「
狆が見る 夕焼け色の フラミンゴ カラー映像 欠かせぬ不便」、「狆の色 馴染む相手は フラミンゴ」、「赤加え 墨画淡彩 引き締まり 鶴ではなしに フラミンゴ画く」、「人と犬 雑種こそが オリジナル」、「檻に爺 成るや卑屈の 曲者か 世間は広し 知る世は狭き」
『アクト・オブ・キリング』を改めて見た勢いから、ヘルツォークの『狂気の行方』も見る気になった。このDVDも去年買ったが、暗い雰囲気のジャケット写真からすぐに見る気が起こらなかった。『アクト・オブ・キリング』と同傾向の陰惨な暴力を扱った内容と思ったからだが、その想像は半ば当たり、半ばは予想した凄惨はほとんどなく、安堵ないし落胆した。これは本当はよくない。暴力は過激さに鈍感になりがちで、少々の残虐性ではさして何も感じなくなる。その点はポルノも同じかもしれない。あるいは音楽もそうで、ヘヴィメタルからデスメタルへと至るのも自然の流れであったのだろう。『アクト……』における暴力は空前の規模で、その大虐殺に比べるとどのような殺人事件も影がうすくなる。つまり、ヘルツォークにすれば『アクト……』の後にはもうどのように殺人を描いても迫力はないと思ったのではないか。極限に達するともう方向を全然違うところに向けるしかない。つまり、デスメタルを聴けば、次はフォークのソロ・シンガーの歌がいいと思うようになるしかないだろう。そこで今日取り上げる『狂気の行方』と『アクト……』のどちらが先に製作されたかが気になるが、本作は2009年、後者は2013年であるから、ヘルツォークは殺人を主題に、本作の息子による母殺しから思想の異なる同国人間の大虐殺へと関心を移したことがわかるが、これら2作には殺人が人類にとって普遍的なものであるという点での共通性がある。大虐殺を扱うのであれば、ドイツ人のヘルツォークはヒトラーを描けば手っ取り早いように思うが、それはさんざんこれまで撮影されて来た。そこに新しい何かを付与することはヘルツォークには出来ないだろう。そこでかねてから関心のある熱帯地域のひとつであるインドネシアで起こった、そしてほとんど隠されている事実に光を当てようとした。それは成熟した西洋国家も未開の部分を多大に抱える東南アジアも大量虐殺については同じであるとの思いからで、アジアを見下げてのことではない。何しろ『アクト……』で描かれたように、虐殺をしたプレマンはアメリカのギャング映画から殺人を学び、それをさらに徹底したのであって、アジアは西洋を何事においても模倣している。もちろん西洋の知識人はそういう面ばかりではなく、アジアには独自の精神世界があることを知っていて、たとえばビートルズがインドにかぶれたのもそのことから説明出来る。ヘルツォークがアジアないし日本の精神思想についてどれほどの関心と知識があるのか知らないが、たぶんほとんどないだろう。
たとえばチェリビダッケやレナード・コーエンのように禅に関心を持ったとして、それを映画にどう反映させられるかとなると、ドキュメンタリーを通じても新たな何かは見えないのではないか。それはヘルツォークに限界があるというよりも、現在の禅により問題があると思える。ジョン・レノンは禅に一時期かぶれながらそれを否定したが、一時期かぶれたくらいでは悟りを得るのはまあ土台無理な話だ。それで彼は10代に心酔したロックンロールに戻ったが、もっと真剣に魂の救いを願う人は何らかの宗教に踏み込むしかない。先日筆者はヨブや維摩についてわずかに触れたが、ヘルツォークなら彼らのことをどう思うかに大いに関心がある。本作ではヨブのことがわずかに言及され、ヘルツォークが聖書に関心があることを匂わせるが、本作ではそれよりもギリシア神話が扱われる。これは日本では知識人でもさほど馴染みのないことで、ましてや普通の娯楽主義者にはさっぱり関心がないというのが相場であるから、本作の日本での評価はすこぶる低く、ほとんど理解されていないと思えるが、それだけに筆者は何かを書いておきたい。