「
律すれば 逸するありや 人の性」、「出鱈目に 種撒くこの世 運と縁」、「陰あれば 陽に酔いたし 子どもでも 踊る人見て ようと声かけ」、「遠雲を 尽くす言葉に たとえれば 韻踏むことも 陰の重なり」

このカテゴリーは3月末にYouTubeで知ったアイルランドのアリー・シャーロックについて書き、そのつながりで前月末はウクライナ系アメリカ人のカロリナ・プロツェンコを紹介した。この10代のふたりの女性がカヴァーしている曲からイギリスのエド・シーランを知った。今日は彼について書く。今年になって、しかも他人のカヴァー曲によって彼の存在を知るとは、筆者もそうとう新しい情報に疎く、高齢者であることを実証しているが、新しいポップスに無関心になるのはある程度誰にも言える。ここ数か月、筆者はクラシック音楽をもっぱら聴いていて、またYouTubeのおかげで昔ならとても手軽に聴くことが出来なかった古い録音がほんのわずかな手間によって興味の赴くままにいくらでも楽しめる。それはさておき、カロリナがカヴァーするエドの曲は「SHAPE OF YOU」で、それを演奏するカロリナのアップの顔をキャプチャーして先月載せた。彼女の演奏はエドのオリジナル・ヴァージョンとは違った面白みがあり、コメント欄に「エドに聴かせたい」と書かれる。エドは聴かないだろうが、聴けば自分が作ったメロディが10歳少々の女の子にヴァイオリンで奏でられることに感動するだろう。幼ない彼女に「SHAPE OF YOU」の歌詞は刺激があり過ぎで、彼女は両親からその曲をカヴァーすることを勧められた時、歌詞の内容を聞いてどう思ったか気になるが、彼女がヴァイオリンでなぞると男女間の肉感的なものが消え、少女らしい純心さに変貌するのがよい。それで「エドに聴かせたい」という意見を書き込む人がいる。筆者が最初に聴いて感心したのはもちろん同曲だが、すぐ後に彼がロンドンの自宅付近だろうか、知り会いに囲まれながら路上でギターを鳴らしながら10数分の「YOU NEED MEI DON‘T NEED YOU」を歌っている映像を見て一気に才能の凄みを理解した。そして「DON’T」やアリーがカヴァーしている他の曲など、片っ端から聴き、よほどCDを買おうかと思いながら、YouTubeばかり見ている。彼の曲をいちおうはひととおり聴いたと思うが、このカテゴリーでどの曲を取り上げようかと迷い続け、一度聴いただけでそのアイルランドの踊りの曲を模した民族音楽的なダンス曲、そして歌詞が気に入った「ナンシー・マリガン」に決めた。この曲は彼のYouTubeでいくつか投稿されているベスト・アルバム的選曲に含まれず、あまり人気がないのだろうが、筆者にはとても面白い。そしてこの曲を書く才能を持つエドが紛れもなく世界的人気を得ていることに大いに納得出来る。
エドはイギリスからビートルズがもらったのと同じ勲章を授与され、近年長者番付の上位に載るほどに経済的成功を勝ち得たが、現在30歳で、コロナ前に活動を中断して今に至っている。30歳になればもうポップスの世界では若くないことを自覚しているとの発言も読んだが、生まれ故郷に広大な土地を購入し、結婚は高校時代の級友としたとのことで、なかなか堅実的で賢い。小柄で眼鏡をかけ、風采はあまりぱっとせず、ギターは体に合わせてかなり小型で、激しい曲を演奏するとすぐに調弦の必要が生じるようで、日本公演の様子を見ると、1曲ごとにギターを交換している。舞台の袖で係員が2本用意したギターを交互に1曲ごとに調弦し直すのはエドが有名であるからだ。そうでない時代はひとりで少々調弦が狂ったギターを弾かねばならず、そういう映像がYouTubeにはある。10数分もギターを激しく鳴らせば演奏の後半は弦が切れ、また音が狂って来るのは仕方がない。小型のギターにこだわるのは少しでも体格との釣り合いを思ってのことで、つまりは美意識による。それは彼が両腕に刺青を入れていることにも表われている。刺青は整形と同じで、手を入れるほどにとめどがなくなるところがあり、彼の刺青の増え方はYouTubeの映像を追うとわかる。刺青は日本では否定的に見られるが、どの国でもそうだろう。エドが刺青を入れたのは、これは日本でも古来そうだが、精神の弱さを克服し、一種の魔力を得るという思いからだろう。