「
軽々とカルガリに飛ぶカンガルー 勘が鋭く 考え浅く」、「学なきが 最も嫌う知識人 理屈は不要 脅せば黙る」、「ならず者 人にならずに 獣以下 のけもの自覚 群れて跋扈す」、「バッカスの 跋扈の後に アポロンの ポロンと鳴らす 竪琴寂し」
今日取り上げる映画は1年ほど前に見た。ヘルツォークの映画はほかにも見ていないものがあり、いずれ中古のDVDを買うが、ファスビンダーの映画と同じく、手元にDVDがあってもすぐに見ないことが多い。今日の作品は見てすぐに感想を書く気になれなかった。ずっと気にしながら、今朝思い切って切手見直したが、最初に見た時と思いは変わらず、また考えはほとんどまとまらないが、少しは書いておこうと思う。考えがまとまらないのは、あまりの惨さに言葉がないからで、また自分が置かれる現実と比較するからだ。本作は2012年、デンマーク、ノルウェー、イギリス合作のキュメンタリーだが、1965年から1年足らずの間にインドネシアで起きた100万、また250万人とも言われる組合員や小作農、知識人、華僑などの共産主義者が虐殺された事件を扱い、殺人物たち殺人の再現の様子と現在の生活ぶりを紹介する二重構造になっている。しかも殺人者たちはアメリカ映画の影響を大きく受け、本作の製作に当たって自分たちが俳優となって演技する場面を含む点でも二重構造が見られる。熱帯のアジアを舞台にした狂気を扱う点でヘルツオークらしい仕上がっているが、画面の彩度を高め、原色の氾濫を意図した色彩効果は毒気を大いに発散し、大量殺戮が自然の摂理のようにも思える、あるいはそう思わない限り、正視出来ない現実を突きつける。監督ヘルツォークではなく、彼を敬愛するジョシュア・オッペンハイマーで、本作で姿は見せないまでも主役たちへのインタヴュアーとして登場する。ヘルツォークは製作の総指揮として、エロール・モリスの次、アンドレ・シンガーの前にクレジットされているが、最初にこの映画の主題である大規模に共産主義者が殺された事件に気づいたのはヘルツォークのような気がする。本作で描かれるようにオッペンハイマーは本作の主役たちと個人的なつながりがあり、信頼されてもいたようで、その経緯については本作からはわからないが、一方のヘルツォークはインドネシアの人々に直接係わらず、オッペンハイマーの仕事を陰で見守る役目であったと想像される。またこれは撮影を通して判明したことだろうが、本作の主役たちの殺人方法はアメリカ映画で学んだもので、娯楽映画がどのように個人の考え方に影響を与えるかというひとつの例示として本作はヘルツォークの関心に結びついたはずで、そこにはネット社会で肥大化した仮想現実と実際の生活との区別がつきにくくなったことの半世紀前の事例を紹介出来るという野心のようなものもあったろう。
60年代の大量殺人はカンボジアにあったが、インドネシアのそれは日本では当時紹介されなかったのではないか。軍部を西側諸国が支援したからだ。政権を握った軍部が反対者を排除することは今のミャンマーで起こっているが、外国人ジャーナリストたちが逮捕や強制帰国されれば実情はわからなくなる。ネットで個人が現状報告出来るが、政府がネット制限するとそれも無理だ。本作で描かれる大量殺人は半世紀前のことで、時効と言ってよく、また殺人を犯した者たちは安定した生活を営んで懺悔の気はさらさないが、被害者の観点でまとめたもう1本の映画をオッペンハイマーは作った。本作は加害者が主役で、殺された人たちの子孫はひとりだけ登場し、彼は加害者が再現する殺人の様子の撮影に招かれ、殺された人の側を演じる際に鼻水を垂らしながら恐怖におののく。それには悔しさが混じるが、今なお圧倒的に力を持つ加害者の前にあって抵抗することは夢にも考えられない。そういう社会が現在もインドネシアに続いていることを本作で知り、筆者はインドネシアには絶対に旅行したくないと思うが、半世紀前の大量殺人以降、それなりに安定した社会を築き、表向きは旅行者には平和そのものの国と思えるだろう。ただしその平和は、思想が異なる者たちを暴力で絶滅させてのもので、一部の者に表現の自由があるだけと言える。その一部とは軍政権とその手下のいわばやくざだ。前者は大富豪で、後者は庶民を脅すことで金を巻き上げ、時には地方の政治家になって贅沢な暮らしをしている。