さて、一昨日書き忘れたが、日本で若い男の介護士のUが、20人ほどだったか、障碍者施設で一気に刃物で殺した事件があった。Uの論理は、生きていても意味のない、つまり何も生産せず、人の手助けを必要とする人物はこの世から抹殺するのが世のためになるというもので、『アクト……』で描かれたプレマンたちとどこか共通している。プレマンたちが殺したのは障碍者ではなく、知識人や華僑の商売人で、日本ではUの行為に内心同意する人がいるだろう。日本では高齢者の寿命が年々延び、その分若者の税負担が増え、高齢者が少しでも早く死んだほうが、国あるいは自分たち若者が暮らしやすくなると思っている若者は少なくなく、一方でUの考えを論破出来る人は少ないだろう。ところが、Uが高齢になり、他人の手を借りねばならない寝た切りになった時、さっさと殺してほしいと思うだろうか。あるいは自殺するだろうか。認知症になれば死の恐怖がなくなるかどうかだが、それはその時になってみない限りわからないものの、動物は本能的に死を怖がり、また認知症になるとなおさらその傾向が強くなるだろう。つまり、殺された寝た切りの障碍者たちは、思いを表現出来なかったとしても、恐怖に震えながら痛みを感じて死んだはずで、誰でもそういう経験をさせる自由はない。何が言いたいかと言えば、プレマンは狂人で、また狂気がなければ人を殺せず、Uも狂っている。ただし、精神異常であれば刑が軽くなるので、Uは精神が正常で多くの人を殺したと裁判官は判断すべきだろう。精神が正常で多くの人を殺し、無反省であることは、異常そのものであって、精神異常で片づけてはならない。だが、異常を平然と行なえる正常を誰がどう正常に理解させて裁けるか。
殺人に対して精神異常を安易に持ち出さないことだ。そうでなければ善悪を誰が判断出来るか。ところが『アクト……』が示すように為政者の思惑ひとつで善悪が逆転する。経済的に恵まれ、きれいな奧さんと妙齢の娘を持つあるプレマンは、自分たちのかつての殺人が国際裁判にかけられるのであれば、人類最初の殺人とされるカインとアベルの兄弟間の殺人に問題があると屁理屈を言った。その言葉はジョシュア監督やヘルツォークの胸に響いたであろう。ギリシア神話や聖書に肉親間の殺人の話が出て来ることは、今後も人間は殺人から逃れられないことを示している。大虐殺も歴史時代以前に頻繁にあったはずだ。そう言えば20年ほど前にアルプスの氷河から旧石器時代の凍った男性のミイラ「アイスマン」が発見されて大いに話題になった。その後研究が進み、彼が矢で殺されたことがわかった。ギリシア神話や聖書よりはるかに遠い昔の殺人だ。アイスマンはたまたま他人の縄張りに迷い込んだだけだが、見知らぬよそ者は殺せというのが5000年前のヨーロッパでは常識であったのだろう。とはいえ、今のアメリカでも同じような事件が起こっていて、5000年程度で人間は変わるはずがない。進歩した点があれば退化もあるはずで、現代は大量虐殺に関しては石器時代以上に頻繁かつ大規模に起こっている。そう言えばヘルツォークは10年ほど前にフランスで発見された3,4万年の洞窟壁画を撮影することが許可され、そのドキュメンタリー映画を製作した。『狂気の行方』は現在のアメリカでの殺人事件を扱い、ヘルツォークは古今東西を行き来し、人間の根源を探ることに関心がある。そしてその根源に狂気が潜むと見るのだが、狂気を描き出すには狂気を冷静に見つめつつ、狂気と言える途方のなさが必要だ。筆者はたまにヘルツォークの著書『氷上旅日記』を思い出す。手元のそれを繙いて読みたくなるのではなく、その本に書かれる思いに同調したくなるのだ。彼はパリ在住の敬愛する映画評論家の女性が危篤と知り、ミュンヘンから徒歩でパリまで行った。そして願かけの行為が実って女性は生きていたのだが、同書の旅の間につけたメモ程度の日記が、後の数々の映画作品の着想になったことの面白さもさることながら、歩いて会いに行くという途方のなさが筆者の胸を打つ。そこまで敬愛出来る人物がいることの羨ましさに加え、そういう行為をあえてするところにドイツ・ロマン主義の精神を見てさらに羨ましくなる。ヘルツォークがロマンティストと言えば反論する人が多いと思うが、常軌を逸する無茶をすることはロマン主義の大きな特徴だ。そういう才能は同じ思いを持つ人にしか理解されない。筆者は全くヘルツォークとは違うことをして生きているが、常軌を逸したこと、つまり狂気と言ってよい創作に憧れがある。そういう途方もない作品しか後世に残り得ない。片手間では駄目なのだ。
