「
閃きは 記憶が元に あってこそ」、「閃きは 記憶の門に 人が入り」、「閃きの 命と覚え やけになり 汚名もらいて 輝きはせず」、「ヒラメの目 睨む浮世の 閃きや」、「藪睨み 藪から棒に 寄り目かな」

昨夜の「風風の湯」で2か月ぶりに同じ自治会住民のTさんに会った。彼は50代で、桂で沖縄料理を出す居酒屋を経営している。そのことを最初に知ったのは85歳のMさんで、間もなく筆者もTさんと話すようになったが、Tさんとはめったに会えない。Tさんは沖縄出身で、店の屋号に珍しい名字を使っている。85Ⅿさんは酒好きで、半年ほど前、筆者の目の前でTさんにこう言った。「刺身は出るか」「はい、前もって言ってもらえれば何でも仕入れます」淡路島出身の85Ⅿさんは毎週百貨店の地下で鮮魚を買いに出かけ、自分でさばいて食べているので、Tさんの返事が不満であったようだが、Tさんの店に行きたいようだ。嵯峨のFさんは酒を飲まないので誘えないが、コロナが終息すると85Ⅿさんと一緒にTさんの店に行くつもりでいる。ところでTさんから、以前住んでいた大きなアパートが2、3年前に外国人観光客を当てにした宿泊施設として改装され、今は仏師のOさん宅のそばに住んでいると聞いて筆者は閃いたことがある。10数年前、筆者が自治会長をしていた時の国勢調査でそのアパートを何度も訪れ、調査票を2,30人に手わたし、その中にTさんがいた。特徴のある顔なので二度、合計で数十秒ほど顔を見ただけでも、よく覚えていたのだ。そのTさんと現在顔馴染みになって温泉で談話していることは面白い。Tさんはコロナのために今は店を閉め、やることがないので毎日愛宕山に登ったり、20キロほど走ったりしているそうだが、3,4か月前にサウナ室で話した時、いずれ沖縄に帰りたいと洩らした。Tさんの名字と同じ地名が沖縄にあって、そこが生まれ故郷とのことだが、その地名は津波に関係しているので、大昔から津波の被害を何度も受けているのだろう。一昨日辺りから筆者は「3・11」の津波映像をYouTubeで見るようになり、おそらく投稿されたものは全部確認したが、一方で心配なのは南海トラフの大地震だ。京都は大阪よりも被害が少ないとはいえ震度6強の可能性がある。話を戻すと、3,4か月前、筆者はTさんに
儀間比呂志の版画を知っているかと訊ねた。Tさんは芸術に関心があるように見えないので愚問であったが、筆者としてはTさんの店内に沖縄情緒たっぷりの儀間の版画がところどころにあってほしい。小さな店では壁面はメニューの貼紙でいっぱいになりがちだが、そういう中にやはり芸術の香りはほしい。芸術に無関心な人でも香り高い絵が飾ってあれば意識の底で気になる。それは大事なことだ。逆に言えば、ろくでもないものに普段触れ続けていると心は濁って来る。沖縄の人が誰しも儀間の作品を知っているとは限らない。あたりまえのことだ。
日本の本土であっても芸術に関心のある人は少ない。芸術はむしろ今では嘲笑語で、日本ではもっぱらアートの言葉が使われ、アイドル歌手たちがアーティストと呼ばれる。明治以前の為政者や知識人は漢詩を素養とし、揮毫を頼まれると見事な書を書くことが珍しくなかったが、戦後はその文化が壊滅し、さりとて知識人の英詩のたしなみはなく、ただただ金儲けが成功と同一視される社会を築いた。政治家が日本の芸術やその伝統に関心が少なければ、当然庶民はそれに倣う。それでいかに狡猾に見えないように金儲けするかという小賢しい連中の巣窟となっているのがYouTubeと言ってよく、下品の権化のような投稿ばかりが筆者には目につく。だが残念な連中が、「悔しければ自分のように有名になって金を儲けてみろ」ときわめて残念なことを言い、物事の辻褄はよく合っていて、そういう退屈な連中は相手にしなければよい。儀間の作品はごく小さなものでは1、2万円で買える。それでTさんの店に小さな絵でも飾る壁面があれば、筆者が入手してプレゼントしてもいいが、それにはまず店を見る必要がある。それに何よりもTさんに儀間ないし沖縄の芸術を知ってもらうことがよい。沖縄料理を提供する居酒屋は大阪大正区に多いが、筆者はそういう店に足を運んだことがなく、本土の沖縄の人が経営する店に儀間の名前がどれほど浸透しているかについてはさっぱりわからない。