記号とピリオドがないためかと想像するが、「MOKA」が珍しくない点で芸名としては損している。ただしこれは彼女の本名のローマ字表記ならば仕方がない。名刺にはツイッターで使われる「MOOOOOOOKA」の表記もあって、「GReeeeN」を思わせるが、eが4つは4人メンバーを意味するであろうし、MOKAさんの7つのOは七輪かと思えば、それで何を焼くのかとアホな連想をしてしまう。

「MOOOOOOOKA」は正しくは前に下線がふたつか3つ添えるが、筆者はそういう装飾の効果が理解出来ず、もっとわかりやく自己イメージを演出し、それでなお効果があることが理想に思える。ともかく7つのOがつくMOKAで検索してもただちに彼女の情報が得られずにストレスを感じるが、
YouTubeでは「MOKA MOKA」で投稿していることがわかって、今は彼女の投稿をBGMにこれを書いている。いただいたCDは多幸感を意味する『EUPHORIA.』と題し、やはり最後にピリオドがつくが、6曲収録で25分ほどだ。これをまだ10回ほどしか聴いていないが、最初に聴いた半年前と印象はほとんど変わらない。録音はとてもよく、ピアノ・ソロから始まってオーケストラの多彩さに変化し、最後の曲では日本語によるわかりやすい歌も楽しめる。彼女の演奏はYouTubeではもっぱら筆者には馴染みのない新しい日本や韓国のヒット曲、アニメ曲のカヴァーが目立つが、通りすがりの人の耳を引き寄せるにはそれが最も効果的との考えからだろう。今は欧米でもコロナ禍で路上演奏が禁止されているようだが、見物客の集まりはさほど期待出来ないだろう。とはいえピアノは屋内に置くもので、またNHKが世界各地の駅構内で設置するピアノを道行く人たちが自由に演奏出来る様子を番組で紹介しているせいか、MOKAさんの演奏の機会はさして減少していないのかもしれない。遠巻きの客もMOKAさんもマスクをしている映像は一種異様だが、演奏をYouTubeに投稿出来ればいいので、彼女は積極的に公開演奏の場を求めている。筆者は中秋の名月の頃に嵐山の法輪寺で「宙フェス」が毎年あって、そこで何人かのミュージシャンの演奏があることを伝えたが、ほかにも嵐山ではたまに公開ライヴがあり、他の観光地でも生演奏を披露出来る機会を設けているところは多いのではないか。ただし、そういう場所で演奏しても収入にはつながりにくい。そこでYouTubeに投稿することが今やあたりまえになっているが、登録者数が以前紹介したアリー・シャーロックやカロリナ・プロツェンコのように五百万人という有名度を得ることはよほどの魅力を必要とする。それは音楽の優れた才能もだが、画面から一瞬で伝わる圧倒的個性の力で、カロリナの場合は特に彼女の美しい動きを巧みに撮影、編集する父親の技術に負う面が大きい。絵面が美しいことは動画では最重要と筆者は思うが、立ったままギターを弾きながら歌うアリーの場合はその若さがはちきれる女性的魅力が大きくものを言っている。その点ピアニストは座ったままでカメラを複数用意して画面に変化を持たせるか、あるいはグレン・グールドのような独特の演奏姿勢が印象に残らない限り、YouTubeでは面白い映像にはなりにくい。
そうしたことはMOKAさんは知悉しているはずだ。そこで自らの「かわいい」イメージ・キャラクターを案出し、それをCDのジャケットやグッズに使用する一方、演奏に臨む際にも同じ化粧でいわば武装するが、ヴィジュアル性で人気を得ようとすることが、そしてアニメ・キャラクターとそっくりなそれで自己演出することが、特に日本の若者ではあたりまえのこととなり、その点でMOKAさんの手法に斬新さはない。美しく、かわいい人形的な美に近づこうとするほどに無個性になるかどうかは、極端に整形でもしない限り個性を持った人間の顔と体であることから、わずかな差異は誰にもあって、その点で個性を認める時代になっているが、濃い化粧によって男でも写真の撮り方によっては美女に見紛うほどで、今は自己陶酔の度合いが高いほどに人気を得ると言っていいのではないか。マネキン人形さながらのMatt Roseはその典型で、究極の化粧あるいは美容整形によって自分の理想に近づこうとしている人を面白がる、あるいは憧れる、崇める風潮がある。もちろん拒否反応を示す人もあるが、それはいつの時代も同じことだ。自己陶酔に浸っている人が人気者になるのは、それだけ自分を不幸と思っている人が多いからであろうがが、自己陶酔者が不幸を感じないかと言えばそうではない。厚化粧で素顔を隠すことは本当は悩みを抱えているからだろう。表現者はそういう悩み、葛藤を凝視して作品に昇華すべきで、偉大な芸術作品はみなそうして生まれて来ている。ベルナールはゴッホについて、「めずらしく気品のある性格の持ち主で、正直で、あけっぱなしな實に快活な、時には一寸奇妙な邪氣もある、友人としては最良の人物であり、厳格な批判者でもあった。