これは以前に何度か書いたが、筆者が小学6年の時、母は担任の先生からこう言われた。「大山君は天才的な仕事をするような、あるいは激情から殺人をするかもしれない激しさを持っている」 この言葉の前半を筆者はほとんど意識して来なかった。自分が天才と自惚れるほどの馬鹿ではないとの自覚があるからだ。そして後半の殺人云々をことあるごとに想起し、自戒する。とはいえ、抑え難い激情がごくたまに起こる。それはもちろん怒りで、あまりの醜さに遭遇するからだ。激しさは片親育ちゆえだろう。長じてからある人から、「片親育ちはみな精神が歪だ」と言われた。そのある人も片親育ちで、また筆者はその人を嫌悪したが、同じ片親育ちでもさまざまだ。話を戻して、母は担任の言葉を戸惑い混じりの笑みで筆者に伝え、それ以上は一切何も言わなかった。担任の言葉の殺人云々は、担任は思い当たる事件を目の当たりにしたのだ。そして筆者の自尊心のあまりの高さに驚き、また怒った後はさっさと家に帰ったことに呆れたのだ。天才云々は筆者の画才や文才を見てのことだ。勉強の成績がいい子は珍しくないが、筆者は絵や書、作文が得意との自覚があって、先生もそれらの才能を認めていた。先日「風風の湯」で85歳のMさんが、小学生の孫のことか、「顔を見ればどの程度かわかるよ」と話すことを耳に挟んだ。小学5,6年生になれば、将来どういう大人になるかはほとんどわかる。もちろん普通の子が発奮していい大学に進むことはいくらでも例があるが、それだけのことで、みな平凡な、あるいは嫌われ者の大人になる。一方、傍からは無謀と見えることに邁進する人も大勢いるが、見事な果実をものにすることはごく稀だ。ヘルツォークは若い頃から違った。それを数々の映画が証明している。結局どういう作品を残すかで、作品から作者の真髄がわかる。そして途方もない才能は途方もない努力と運に支えられ、途方もない作品は途方もない才能によって生まれる。それで本作『狂気の行方』は、途方もなさがどういう運命をたどるかの一例を描き、演劇俳優を扱う。そこで想起するのはヘルツォークが長年使った男優クラウス・キンスキーだ。彼ほどの狂気の才能はきわめて珍しかったのに対し、本作で描かれる無名の演劇俳優は無名で終わるしかない別の狂気があった。同じ狂気でも方向を間違うとろくでもないことになる。では狂気にどういう違いがあるのだろう。前述したUは絵が上手であるようだが、彼の狂気は本作の主役の演劇俳優と似る。ただし、Uは他人、本作では母殺しだ。ヘルツォークが本作を撮ったのは現代社会で顕著になって来ている殺人のタイプであるからだろう。それは今に始まったことではなく、ギリシア神話に例があるが、本作は基になった事件の再現で、母親を殺す青年は演劇俳優として優秀で、また母親殺しを主題とするギリシア神話を演じることで実際に母親を殺してしまう。
ヘルツォークはオペラを演出したことがある。そのDVDを昔に買いながらまだ見ていないが、映画監督の彼が劇や俳優に関心があるのは当然だろう。本作では母殺しを主題にするギリシア神話の演劇の演出家が登場し、主人公のその舞台の主役を演じる青年に注意する場面がある。つまり台詞を飛ばすなど勝手なことはせずに、演出家の言うとおりにしろと言うのだが、青年は聞く耳を持たずに時に巧妙に反論する。そして「演技することと成り切ることは違う」とも言うが、この言葉が本作の言いたいところだ。俳優は演技するものであって、成り切ってはならない。