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●『奥田元宋回顧展-小由女とともに-』
先月の24日に京都高島屋で見た。当日は京都国立近代美術館でエルンスト・バルラハ展も見たが、これは後日書く。



●『奥田元宋回顧展-小由女とともに-』_d0053294_16293889.jpg筆者は出かける時は展覧会目的であることが多いので、このブログもその内容が中心になる。設けているカテゴリーの中では投稿回数が最も多くて3分の1を占めている。あちこちのブログを見ていると、年間1000の展覧会を訪れてその感想を書いているという人がいた。これは毎日3つほど見る必要があって、画廊での個展、つまり無料で入れるものを多く含むはずだ。そうなれば1000は難しくはない。それにその人は感想を数行ほどしか書いていない。それでは1000を見ると豪語してもあまり意味はないと思うが、ま、いろんな主張の方法があってよい。筆者はブログを始めて丸1年となる5月21日までに、ここで合計いくつの展覧会を採り上げることになるかわからないが、仮に140として、毎回ほぼ5000字を書いているので、70万字、つまり原稿1800枚程度に相当する。これは厚い本に匹敵する。他人事のように言えば、まことに御苦労さんな話で、同じ暇潰しでももっと有意義なことに時間を費やすべきか。さて、もう1か月ほども前に見た展覧会を今頃書くのは、ある話題について触れるか触れないかずっと迷っていたからだだが、書かないことにした。で、話を進めると、初めて見た奥田元宋展は5、6年前だろうか、同じく京都の高島屋での「銀閣寺襖絵完成記念展」だ。去年だったか、相国寺主催の金閣・銀閣寺展にもこの襖絵の一部が会場の最後に展示された。この襖絵は奈良の唐招提寺に東山魁夷が描いた襖絵を想起させる。だが、晩年の元宋の独特の赤色を主体にした紅葉の題材は、同寺に描いた魁夷の襖絵にはないもので、元宋と魁夷とでは訴えて来るものの差は大きい。魁夷はどこか童話的と言えばよいか、女性が好みそうな落ち着いた優しさがあるが、元宋は同じく夢幻的な童話の雰囲気が根本にあっても、もっとごつごつとした男っぽさが特徴的だ。これは名前の響きも影響しているかもしれない。描画技術の点ではよく似ているが、魁夷の方がより丁寧で破綻を嫌うところが見られる。元宋の技術が下手というのではないが、絵具を直接パレットから拾って自在に描いて行く油彩画に通ずる趣があって、そのことは初期の風景画を見てもよくわかる。これを単に両者の性質の差と見ることも出来るが、魁夷よりさらに時代が進んだ位置に元宋がいることを感じさせる。ちなみに魁夷は元宋より4歳年長で1908年生まれだ。
 銀閣寺に描かれた襖絵は実際に寺で見てはいないので何とも言えないが、百貨店の展覧会場で見た限りにおいては絵に開放感が感じられず、あまり感心しなかった。昔の襖絵のように、余白を大いに残して必要なものだけを描くというのではなく、魁夷と同じように画面の隅々まで絵具でびっしりと埋め尽くすのであるから、襖全体が本物の風景をそのまま切り取って来て嵌め込んだように見える。これならば、写真を加工してデジタル・プリントしても同じような効果が出るのではないかと思わせる。魁夷や元宋はカラー写真が一般化した頃に壮年期を迎えた画家であるから、カラー写真の影響は大きいのではないだろうか。カラー写真があたりまえに存在する今の画家となれば、絵は写真とはどう違うものであるかをもっと直観的にわかって、写真の表現とうまく対峙した作品を描くのではないだろうか。これは従来から見られる写真よりさらに緻密に描くフォト・リアリズムや、写真では不可能な抽象という表現からさらに進んだもっと別の絵画の方法であって、日本画でそれがどう可能かはわからないが、筆者が期待するのはかつての日本画には当然のようにあった余白を利用して面白さを見せる絵だ。だが、そうではないもっと別な方法もあるだろうし、たとえば元宋がそのような別な絵の可能性に足を踏み入れていたと見ることも出来る。とはいえ銀閣寺の襖絵に代表されるような元宋の晩年の大画面の作品は、みなとても単調で退屈感に満ちている。作品ごとの差はあってもごくわずかで、ほとんどあるひとつのことを少しずつ変化させて表現し続けたとしか思えない。