筆者が儀間の作品を知ったのも4年前で、その後彼の版画、特に若い女性の顔を描いた作がほしいと思いつつ、まだ入手していない。それでまずは本と思って今日取り上げる書物を入手した。「新版画風土記」は「版画風土記」の「新」で、儀間は本書以前に『版画風土記 沖縄』を出版している。これが古書で1,2万円の価格で、筆者はまだ見ていない。儀間はほかにも自作の版画をたくさん載せた本を出しているうえ、版画を用いた童話本も多い。つまり儀間の画風は多くの書物から容易にわかる。ところが、それゆえに1冊では儀間の才能はわからない。儀間は器用で、作品は芸術を厳格に意識した完成度のきわめて高い版画から、本書のように文章の挿絵、つまり幾分手を抜いたと言えばいいか、柔らかな、緩んだ画風のものまである。もちろん前者がより迫力があって芸術性が高いが、挿絵のような軽めの作にも沖縄ののんびりとした優しさがあって、そこに儀間のくつろいだ思いが感じられる。逆に言えば、前者は抵抗の沖縄を意識するあまり、棘があり、見ていて息苦しさを覚える緊張感が込められ、Tさんの居酒屋に飾るのはふさわしくないだろう。儀間はどちらの作も重視し、芸術批評の出来るような人たちの眼力にかなうような精神性の高さに応じながら、普段芸術とはあまり縁の人にも何気なく入り込む柔和な画風も保持していた。

芸術性から言えば後者は使い捨てされる運命にあるが、那覇に生まれた儀間のような、そして版画家であれば、頼るべき師はおそらく乏しく、出版に目を向けもして自分の画力で食べて行かねばならない。すなわちどのような注文でも依頼者の本意に応じる器用さを持つ必要があった。そして芸術性に乏しいような後者の、つまり本書の挿絵に、芸術性を本位とした前者の仕事が影響しないはずはなく、むしろ前者の仕事よりもより濃厚に儀間の人間性が込められているようにも感じる。芸術を強く意図することは、ある意味、鎧を身につけることだ。それを脱がねば本質は見えにくく、本書から却って儀間らしさが伝わる。儀間における前者と後者の二面性は、儀間の作品の様式に即して言えば、前者は鋭角的、後者は丸み優先で、儀間はどういう線をどのような太さ、形で描けばどのような効果を上げるかを熟知していた。また本書の挿絵は写生ないし現地を写真撮影したものを簡略化した図が多く、どれも印象に強くない。それとは別に、前者つまり儀間の芸術的作品に通じる、デフォルメが著しい、様式として獲得した表現の一部をさらに様式化したような作が混じるが、その挿絵に添える文章も儀間が担当したこともあって、絵だけで訴えようとする迫力は欠ける。とはいえ、本書の挿絵は全体に緩い印象が持ち味でもあって、月日を置いて見るとまた味わいがある。「あとがき」に本書は1987年11月から89年3月まで琉球新報に連載されたものに補筆、三編を加えたものとある。前作の『版画風土記 沖縄』は1966年の出版で、以後20数年の沖縄の変貌は凄まじかった。筆者は78年に家内と一度だけ沖縄を訪れているが、その頃はまだ66年当時とさほど変わらなかったのではないか。バブル期以降に本土の資本が投下され、那覇の国際通りも筆者が訪れた時の面影は皆目なくなった。本書の帯に巻末に寄せる文章からの抜粋として岡部伊都子による「…変りゆく沖縄自身の悲痛が、わかる、失ってはならない尊い人間性と相反するものを、まともに憤る作品が刻まれてきました。…」が書かれるが、岡部は儀間の作品を見るために68年4月に初めて沖縄を訪れている。筆者は岡部の文章をもっぱら読売新聞の連載によって昔から知っているが、岡部が沖縄にこだわるのは婚約者を沖縄戦で失ったからで、これはよく知られている。岡部の後を継ぐ女性随筆家が誰かは知らないが、いてもたぶんかなり軽いだろう。それが悪いと言うのではないが、戦争はどんどん遠のいたとはいえ、現在の日本はアメリカとの関係にしても沖縄ではむしろ深刻化していると言ってよく、儀間や岡部の憤りは忘れてはならない。だが、「憤り」と限定してしまうと、儀間や岡部が戦争の惨禍のみ主張する反戦思想に凝り固まったとの印象を持たれる。本書からわかるように、儀間の作品には生への賛歌があり、それが本領と言ってよい。