ところが役にすっかりはまり込まねばいい演技とは見られないというアンヴィヴァレントな立場にある。そのことに苦しむのはどの俳優もだろう。それでかどうか、辻まことは俳優を評価しなかった。どんな役もこなせることは自分がないことと同義だ。そういう人間に辻は関心がなかったとして筆者には理解出来る。先日40少し前の日本の女優が精神的に参って休業宣言をした。交際している相手が結婚してくれないとか、ネットで書かれていたが、40歳手前で結婚出来ないために仕事に差し障りが出るほどの才能であればたいしたことはない。ネットでは美人の彼女であるので、もっといい相手が見つかるとの意見があるが、筆者は年齢のせいもあるのか、女優のどこがいいのかわからない。顔がいいだけの女は安っぽい。内面から輝くもっといい女はいっぱいいる。話を戻すと、本作に登場する演出家はせっかくの優れた才能を持つ青年であるのに、勝手な振る舞いをすることに役を外してカルガリで公演をする。すると青年は母親同伴で会場を訪れ、客席から主役と同じ台詞を大声で発し、周囲の客から疎まれる。いわゆる空気の読めない男で、発達障害と診断されるだろう。彼がそうなったのは、彼自身密に感じているように母親のせいだ。本作では母親は毒気がたっぷりなように描かれ、殺されても仕方がないように思わせる。そこが本作の演出としてはかなり安っぽいが、そのように露骨ないし過剰に母親を描かない限り、本作を見る人を曖昧な気持ちにさせるとヘルツォークは危ぶんだのだろう。つまり紋切り型で描き、主役の男性が母親を殺すことに無理がないように仕組む。子の母と息子の関係は相互依存で説明出来る。母は息子のためと信じて何ひとつ不自由のない生活を与えるが、そのことで息子は自立出来ず、どうして金を得るかがわからない。ただし、息子は引きこもりながらも自分の不甲斐なさを自覚しているのだろう。それで最初はピアノ、次はドラムと音楽に関心を示しながら、やがて演劇に目覚め、演出家に認められるが、自分勝手なあまり、集団の中に溶け込めない。そこで根気よく恋人の女性が導けばよかったが、青年の母親は彼女を表向き歓迎しながら、ふたりに干渉する。
恋人の女性は男のどこに魅せられたかと疑問を抱く人はいるだろうが、男は素直で、また演劇で才能を見せているので多少の変なところには目をつぶったのだろう。そういう関係は珍しくなく、そして結婚して夫から暴力を振るわれ、離婚するケースがある。俳優は役になり切って演じることを求められるが、「成り切る」ことには自己の客観視が欠かせない。ところが、客観が少しでも入れば成り切るとは言わないという意見があり、ギリシア神話の母殺しの物語を演じるとして、その主役に成り切って実際に母を殺すことになる。母を殺す衝動を抑えながら役を演じるところに迫真性が生まれ、またそれを完璧にこなすのが名優だが、精神が狂っている、あるいは育て方からそうされてしまったと内心考える青年は、脚本の内容そのものを自分の境遇に置き換え、脚本どおりに大きな刃物で母親を切り殺す。そのことで彼は見事に役を演じ切ったと確信し、また長年の母親への恨みも晴らしたのだろう。共依存の行く果ての一例だが、本作が描く俳優志望の男性は形を変えてアメリカでも日本でも、また世界中で増えているのだろう。引きこもりから演劇に目覚めることは世間から好意的に見られるだろうが、本作の主人公は自分以外の存在に成り得る俳優に生き甲斐を見出しながら、劇の世界と現実を混同した。あるいははっきりと識別しながら、真に演じるためには役柄の行為を現実に投影する強迫観念を抱いたのだろう。そこに俳優の危うい立場がある。ヘルツォークは多くの俳優に接しながら、彼らの内面を想像したのだろう。その思いは『アクト・オブ・キリング』でひとつの極例を見出し、どこからどこまでが演技であるかを問うた。本作の主人公が母を殺した後、刑務所で自己の行為をどのように見定めるか。