ヨーロッパ人が製作した本作はそういう国家を未成熟であると非難しているかと言えば、そういう部分はあるだろうが、いつまたヨーロッパでも思想の対立から大量虐殺が起こらないとも限らない。マレーシアだったか、子どもの出生率が日本の5倍と何かで読んだことがある。他の東南アジアの国も似たようなもので、日本と違って国民の平均年齢はかなり若い。そういう国では1年で百万人くらい死んでも労働力の深刻な減少にはならないだろう。そう考えると、主義主張の異なる連中を為政者たちが一斉に殺して国民の思いを表向きは統一させようとして不思議ではない。平和を求めるあまり、粛清は重要との考えだ。ただし、人を簡単に殺せるだろうか。誰でも人を殺めるのは嫌で、そういう役割を誰かにさせる。そこで利用されるのが無学で暴力的な連中だ。彼らは為政者に忖度する代わりに楽な生活の糧を手に入れる。この構図はどの国にもある。日本もインドネシアほどではないにしろ、思想の違う者を堂々と殺すことは戦前からいくらでも事例があり、TV時代になってもそれは言える。ただし日本ではインドネシアやカンボジアの百万人単位の粛清は起こらない。それはヨーロッパ並みに国が成熟しているせいと言うよりも、共産主義に力がないからだ。また日本のそれはほとんど名前だけのことだ。
本作の主役はふたりの男性で、どちらもプレマンと呼ばれるやくざだ。プレマンはフリー・マンのことで、共産主義とは反対の自由な男であるのはいいが、勝手に振る舞う意味と言ってよく、また彼らはどの国でもいつの時代でも同類がいることを知っている。その意味で学がないと自称する割りには現実を知っている。60年代に彼らは地元の映画館のたむろし、ダフ屋をしていたが、共産主義者たちがアメリカ映画の上映を少なくしようとしたため、生活の資を稼ぐ手立てに困るようになった。またギャング映画で知った殺人の方法を共産主義者を殺すために活用したが、もっと残虐かつ効率的に行なった。主役ふたりのうち、ヘルマン・コトという痩せた老人は千人ほどの共産主義者を殺したと言うが、正確な数はわからないだろう。彼が殺した千人が平均と仮定すれば、インドネシア全土で同じような人物が千人いた計算になるが、それを想像するだけで恐ろしい。もうひとり主役はかなり太ったアンワル・ワンゴという男で、女装趣味があり、またどこかに憎めなさも漂う。彼が地元ジャカルタの議員選挙に立候補する様子が本作で紹介されるが、そこにインドネシアの国民の政治意識が垣間見える。より多くの賄賂を提供してくれる立候補者に投票するという意識が浸透していて、金のない、そして弁舌がまるで駄目のワンゴは落選する。その後ワンゴが独白するのは、金のある者ほど当選する現実で、また当選すればいくらでも市民を脅して金を巻き上げることが出来る現実だ。その構図は日本と大差ないだろう。コトやワンゴは地元のやくざないしチンピラで、大物は国政に参加し、また彼らは殺せとは直接には言わず、瞬きひとつでコトやワンゴに人殺しをさせる。コトやワンゴは地元の議員になることもかなわないのであるから、国会議員になれるはずがないが、議員たちはプレマンを重宝し、汚れた仕事をさせる。それを担うのは300万人いるとされるパンチャシラ青年団で、コトやワンゴもそこに加入しているが、パンチャシラの制服は赤地に黒の縦縞模様の派手なシャツで、それが本作では色彩的に印象深いものとなっている。本作の後半、パンチャシラは町で集めた女性や子どもたちのエキストラを使って、かつての強奪や凌辱、村の焼き払いを再現するが、ジョシュア監督から自分たちの行なった共産主義者殺戮という歴史的事実を記録し、また正当化するためで、自分たちは悪いことをしたという反省は微塵もない。それどころか、本作ではジョシュアの脚本によってコトとワンゴが若い女性数人をしたがえて大きな滝の前で、映画『野生のエルザ』の主題歌でジョン・バリーの「ボーン・フリー」をBGMに恍惚に舞い、しかも共産主義者から「何百回も殺していただいて感謝します」という言葉を受けながら金メダルを首にかけてもらう場面がある。コトが「ボーン・フリー」を好むのは、「フリー・マン」を自覚するからだ。