作家として硬化が見られるこの点を、画家にとって純粋で大切なひとつのことに収斂して行ったと言い換えることも出来るが、それでもそれらの晩年の大画面を見ていると、画家として輝かしいと言うよりも痛々しさがある。小品でもたっぷりとふくよかな様子を見せた小倉遊亀のようなあり方の方が温かくて楽しい。もっとも、元宋は元宋であって、そのような家の中での安定といったものを拒否し、ひたすら外気に身を晒して厳しい自然の実相を、一見写実的でありながら実際は幻想的に描くことに没入したと見れば、大画面のどこか空虚な趣もまた違って見えて来るだろう。それにしても、昔の余白の多い日本画ばかりがいいとは言わないにしても、日本の美の絵画表現の特質がここまで変わってしまうことには少なからず拒否感を覚える。絵の余白は単なる余白ではなく、そこから先のはみ出た空間まで感じさせるもので、画面全体をどの位置においても等しく絵具で埋め尽くせば、絵そのもののモノとしての雄大さは出るだろうが、周りの環境と調和がしにくく、絵を見る者は絵の中の世界にのみ固定されるようで息苦しくなる。しかし、あらゆる可能性が追求されて今の日本画の位置もあるわけで、絵具で全面を等しく埋めてしまう方法が現代の襖絵に適用されているのもそれなりに必然性があるからであろう。
 元宋は1912年に広島の三次市に生まれ、2003(平成15)年2月に90歳で逝った。夫人は人形作家の小由女(さゆめ)だ。今回は元宋没後初の本格的な回顧展で元宋35点、小由女の人形13点が展示された。これらは三次市に寄贈されたもので、今年4月に同市に開館する夫妻の美術館に展示される。美術館は鉄筋コンクリート3階建てで面積は4900平米だ。東山魁夷や平山郁夫の美術館もさほど遠くないところにあるから、また旅行会社がこれらの日本画家の美術館を巡る旅行商品を企画するだろう。元宋は1973年に芸術員会員、81年に文化功労者、84年に文化勲章を得た。小由女は1936(昭和11)年に堺市に生まれ、何歳の頃か知らないが広島に移って地元の高校を卒業後、人形作家を目指して上京、72年に改組日展で特選受賞、76年に元宋と結婚した。98年には芸術員会員になっているから、夫婦揃って作家としてはのぼり詰めた。この点は平山郁夫夫妻とは違う。平山夫人は最初は絵を描いていたが、ひとつ屋根にふたりの画家は不要という前田青邨の言葉に従って筆を折った。だが、小由女は元宋の絵の制作に絵具を溶く手伝いをするなど夫の仕事を優先したので、あまり問題も生じなかったのかもしれない。一方は絵で一方が立体の造形であることもよかったのかもしれない。一見したところ、元宋と小由女の作品には共通点が何もないように思えるが、元宋の昭和30年頃までの作品はたくさんの色を用いて水平線を強調した画面の構成で、そのどこか印象派の温かい絵画を思わせる人生の喜びに満ちた味わいからは、小由女のきわめて文様装飾的で童話的な人形は遠くない。元宋の絵画は小由女と結婚する以前から少しずつ厳しい雰囲気のものに変わって行ったが、それが決定的なものになるのはやはり結婚直後あたりからだ。今回の数十点を見ただけでの印象だが、元宋の最も面白いと思えるのは初期から昭和の終わりまでの作品で、75歳以降の平成時代の作品は前述したように枯れ過ぎて変化に乏しい。
 元宋は風景画家として認識されているが、本人がそう意識し始めたのは昭和20年代からだ。今回出品された昭和13年の「盲女と花」という絹本に描かれた縦長の作品は、人物画の技量をよく伝えるものとしてとても面白かった。これは谷崎潤一郎の『春琴抄』から構想を膨らませたもので、知人から琴の先生を紹介してもらった。描かれた女性は黒帯に桜や銀杏、すすき、松の文様を散らしたキモノを着ており、背後には3本の花をつけた梅の木がある。これは青梅梅林で写生したとのことだが、幹の表現など、文様的な扱いには手慣れたものがうかがえ、この作品のみでも元宋のいわゆる古い時代の日本画を描く能力が優れたものであったことがよくわかる。1949(昭和24)年に日展で特選を受賞するが、その翌年児玉希望と伊東深水の門下生が結集して「日月社」という研究団体が組織され、元宋は昭和36年の解散時まで加わった。