『アクト……』のプレマンのように開き直るか、あるいは少しは殺された者の気持ちになるか、それはわからないが、ひとつはっきりとしていることは、演劇俳優のプロにはなれなかったことだ。富士正晴の『贋・久坂葉子伝』は可能な限り、若くして死んだ久坂の現実をたどりながら想像を交えた小説だが、冒頭近くに久坂が関係していた演劇集団の男性たちが弔問に訪れ、おいおいと悲しむ場面がある。富士はその様子を目撃しながら、彼らの演劇を大学のクラブ程度のものと別の人物に語らせる。自己表現に関心も才能もあった久坂が、演劇にも手を染めていたことは不思議ではないが、富士とすれば文学こそが最高の芸術で、久坂のその才能を後世に伝えるために尽力した。『贋・久坂葉子伝』は久坂が富士の寝床に入って来て性交する夢を富士が見た場面から始まり、そのこともあって富士は久坂の情夫と噂されもしたが、律儀な富士を久坂が出会った人物では最も信頼し、その久坂の思いに富士が文学で応えたことは大いなるロマンだ。そういうことがわからない無粋な人に富士の思いはわからない。
本作に戻ると、本作の半ばで演出家はギリシア神話の母殺しについて、タンタロスを持ち出し、その肉親殺しが後のアトレウスに続くことを主人公たちに解く。その辺りの場面はギリシア神話に詳らかでない者には退屈だが、ヘルツォークは最低限の常識に留めつつ、演出家にギリシア神話における肉親殺しの連鎖を言わせる。そしてトロイア戦争時にアガメムノンの妻が情夫を作って彼にアガメムノンを殺させた結果、息子オレステスが母を殺すことを主人公が知った途端、人が変わったように彼は母を殺すために叔父に古い刀剣を借りに行く。演出家はその刀はギリシア時代の形ではなく、また彼が着るポンチョもふさわしくないと非難するが、青年は無視する。叔父は駝鳥をたくさん飼っていて、主人公は演出家とともに叔父を訪れた帰り、車の中で旧約聖書に駝鳥の話が出て来ることを言う。筆者にはその場面がどういう意味を持つのか理解出来ないが、本作では鳥が意味を持っていて、青年は母親を殺すまでは鶏を殺したことがあるだけと言い、また彼はフラミンゴが好きで、その二羽が映画では効果的に使われる。青年と母親はサンディエゴに住むが、南はメキシコのティファナに訪れる場面もあって、本作は熱帯特有の空気が見物だ。それは熱帯植物やフラミンゴの派手な色が代表し、そのさらに強烈なものが『アクト……』では大氾濫する。だが、アメリカの自立出来ない一青年の母親殺しは、ギリシア神話と同じく、母親の不義を責めたものかどうかは明らかにされず、大義がない分『アクト……』よりも不気味なところがある。世界があまりに小さな青年は、母を殺さねば完全な自立が出来ないと思い詰めたのだろう。経済的に恵まれていたことの弊害と言ってよい。筆者は母親から褒められたことがなく、また経済的にあまりにも恵まれず、依存する対象は作品を通じて思い込める作者しかいなかった。それが今に続いているが、「こーちゃんにお父さんがいて、経済的に豊かに育っていれば、今頃どんな大物になったのかと思う」などと周囲から残念そうに言われると、現在の自分が否定されている気になるが、自分は自分で精いっぱいやって来たし、死ぬまでそれを続けるしかない。それに、自分ほどの幸運者はいないとも思っている。それは作品で出会う才能を数多く知っているからだ。狂気は必ずどこかに向く。それを作品に昇華しようとする人は常に無数にいるが、「演じる」と「成り切る」の間の狭い道をどちらにも落ちずにひとりで歩いて行くことは、仏教の「二河白道」のようなものかもしれず、陥穽はあってもなかなか完成はし難い。書き忘れたが本作はデイヴィッド・リンチ製作で、筆者は彼の作品に詳しくないが、現在のアメリカ社会の暗部を描くことに定評があるのだろう。ネットが狂気の新たな捌け口を増やし、多くの人々がそれに巻き込まれ、翻弄されている。大多数の人にとってネットはとても狭い世界だ。
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