「
捨てはせぬ 造花桜は 五年持つ」、「花期過ぎて 造花桜は 満開や」、「雨に濡れ 人造桜 なお冴えて」、「客引きの 飾り造花の 雨宿り」、「桜散り 雨に煙るや 渡月橋」、「鷺を真似 足を濡らして 詐欺師行く」
今日は終日降ったり止んだりの雨で外出しなかった。「風風の湯」はガラ空きのはずだが、嵯峨のFさんは利用しなかっただろう。自宅から歩いて15分かかるとのことで、その程度なら運動のためもあって雨で自転車が使えなければ、歩けばいいと思うのに、面倒臭いようだ。Fさんで思い出した。先月自転車で5分ほどのところにある喫茶店で1か月コーヒー飲み放題が3000円と知り、早速その店を利用することになったと言う。奥さんがいないので食事の用意が面倒で、またコーヒー好きなので、その喫茶店の食事メニューを日替わりで一品ずつ食べることにしたらしい。コーヒーは自宅では毎日5,6杯飲むそうだが、その喫茶店でお代わりはせず、食事を注文する際にコーヒーを1杯だけ飲み、雨の日は除いて3週間ほどで14,5回行ったと言う。ところがもう行かないそうだ。食事メニューは7,8しかなく、カツカレーは1200円、オムレツが850円といったように、食事は高めだそうで、1回の利用で1000円以上使っていて、これではスーパーでおにぎりなどを買って食べるほうがいいと思うようになったらしい。コーヒーはコンビニで100円で飲める時代で、その喫茶店も1か月3000円すなわち1回当たり100円で提供し、食事で儲けようとしているのだ。1日に数回コーヒーを飲みに行けばいいようなものだが、Fさんは喫茶店でくつろぐことが嫌いで、コーヒーだけなら10分で飲んで店を出ると言う。店主以外にアルバイトはふたりいて、その人件費からすれば客ひとり当たり1000円以上を狙うのは当然で、Fさんはその点を理解してはいるが、自宅で飲むのとほとんど味が変わらぬコーヒーでは1か月飲み放題3000円でも高いと思うようだ。一方、筆者はFさんに最近TVで紹介された嵯峨のとあるコーヒー店の話をした。地図で調べるとスーパーへの道から200メートルほど離れていて、ここ30年で筆者はその店の前を一度しか歩いておらず、評判も耳にしたことがなかったが、Fさんは「そこは老舗で嵯峨では一番おいしいな。500円の値打ちはあるで」とのことで、「昔と違ってじっくり喫茶店でコーヒーを飲む人が減ったから経営は大変やろな」と続けた。実際その店は自己所有かつ家族経営で、2代目店主の息子ふたりのうち、ひとりは大学を途中で辞めさせて店を手伝わせていると主が語っていたところ、生き残りに必死だ。嵯峨や嵐山に観光に来る人が足を延ばすにはやや目立たないところにあるうえ、コロナ禍のために今は経営は苦しいだろう。昔は喫茶店をよく利用したものだが、時代が変わって暮らしも考えも貧しくなったのか、喫茶店から日本の変化がわかるだろう。
さて今日の最初の写真は
4月1日の投稿の続きで、最初の写真は4月17日に撮った。4月1日の投稿では3月4日と25日撮影の写真を使ったが、4月中旬になればもうすっかり葉桜になった。先月下旬か今月かかりか、写真の造花桜は全部撤去されていた。一瞬その様子を撮ろうかと思いながらやめた。それで今日は別の2枚の写真を使う。これらも先月14日の撮影で、最初の写真に写っている家内の傘を差す後ろ姿が渡月橋のたもとの近くに見える。2、3枚目の順に撮影し、2枚の写真は左右でつながる。空き時間は1秒ほどで、その間に渡月橋上の車や家内がわずかに移動しているのがわかる。この2枚は円山公園の有名な枝垂れ桜の子孫と、そのすぐ近くに近年植えられた枝垂れ桜で、2枚目が後者、3枚目が前者だ。以前書いたように、3枚目の無残に枯れた桜の写真は載せないでおこうと思ったが、今年か来年中に撤去されるはずで、枯れた状態を記録しておくのもいいかと思い直した。囲いの円形は直径が倍ほど違う。円山公園の枝垂れ桜の子孫がなぜ嵐山で根づかなかったのか、その原因をぜひとも調べてほしい。立派な石組みの囲いを施し、幹の周囲に人が立ち入れない厳重な保護をしてまでも枯れるのは、空気の汚れが最大の原因ではないか。渡月橋はバスも大型トラックも走るので、円山公園よりは空気が悪いだろう。東山で立派に育つ桜が嵐山の中ノ島公園ではさっぱりとなると、観光の面から、そして生活の面からも、何か重要なことを示唆しているのではないか。枯れて真っ黒になった幹を誰も注目はしないが、これから立派に成長するかと思っていた矢先、このような姿になるとがっかりする。人間でも同じことがあるだろう。東大を出て将来はきっと大物になると目されても、だいたいは平凡になる。芸術でも同じで、若い頃に美貌も手伝って持てはやされても、中年になると輝きを失う残念な奏者がいる。そういう才能を造花の桜にたとえるのはひどいが、案外その表現が的を射ている場合がある。芸術の才能も真に輝かしいのは人生のわずかな期間で、それは本物の桜やあるいは別のすぐに枯れてしまう花と同じようなものだ。高齢の女優がいつまでも美しいと言われるのは、顔が最大の財産であるので、本人は多大なお金を使って整形、注射その他、修復、維持に余念がないから当然のことであって、そんな時間的も経済的にも余裕のない普通の女性はみな皺も染みも増える。それが自然で、女優はみな造花だ。それのどこが真に美しいというのだろう。誰しも年齢相応に醜くなると思われがちだが、醜の側面をなるべく見ず、美しさが保たれている部分に着目すればいいではないか。でなければ、誰でも30歳になれば存在価値がない。あるいは30歳でも10代半ばから見ればもうおじさんでありおばさんだ。完璧な爺の筆者は自分の顔や姿を晒すことに抵抗があり、同世代の人と話しているのが気楽でよい。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する