この時期に前述した明るい色彩による田園や海岸の横長の風景画を描いたが、「たそがれ近く」(1951)、「夕照」(同)、「花開く南房」(1954)、「燈台の見える風景」(1955)、「立夏」(同)などがそれに相当し、温暖な地域で写生を行なったことが作用しているせいか、見ていて目が楽しい。そして、それらは余白の白さを生かした「盲女と花」からは遠く隔たった作風で、元宋が独自のものを見出して行く様子がよく伝わる。また、風景画という面では晩年の赤と黒と金を主体にした山岳風景画には真っ直ぐつながってもいる。この昭和36年までの絵画は、説明パネルには「洋画と南画を融合させた表現の展開が見られる」とあった。これは全くそのとおりで、たとえば昭和35年の甲州昇仙峡を描いた「峭」が好例だ。その絵具の質感を強調したモノクローム調の岩肌は蕪村の有名な「峨嵋露頂図」を思い出させる。「陸中」(1964)も同様に黒い空と海に岩の岸壁を描き、後年の峻厳な風景への好みを予告している。「尾瀬」(1967)は画面の下半分が群青色の水面で、白い水芭蕉がさびしく5つほど目立たなく描かれる。この点は尾瀬をテーマにしながらかなり意外で、元宋の主眼が身近な花より遠い山にあることを知らせる。上半分は水色の空で、山が水面に上下反転してシンメトリカルに映っているところを描く。そして実景の山の頂上部はうっすらとピンク色が射しているが、ここには多色を使用した1950年代の名残が見られる一方、後年の人気のない冷徹な風景の印象が濃厚に漂っていて、活動の分岐点に位置する作品に思える。「焼嶽」(1968)は「尾瀬」の傾向を引き継いで、画面下半分は水面で山を映している。山は黄緑で頂上が黄褐色、空は青、右手に枯れ木が1本立つ。ここには童画風の印象はすでにない。
 「霧雨」(1971)は画面上半部が灰色から濃い灰色で、紅葉を描く点で後の赤い風景の前哨的な作品だ。「妙義」(1973)にも紅葉の山を題材にする好みが見える。だがまだ空が明るい白緑で、写生に近いと言える。「秋嶽紅樹」(1975)はまた昇仙峡での写生をもとにした象徴表現主義的な作品で、空は黒になり、紅葉が激しいタッチで描かれる。この作品はその後の赤と黒を基調とする大風景画の起点になった。だが、紅葉の風景ばかりではなく、翌年の「松島暮色」は雪景色を描き、右手に夕日を添える。今回は出品されなかったが、雪景色は1969年にも描いており、それも紅葉風景と同じように厳しい孤独感を伝える。「秋嶽晩照」(1976)は「秋嶽紅樹」とよく似ているが、より整理されて中央左寄りに滝が見える。「炎王図」(1978)は元宋が赤を好むことをよく説明する面白い作品で、これは東寺の不動明王の写生をもとにしている。人物画とは言えないが、赤と黒の対照で激しさを表現した人の形をした像を描くところに、元宋の総まとめとしての色彩が赤、黒、そして金の交響であったことを再確認させる。このことは「嵬(本当は山へんに鬼)」(1979)にも通じて行く。真っ黒な空に金色の三日月があり、紅葉の山岳を描いているが、山と言われなければ炎に見えるだろう。写生がもとにあるとしても、ほとんど脳裏に浮かぶ映像を即興で描いたような絵だ。安易な作画方法かもしれないが、ついにそういう自在な境地に至ったとも言い換えられる。この作品の後、80年代半ば、つまり昭和60年代に入ると、「紅嶺」と「白璋」という、まるで火星の風景を描いたかのような縦3メートル、横10メートルほどの巨大な作品や、「春耀」、「綵苑」といった6曲1双の屏風が描かれる。これらは銀閣寺の襖絵に連なる仕事で、総決算の時代に入ったことを示す。トレードマークになった赤と黒の対比だけではなく、「春耀」では金箔地に桜と赤い太陽を描き、春らしさをよく表現しているし、「綵苑」も秋の林にすすきを配して多彩な絵に仕上がっている。平成になってからの作品も数点あったが、さらに人き気配が失せて元宋の魂が人の拒みがちな深い自然の中に分け入ってさまよっている気配がある。若い人にはその味わいはわからないかもしれない。まだ筆者もその部類だが。
by uuuzen | 2006-03-22 16:30 | ●展覧会SOON評SO ON
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