利己心も野心もなく、それは、この純粋な彼の手紙や無数の絵が説明してくれるものである」と書いているが、この百年、ますます虚飾の時代となり、コロナ禍でマスクをしなくても、人は心の仮面をつけて容易に他者に自己を晒さない。あるいは晒すべき個性を持たないと言えばよく、むしろ無名性の楯に隠れて罵詈雑言をネットに書き込む。そういう時代にあって求められる表現行為が何であるかは相変らず人によってさまざまで、YouTubeならとにかく手段を択ばずに閲覧数を誰よりも稼げば人気者になり、収入で生活出来る時代で、ゴッホのような芸術は目指されないか、あっても人目につかないだろう。ショパンが生きていればツイッターのフォロワーが何百万人得たはずという意見をネットで見たことがあるが、では現在数百万人の登録者数のあるミュージシャンがいつかショパンと同じように天才として学校で教えられるだろうか。芸術の何たるかをわからない人に何を説いても無駄で、要は本人が何を対象にするかは問わずに幸福感を得られればいいという思いが支配的だ。
3か月ほど前にYouTubeでオーストラリアの路上ピアニストの演奏を見た。かなり高齢で、彼女の息子がキーボードを運搬するなどの手伝いをしている。その女性は貧しくて正式に音楽を学ばなかったが、若い頃にショパンやメンデルスゾーンのピアノ曲が好きで、今はそれらのクラシック音楽を基礎に自己流に解釈して即興で演奏している。白髪の目立つ、そして淡々と弾く彼女には虚飾が一切ない。彼女は誰も見ていなくても幸福で、その雰囲気や態度が却って感動を誘う。とはいえ、彼女は現在以上に有名になって、正式に録音したいとも思っていないはずで、またそうするほどの価値もないだろう。ひとつ言えるのは、音楽が彼女を救い、彼女はその音楽に対して讃辞を捧げているという姿が感動を与えることだ。そういう境地に至るミュージシャンは珍しくないが、純粋さを伝える人は少ないのではないか。話をMOKAさんに戻すと、彼女が自宅で演奏するYouTubeを見ると、ベーゼンドルファーを置いた多角形の部屋で、経済的に恵まれているようだ。また脱線するが、「風風の湯」にたまにやって来るSさんは上桂の200席の小さなホールであるバロック・ザールの運営を任されていて、そのコンサート・ホールで演奏するクラシックの音楽家をたくさん見て来ている。ほとんどの演奏者は身内に入場券を配ってのリサイタルで、日本のクラシック音楽の現状はよほどの優れた才能でない限り、ごく狭い人間関係の中で消費されている。クラシックの音楽家も自分あるいは他人の手でYouTubeを使って自分の演奏を視聴させる時代であるので、目立つ個性があれば人気を高めることは可能になっていると言えるが、実際のリサイタルに足を運んでもらえる人を増やせるかとなればそう簡単ではないだろう。むしろYouTubeで満足し、コンサートには行かなくてよいと思う人が増える可能性もある。実際の体験と画像体験とでは幸福感に差があるのは言うまでもないが、ネット時代になって仮想現実が現実よりも多幸感を与えてくれると思う人を増やしたのではないか。ふたたび話を戻して、MOKAさんは加齢に伴って現在の「かわいい」アニメ的キャラクターのイメージを変化させて行く必要はあるし、もちろん音楽も深みを増さねばならない。それは年齢を重ねることで自然に身について行くものと言えるが、音楽以外の生活が関係する問題だ。こう書きながら筆者が思い浮かべているのはゴッホの晩年の自画像だ。そこにはもちろん「かわいさ」は微塵もなく、むしろ全きの孤独な精神病患者の「怖さ」があって、筆者は凝視することが出来ない。そういう彼が燃えるような様式で晩年に描いた絵は前人未踏のもので、その後の絵画の歴史を大きく変えた。

『ゴッホの手紙』の1983年の序文でベルナールはこう書く。「ゴッホをはじめ多くの藝術家が歩いた道を理解するには、次のことを知っておかねばならない。一、學校で美術教育を受ける必要はない。二、美とは既存形式の模倣ではなく、個性によって感じた新しい眞理のなかに包含された崇高なものを発散させることである。」 この意見は音楽に関して当てはまるだろうか。MOKAさんは東京の音大卒で、そこでピアノの演奏はもとより作曲や編曲についても学んだであろう。美大もそうだが、音大を卒業しても芸術家になる人はごく一部だ。ゴッホは弟テオの支援で生活し、絵を描き続けたが、同時代の画家は経済的支援者がなければ極貧を覚悟する必要があった。ベルナールはそのことも書いている。話を戻して、音大を出てポップスの世界に進む人はあるし、GReeeeNは全員歯科医で音大とは無縁だが、音楽の芸術をどう捉えるかは音楽好きの間でも意見はさまざまだ。