それに流行に積極的に馴染もうとの思いもあり、大衆相手のミュージシャンとして覚悟を決めたからだろう。これは普通に勉強して大学に入り、サラリーマンになるという道を進まなかった「アウトサイダー」としての矜持であり、刺青を入れることで後戻りが出来ない。刺青を消す人が男女ともにいると聞くが、一時のファッションで入れる思いはエドにはなかったであろう。半袖を着れば丸見えの両腕に入れることは、ギターを弾く姿とともに印象づけられる。そこには強い美意識、自己顕示欲がある。またそれだけに個性的な音楽を作り得る。エドは努力家と見えるが、ごく普通の男と同じように酒や麻薬、セックスなどさまざまな誘惑に魅せられもし、そこに着目してどういう曲を書くべきかを考えて来たのではないか。ある程度の弱さを見せることで却って若者の共感を得やすい。小柄で美形とは言い難いエドは、その分ひとりで演奏する自作曲に全力を投入するしかなかったが、YouTube時代にあって、K-POPのようなルックスと凝ったダンスが大きな価値を持つ、いわば工場で入念に合成培養されたグループ・ミュージシャンとは違って、野生児そのままに才能と努力のみで頭角を現わした。そういうエドがイングランドやアイルランドなどの英語圏で大人気を獲得することはよく理解出来る。
ところで、若者が刺青を入れることに抵抗がさほどなくなって来たのはヒップホップの流行と軌を一にするのではないか。刺青は肌が白いほどに目立つので、アメリカの黒人が積極的に入れて来たのかどうか知らないが、エドの刺青はヒップホップ文化の反映と思える。外見にふさわしい音楽をやるのはあたりまえのことで、エドは一見真面目そうな自分にはそぐわない刺青を入れることで、より本心を大胆に歌い上げられると考えたに違いない。「ナンシー・マリガン」を例外として筆者はもっぱらエドの曲を聴き流し、歌詞を分析してはいないが、エドがラヴ・ソングの可能性を信じているところから推して、さほど世間に毒づくような内容は目立たないだろう。あるいは若者の心に響く程度には世の中の矛盾を糾弾しているはずだ。これはアリーつながりで知ったが、エドのことを知る以前に、夜のダブリンのグラフトン・ストリートの南端で、
ギターを持った5,6人の男性が入れ替わり80分ほど演奏するYouTubeを見た。その投稿の最初から50分経った頃に、アリーと路上で演奏の経験がある青年ともうひとりの若い男性が演奏を始める。ふたりは4つのコードを繰り返し、ユニゾンで早口でまくし立てながら、数曲を10分ほどメドレーで歌うが、筆者は当初彼らが誰の曲を演奏しているかは知らずに、惚れ惚れしながら聴き込んだが、後にエドの曲のカヴァーとわかってさらに感心した。メドレーの最後はスティーヴィー・ワンダーの70年代前半の「迷信」を演奏するが、それもまたエドの模倣で、エドがスティーヴィーの同曲をカヴァーしていることをやがて知った。ヒップホップの原点をたどると70年代のアメリカ黒人の最大の才能であるスティーヴィーに行き着く。エドはスティーヴィーのように名曲を連発することを目標としたに違いなく、またその野心はかなり成功したことは、アイルランドの若手路上ミュージシャンがしきりにエドの曲をカヴァーしていることからもわかる。前述の若い男性ふたりのカヴァーは、エドとは全然違うように聴こえつつ魅力があり、しかも古典的な味わいを感じた。これはエドの原曲がしっかりと構築されているからだ。ひとりでギターを弾きながら歌うシンガー・ソング・ライターの基本に立って世界的に有名になったエドからは、エレキ・ギター中心のロック・バンドの時代が古くなったことを思う。実際YouTube画面の右欄に表示されるお勧め投稿にビートルズが表示されても筆者は見たことがないが、それはもちろん筆者がビートルズを熟知しているからで、曲を作る若いミュージシャンはエドがそうであるように広くポップスの古典を聴くべきだ。ただし、流行に敏感でありたいだけであれば、絶えず生まれ続ける流行曲に触れるだけでよく、またそういう人が多数派であることをエドは知っている。それで28歳くらいで活動を一時停止し、ネットから姿を消した。