コトとワンゴはかつての自分たちの殺人を映画化するに当たり、長年音信不通であった仲間を遠方から呼び寄せる。その中にはあまり過去をほじくり返されたくない者もいるが、コトやワンゴ以上に弁が立ち、学もあるような者もいる。また彼らプレマンはみな幸福な家族を持ち、孫もいるが、本作を見て感じるのは、女は生活をともにする男がどれほど残虐なことをした経験があっても自分に優しければそれでよいという弱肉強食の動物的思考を持っていることだ。それにプレマンひとりが千人を殺したとしても、それは当時の政府にとっての正義であって、心痛むことではない。プレマンが殺した者に知識人がいたのは、カンボジアのポルポト政権がやったことと同じで、学のない者は学を誇示する者を呪詛する。学のある者が中心となって国を動かさなくても大多数の人々は何ら困らず、たとえば14歳の女性を次々に犯して天国気分を味わうプレマンないしパンチャシラ青年団が、陰口を叩かれながらも暮らしに困らない状態が保証されている。本作に登場するプレマン、パンチャシラ、それにどの政治家も、俳優ではまず無理なほどの迫力と言えばいいか、顔つきに醜さが露わで、無学をこれほどよく示す例はないと思えるが、学なき者、学を不要と思う者はいつの時代、どの国でも多数派で、彼らの望みどおりの社会が現出している。先の話を繰り返すと、コトやワンゴ、彼らの同輩は家族を持ち、その家族も共産主義を蔑視するだろう。そして場合によっては殺人に協力するかもしれない。ところが女や子どもは表向き普通の柔和な人と変わらない。そうであれば、共産主義者が撲殺され、針金で首を締められ、あるいは刃物で首を切り落とされることをかわいそうだとは思わないのか。共産主義者にも両親がれば子どももいる。虐殺から逃れた子孫がプレマンを恨み続けるという想像力がプレマンやその家族にないとすればよほど愚鈍だ。もっと言えば人間ではない。ところがヒトラーのナチスもそうであったように、大量虐殺者たちはごく普通の幸福な家庭生活を営み、それはプレマンにも言える。そして女たちは殺される側よりも殺す側にいる立場を選ぶだろう。いつかインドネシアで共産主義が勝利すると、プレマンたちは一斉に殺されるか、寝返って共産主義の警察になるだろう。学のない者は「寄らば大樹の陰」の思いから、生存のため、家族のため、時に応じて正義の概念を変える。そう考えると真の悪の大物は国を動かす軍部ということになるが、彼らが唱える自由主義は自分たちが好き勝手やっても許されるという意味においてであって、国民全員の自由は眼中にない。国内の思想の違う者を阻害する意識はトランプ政権のアメリカで増したが、日本でも似たようなものだ。本作ではワンゴが街の華僑が経営する店に押しかけ、みかじめ代を徴収する場面がある。プレマンの職業はゆすりで、その子孫もまともに働かないだろう。
本作の冒頭、画面にヴォルテールの言葉が表示される。簡単に言えば人を殺すと罰せられるが、進軍ラッパが鳴り響く戦争では大量に殺しても罰せられず、むしろ英雄とされる。インドネシアでは60年代半ばに軍が政権を奪い、それからは西側諸国の協力のもと、共産主義者が100万人殺された。コトは酒を飲み、麻薬で酩酊し、そしてダンスを踊るように自分が所有する建物の屋上で次々に人を殺した。あまりに血生臭いのでアメリカのギャング映画をヒントに針金で首を締めることにしたが、死体が街の人に見つからないようにするためにドンゴロスの麻袋を使った。プレマンの間では公然の事実であったが、街の住民には隠された。共産主義者は別の地域に住んでいたので、彼らと交流のない人たちは大量殺人を表向きは知らなかっただろうが、噂を聴いていたに違いない。やくざには近づかないようにするのはどの国でも同じで、プレマンの殺人を快く思わない自由主義者は見て見ぬふりをしたであろう。ジョシュア監督が撮影に参加するために遠方から来たプレマンに、国際法に違反した行為であるので、ハーグから国際裁判にかけられるかもしれないと意見すると、プレマンは自分が有名になれる機会であるので、どうかその話を進めてほしいと開き直り、また殺人と言うのであればカインとアベルの話に遡るべきと反論する。一方、撮影を終えて満足したコトには心境の変化が訪れる。自分の家族や孫のことを考え、殺された共産主義者にもそれがあったことに思い至るのだ。