「
綿埃 拭って開く 家計簿の 廉き物価に 驚き嘆く」、「フランスに 行きたし妻に 約束し 果たさぬままに 住まい腐乱す」、「待ってたん 待ってないよと 言い交し 今夜も共に 褥に寝入る」、「同じ夢 見るはかなわず 目覚めれば 互いに語りて 悪き夢祓う」

気づいた人がいるかどうか、昨日の冒頭のいくつかの短歌のうち、「笑んでは……終わり」の表現は、「笑んで」がENDE、すなわちドイツ語で「終わり」を意味し、「終わりが笑えればよし」との思いを込めた。その吉祥性が今日の題名の短歌につながっている。今日の2枚の写真は昨日に続いて同じ4月17日の撮影で、昨日の写真の下にわずかに写る屋根のスーパーで買い物を済ませ、JR嵯峨嵐山駅前の商店街を歩いた時に撮った。最初は西空の夕焼けに気づいて撮り、次にその空を映す店のガラスに気づき、東側の歩道にわたって2枚目を撮影した。いちおうは2枚の写真は鏡合わせになっていて、筆者と家内の関係を反映していると言えばいい歳をしてのろけを言っていることになるか。また夕焼けにふたりとも感嘆したのは事実で、お互い笑顔を見た。スーパーからの帰りの夕焼けは珍しくないが、その日は夕方になってから雲が晴れたのでなお嬉しかった。とはいえ、眩しい夕焼けはほんの数分で、その後は一気に暗くなる。人生の最晩年を夕焼けにたとえることがあるが、高齢になれば誰でも輝かしい夕焼けのような一時期があるかと言えば、さてどうか。それは思いようでもあるが、変化のない生活をしていればめったに輝かしい特別な日はない。そして高齢になればたいてい誰しも体調不良や金欠など、生活は悪いほうに傾いても、輝かしい気持ちからは遠ざかるのではないか。それにごく短い輝かしい一時期があっても、その後はただただ日が没して行くように暗くなり、老齢はいいことが何もないというのが一般的な感覚だろう。いや、そうであるからこそ、人生のほとんど最終頁に輝かしい瞬間があれば儲けもので、その輝きによって人生全体に感謝したくもなる気がする。つまり輝きは笑みで、輝きが人生の最終段階にあってほしいが、それには若い頃からの心がまえ、生活が大きく影響するだろう。とはいえ、生涯独身の者と夫婦仲がよい者とでは思いは差がある。また後者の場合、配偶者に先立たれるとドン底に突き落とされた気になるのが普通だ。それを乗り越えた後にもそれなりの楽しみは生まれるが、それは親しき者との淡い交わりで充分であろう。そうした話し相手はよほどの偏屈や自惚れ屋でない限り、ひょんなことから得られるはずで、またそう思って心を開いておかねば出会いや笑みは訪れない。それはさておき、筆者に夕焼けの輝きが訪れるかどうかだが、新たに始めたいこともあって気分的には着々とその準備をしている。もちろん自分で作品と呼べるものをどれだけ作り得るかに関心がある。「アホなこと 言うて楽しき 人生は 皆それぞれに 輝きがあり」

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