新しい有名な流行音楽にはそれが歓迎される理由が必ずある。エドの音楽から筆者が感心するのは、ひとりで何もかもやることだ。大会場の背後の映像や音響は専門家に任せるが、基本的にひとりで演奏するという立場が伝わる。ビートルズの4人が70年代のポリスの3人に席を譲り、そしてエドはひとりで演奏する。その手法は60年代のフォーク・シンガーに盛んにあったが、エドはルーパーを使って多彩な伴奏をひとりで操る。YouTubeにイギリスの高校生が教室でルーパーを使ってエドの演奏を完全コピーしている映像があって、エドの人気のほどがわかるが、その高校生が次代を担うにはコピーから先に進まねばならない。それにはエド以外のポップスの古典も学ぶ必要がある。エドの曲にストーンズの「ミス・ユー」を思わせるものがある。もう少し消化して模倣の痕跡を消せばいいと思うが、あえて「ミス・ユー」に学んだところをオマージュとして示しているのかもしれない。3分前後のポップスは過去の何らかの曲を思わせるもので、過去の名曲に学ぶほどに模倣から抜け出ることが難しくなる人もいるだろう。「ミス・ユー」を思わせることはエドがR&Bに関心があるからだ。それはエドがヒップホップのミュージシャンと交友し、またその傾向が濃厚な曲を頻繁に作っていることからもわかる。だがエドはイギリス人で、ビートルズやポリスと同じく、R&Bあるいはレゲエやスカという他国の音楽を援用しながらもイギリスの香りを失わなかったことと同じことを体現している。その意味でエドはビートルズやポリスの後を継ぐ、イギリスを代表するミュージシャンだ。レゲエやスカがジャマイカ以外の地でさんざん使われた後、アメリカの黒人はラップからヒップホップへと言葉をリズミカルに数多く重ねる、繰り返しの多い音楽を生み、日本を初め世界にその流行をもたらした。エドがその新しい音楽を模倣することは当然として、イギリス人としてのアイデンティティはどうなるか。プレスリーが黒人音楽を歌って世界的人気を得たことと同じ手法は今も繰り返され、エドは現在のプレスリーと言ってよい。これは黒人が白人に搾取されていると感じても仕方のないところがあるが、黒人にはかなわないそれぞれの国の持ち味を加味してエドのような新たなミュージシャンが出て来ることも黒人にとってはどうしようもないことだ。また影響は相互にあるだろう。黒人が始めた新たな音楽語法も必ずしも黒人の発明とは言い切れず、文化はみな雑種性を含む。ましてや現代は瞬時に世界の隅々に情報は伝わり、誰がどのようにそれを使って即座に作品を生むかは誰も把握し切れない。それゆえある作品が大ヒットすると、そのごくわずかな部分が自分の作品を盗んだと主張する人がいるだろう。エドのある曲が「ミス・ユー」を思わせるとして、それはどこか似ていると筆者が感じるだけであって盗作ではない。
さて、ヒップホップの音楽は言葉をリズミカルに矢継ぎ早に重ね、日本語であればまだ理解出来るが、英語では一度は文字を追わなければ何を歌っているのかわからないことがあるだろう。そして一旦覚えるとノリのよさから一緒に口ずさみやすい。エドの早口による歌をそばで聴く若い女性が口ずさむ映像がYouTubeに目立ち、彼の曲は歌詞が重要であることが伝わる。エドの曲はステージでは10分以上にわたる場合があり、その間に放つ言葉数は膨大で、それを間違えずに全部記憶し、しかもルーパーの操作を完璧にこなしてのことで、筆者が見る限り、ルーパーの操作を間違えて最初から演奏し直すことがない。プロではあたりまえのことだが、普段の練習量は想像に難くない。一旦演奏を始めると、すべて自分の思いどおりに事を運ぶという冷静さを背景に、火が点いた演奏はますます燃え盛り、同じ曲でも演奏ごとに繰り返しの部分を加減して長さを調整する。またあるコメントはエドが歌詞の一部を演奏し忘れたことを指摘し、その理由を書かないが、アメリカで演奏する場合は歌詞の一部に不つごうがあると判断した可能性がある。そこからエドの歌詞の意味を掘り下げる必要を思うが、筆者はそこまで関心はない。ルーパーの操作は慣れによるとして、いくつかのメロディの断片を記憶させ、それらを引き出しつつ、同時演奏あるいはごく一瞬停止させるなど、足で音の流れを操作することは、歌とギターを合わせれば全身を使っていると言ってよく、その意味でエドは踊りはしないが、踊っているも同然だ。