そして最後の場面では多くの人を殺した屋上で吐く。凄惨な現場を忘れられないのだ。その最大は郊外に連れ出して首を切り落とした男の目だ。首を切り落とした後、切り口がゴボゴボと音を立て、生首の目がコトを見つめていたことをコトは忘れられず、それが半世紀経っても夢に出て来る。平生を装い、あるいは殺してあげたと恩着せがましく思っているが、死者の怨霊から逃れられないのだ。他の殺人に参加したプレマンがどうかはわからない。コトに良心が芽生えたのか、あるいはそれを気弱と言ってもいいが、ジョシュア監督のインタヴューに応じ、また自分たちプレマンがやったことを再現収録する過程で、初めて自分の過去を客観視出来たのかもしれない。コトは針金で首を締められる人物になってみる場面がある。そこで自分が殺した人の気持ちがわかったとジョシュアに告げるが、ジョシュアはコトの考えを否定する。なぜなら殺された人は実際に殺されることを知っていたからだ。それでもコトは殺される側の恐怖がわかったと言う。そのとおりだろう。ほんの少し想像力を働かせると相手の気持ちになることが出来る。人間にはその能力がある。それは学の有無に関係ないだろう。本作では描かれなかったが、コトが自分の手を汚さず、捕らえた共産主義者に別の共産主義者を殺させていなかったのかどうか。
日本でそういう事件があった。ある殺人犯は自分で殺さずに、捕らえた数人を順に殺し合いさせた。つまりAがBを殺し、次にAはCに殺され、CはDに殺される。そんな残酷なことをプレマンたちがしなかったとは言い切れない。千人も殺せば殺人は遊びになっていた。殺すのが楽しかったとコトは回想したが、実際そういう気分でなければ千人も殺せず、また千人殺せば1万でも10万でも平気だろう。戦争ではそれが讃えられる。60年代半ばのインドネシアは内乱が生じ、思想の異なる者を殺すことは暗に奨励された。そして殺人者の生活は保障され、殺された家族は息を潜めて静かに社会の片隅で生きて行くしかなかった。戦後にアメリカ文化の洗礼を受けた点で日本はインドネシアと同じだ。アメリカ映画歓迎は今に続いている。日本のアニメ文化もディズニーを見習ったもので、日活のやくざ映画はアメリカのギャング映画の翻案だ。これは以前何かで読んだが、日本の建築に使うコンクリートの型枠の木材はインドネシアの森林を切り開いて得たものと言う。その型枠は使い捨てで、日本では人口減少の途上にあるのに建築は増加中だ。インドネシアのジャングルが丸裸になりつつある現在、地球の環境悪化の問題が深刻化しているが、日本がそれに加担している。インドネシアの共産主義者を殲滅させたのはアメリカや日本、ヨーロッパの自由主義国家で、ヘルツォークは本当はそこまで考えているだろう。とはいえ、自由主義のヘルツォークはプレマンをどこまで責められるか。現在も世界には共産主義と自由主義が対立している。そして共産主義社会では決して誰もが平等ではないことを知っている。中国では共産党員が幅を利かせているし、北朝鮮でもそうだ。そして思想に著しく反する者は西側諸国が知らない間に命を消されているだろう。本作の背後に解決不可能な問題がある。コトが懺悔するかのように殺人現場で吐く場面は、筆者はメロドラマ風で感心しない。千人も易々と笑いながら殺した男が亡霊に祟られるというのは現実的ではないが、コトはそれほどの小心者であったゆえに政治家になれず、せいぜい街中のやくざの親分に留まった。そういうやくざに支えられる政治、国家には血も涙も後悔も懺悔もないのが実情のはずで、社会は猛獣が住むジャングルと同じだ。人を平気で殺してでも優雅な暮らしをしたいと望む人間が圧倒的に多い。もちろんそのことを誰もが表向きは否定するが、そういう人に限って平気で人殺しが出来るだろう。殺されるより殺すほうが断然よく、生きていればまた落ち着いた時代が来る。プレマンはそう考えたに違いない。実際プレマンはそのようにして恵まれた人生を送っている。正義は立場によって変わる。人を殺さないまでもネットで暴言を書き込み、相手を自殺に追い込むプレマンのような無学がいる。そいつにすれば自分が正義と言いたいのだろう。狂信者が目立つ世の中だ。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する