芸術音楽が確立されていてもそれを敬して遠ざける人はいるし、そのことを非難出来ない。カラオケ好きな人は流行歌をもっぱら聴いて西欧の音楽史に関心はないだろうし、西欧の古典音楽は聴いても現代音楽は聴かないという人もいて、音楽好きもさまざまだ。そしてむしろ芸術音楽よりも音楽の属性である演奏者の顔や振る舞いに魅せられてファンになる人のほうが圧倒的に多く、それもまた音楽の力だ。MOKAさんは「パフォーミング・アーティスト」を自称し、人前での演奏を中心とする。それはたまたまその場に居合わせた人のためのもので、どこから聴いてもよく、どこで聴き終わっていいものだが、当然演奏に起承転結はあり、オリジナル曲も含めて曲をどういうつながりで演奏するかという組曲としての流れに工夫を要する。そのことはミニ・アルバム『EUPHORIA.』によく表されている。彼女のほかの自作曲を知らないが、このアルバムの6曲すなわち「And was even happy life forever」、「サクラ」、「PIANO」、「黎明」、「天空」、「孤独の国」を聴く限り、どれもよく似ていて、珍しい和音を用いた曲はない。その点で没個性になりがちだが、逆に言えば神経を逆撫でさせられず、気楽に聞き流せるムード音楽の印象がある。品のよいアニメ映画に添える音楽と言えばいいか、また音楽に詳しくない人でもそのよさがわかる落ち着きがある。筆者のように長年あらゆる音楽を聴き続けて来た者にとっては物足りないが、悪趣味さは皆無で、アルバムの題名どおりの内容を意図したものであることに好感が持てる。音楽の本道を意識していると言えばいいか、不幸知らずで育ったか、意図して不幸に目を向けず、安らぎを重視しているのだろう。それはそれでいいのだが、耳の肥えた音楽通には物足りない。また同じように人前でピアノを演奏する人はYouTubeではたくさんいる。

彼女はYouTubeでは「レット・イット・ビー」やブギを聴かせるので、欧米のロックのカヴァーも厭わないようだが、人前でのカヴァー演奏はよく知られた曲がよい。筆者は彼女にザッパの「ブラック・ページ」を楽譜を見せながら一度だけ聴かせたが、初見でその演奏がよくわかったようだ。彼女がザッパの曲を演奏すると面白いと考えるが、その例は武田理沙さんにあってYouTubeで見られる。とはいえ、MOKAさんの演奏技術ならばザッパ曲をレパートリーにし、ライヴハウスで演奏出来るはずで、それも楽しいのではないか。彼女には言わなかったが、「ブラック・ページ」はアメリカの音大で教材になっている。最初に書いたように、彼女の名前の表記はネットでは埋没しやすく、YouTubeの投稿では表題やサムネイルの画像における文字の見せ方が月並みだ。それが流行とも言えるが、やはり目立ちにくい。ネットではあらゆる方法が日夜試され続け、それなりの流行があるが、音はさておき視覚面で特別の個性を表現するにはよほどの美的なこだわりが欠かせない。それは個人の手にあまり、優秀なサポート役が必要だ。これは書いていいのかどうか、彼女は奈良のとある市に住み、彼女が去年秋にヒガンバナを撮影した近くの大きな寺は去年ちょっとした会館を建て、演奏も出来ると聞いた。彼女はそのことを知っていると思うが、演奏可能な場所は片っ端から使い、腕を磨いて多くの人に存在を知られて行くのが今のところ最適な方法だろう。彼女が去年暮れに京都に来たのは、車折神社の玉垣に名前を書いてもらうためで、芸能の神の弁天さまを信じているのであれば奈良の天河弁財天に行ったかと訊くと、そこはまだとのことであった。それはともかく、先月17日、スーパーへ向かうのに車折神社の境内を南から北に抜ける際、MOKAさんの玉垣を思い出した。それはすぐに見つかった。今日の2枚目の写真がそれで、翌日出直して撮った。3枚目は冨田渓仙の桜で、そのそばにGReeeeNその他の有名芸能人やミュージシャンの名が並ぶ4枚目の写真の玉垣があり、奥にMOKAさんの名前を小さく収めた。双方の距離はどれほど大きいのかそうではないのか。名声か芸術性か。あるいはどちらもさしてどうでもよく、自分が多幸感に満ちていればそれでよしとするのか。老いるほどに多幸感に見舞われるそうで、富士正晴の父親がそうであったと富士が書いた。ゴッホもそういう老人になることを夢見ながら、37歳で燃え尽きた。そう言えば、ゴッホを賛美し、ゴッホの作品を所有して最初に広く世の中に知らせた評論家のアルベール・オーリエは27歳で死んだが、ゴッホはその文章にあまり感心せず、ベルナールも冷ややかだ。ゴッホは苦しみから自殺したが、多幸感に駆り立てられ続けたであろう。表現者はみな苦しみながら作り、そのことが幸福なのだ。あるいはそのことでしか救われない。

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