ルーパーを使う利点は、ひとりで好きなように音の流れを構成出来るという経済性だが、エドの経済力があればバンドを雇うことは出来る。そういうエドの演奏はないではなく、「ナンシー・マリガン」ではフィドラーや打楽器奏者をしたがえてステージで演奏している映像がある。それは例外として、やはりエドはルーパーを好み、そこにひとりで何もかもやりたいという孤独好みが見える。ネット時代になって人は一瞬で他者と言葉を交わせられるようになったが、実際に会う必要を感じないことが増えもし、その分孤独になったと言える。そういう時代にエドのひとり舞台が人気を博すことは理解出来る。またエドのように有名になると、ろくでもない連中が無数に近寄るだろう。特に女の問題は大きい。そこでエドが高校の級友と結婚したことは、有名になる以前の自分を知っていてくれるからで、金目当ての可能性は少ないとエドにすれば思える。エドは音楽で食べて行けることを夢見たであろうが、数万人の観客を前に歌ってもそれはネット空間とさほど変わらないと思っているのではないか。実際彼は数人を前に路上で歌っていた頃のほうが楽しかったと言っている。これは自分が思いをはるかに超えて有名になってしまったことに対して当惑し、初心を忘れないという戒めに常に目を向けてのことだ。

エドの幸福は自分の周囲の親しき存在が手の届くところにあることを実感出来ているとこにあると見る。これはそうでないミュージシャンや俳優、有名人のほうがはるかに多いだろう。簡単に言えば勘違いし、親しき人が離れて行き、ますます孤独になる。エドのような家庭的と言える真面目なタイプは芸能世界では主流ではないだろう。それを知っての腕の刺青でもあると思う。さてエドの音楽のR&B以外の要素を代表するのが「ナンシー・マリガン」だ。この曲はジェスロ・タルを好む筆者には一度聴いただけで耳に馴染んだ。ここでジェスロ・タルを持ち出すとややこしくなりそうだが、イギリスはややこしいところがある。ジェスロ・タルはスコットランドを代表するバンドで、彼らの音楽にはスコットランドの民謡や民族舞踊の旋律とリズムを使った曲がとても多い。68年のデビュー当時の彼らはジャズ、R&B、そしてわずかにバッハも取り入れた演奏をしていたが、すぐにスコットランド色を濃厚にした。エドも自分のルーツに大きな関心があるだろう。ヒップホップの模倣だけでは黒人に負けるとは言わないものの、限界はある。そして民族的な色合いに着目した。その代表曲が「ナンシー・マリガン」だが、歌詞はエドの祖父と祖母の出会いと結婚についてで、エドの考えと立場をよく説明する。イングランドが北アイルランド問題で70年代当初から流血事件が頻繁にあったことはジョン・レノンやポール・マッカートニーの曲によっても伝わった。カトリックとプロテスタントの対立は、現在も終息してはいない。エドの祖母はアイルランド人で、祖父がイングランドであったが、戦時中ふたりはその宗教の対立を越えて駆け落ち結婚した。結婚指輪は歯科医が確保出来る虫歯の詰め物の銀で、それで祖父は指輪を作った。ふたりは子どもをたくさん産み、そのひとりがエドの父になった。そういう話をエドは祖父と祖母から聞き、胸を熱くしたであろう。駆け落ちはふたりがよければいいという自分勝手かもしれないが、これ以上にロマンティックなことは人間にはない。エドはその行為を本曲で讃えている。そしてその歌詞を祖父や祖母でも即座に馴染むアイリッシュの民族舞踊を使った。本曲をカヴァーする、あるいは本曲を使った創作映像がYouTubeにある。今日の2枚目の写真は戦時中の
兵舎の前で女性兵士が踊る場面を描く映像から取った。画面の最後に「絶望の真っただ中で楽しみを見出すことは、戦う価値のある闘争です!」と出る。先日書いた映画『アクト・オブ・キリング』では、プレマンが踊るように共産主義者を片っ端から殺した。エドはその女性兵士が踊る映像を見たであろうか。見れば拡大解釈と思うではないか。最後にもうひとつ映像を紹介する。
ロンドンの駅構内でピアノを演奏する男性を見つけた学校帰りの女の子が演奏に合わせて踊る。黄色の帽子とワンピースの制服姿のかわいらしいこと。

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