芸術の根底には「生きていてよかった」という肯定感があらねばならない。そういう思いにさせるものは世の中には無数にあるが、いつ見ても同じままにある美術作品は人間だけが作り得るものだ。そういう儀間の版画の中で筆者は沖縄の若い女性を題材にしたものを絶賛したい。沖縄の若い女性と言えば、筆者が10歳頃に大ヒット歌謡曲「川は流れる」で一気有名になった仲宗根美樹が真っ先に思い浮かぶが、彼女の当時の「濃い」笑顔をよく知る者には儀間が描く沖縄女性の顔が二重映しになる。沖縄の人つまり南洋系は目が大きいと思うが、儀間が描く沖縄女性は例外なく目尻が顔の輪郭からはみ出ている。それが不自然でないほどに沖縄の女性は目が魅力的なのだろう。筆者はそのことを子ども頃に仲宗根美樹から思った。それはさておき、儀間の作における沖縄女性はどれも少しずつ違い、どれも逞しく、美しい。もちろんそれは儀間の理想で、画家はこうあってほしいという思いを女性に託すのだが、その理想を表現するのに人の顔は最適で、単純化した単なる絵に過ぎないのに、そこに実物以上、あるいは実物の人間にはあり得ない完璧さが付与される。先日筆者は村上華岳が描く女性の顔について書いたが、儀間の描く沖縄女性はか弱さや妖艶さよりも健気さや一途さが勝り、またそれが岡部の言う「憤り」を根底に持ちながら、前向きに生きて行かねばならない人生の大原則としての鑑に思え、筆者は本土の画家では儀間以上の理想の女性を描かなかったと最近思っている。それでTさんの店にぜひ儀間の女性を画題する版画を飾ってほしいのだが、理想を言えば沖縄の女性をアルバイトに雇ってほしい。さて、本書は3部構成で、第1部では筆者が知らない沖縄各地の名所を紹介し、もちろん戦争の傷跡とバブルで変わってしまったことを主に扱う。「与儀公園」は那覇にあって、現在も挿絵の様子と同じかどうか知らないが、儀間は大きな蘇鉄の下に沖縄の近代詩人の石碑を描く。同公園で目立っているはずの本土復帰に際して国鉄から贈られた蒸気機関車は文章で言及されるのみで、挿絵と文章の双方の読み取りから儀間の思いがわかる。あえて描かないことで抗議の思いを示しているのだが、そういう読み取りを強いるところに本書の面白さと意義がある。第2部は主に沖縄の伝統芸能を扱う。その一編に「琉球紅型」があって、儀間の戦前からの画友の紅型職人を描く。その顔は写生を通じて特徴を抽出する儀間の作では代表的なものと言ってよいほどに人格をよく表現している。背後に描き添える菖蒲を染める大きな風呂敷は紅型で、染め抜かれる白くて太い糊の線を紅型どおりに表わし、版画の技法的にも面白い。儀間はこう書く。「沖縄伝統工芸にとって、継承は大事だがその上にたった創造もなければ、発展はおぼつかない。屋宜君のこの道での存在は貴重だ。」

第3部は第2部と区別しにくいが、儀間の女性像として「島の女」と題する一編がある。本の閉じしろで女性の正面顔が途切れているのが残念だが、儀間の文章も素晴らしく、今日の投稿はこの「島の女」の版画を見せることが目的だ。儀間はこう書く。「沖縄の女の本当の美しさは、純情で素朴、かつ、しんの強い「肝清(チムチュ)らさ」にある。私の版画の中の琉球美人は今日も、太陽に向かって微笑んでいる。」 儀間の版画は紅型のように原色を使っているが、版画は白黒一版で、色面は手彩色だ。その点は棟方志功の影響を受けているだろう。手彩色併用なので、厳密には儀間の版画は同じ版でも細部が違う。紅型も一版で糊を置き、その糊線を堰として顔料を彩色するが、儀間の版画は紅型にも近い。ところが紅型は衣装や風呂敷などを染めるもので、儀間のような自由な絵画表現をする作家はいないか、いても有名になっていないだろう。そこに伝統の足かせがあるが、紅型で儀間のような自由な絵画表現をしないのは、紅型に頼らずに版画に任せればいいからだ。ここで思い出したことがある。心残りになっていることだ。2年前の5月17日に筆者は染色のK先生を通じて送られて来た個展案内はがきを持って沖縄の染色作家の宇良京子さんの個展を見に行った。彼女はK先生が那覇の芸大に染色を教えていた頃の教え子で今は同大学で教える側に回っている。筆者は初対面でわずか5分ほどしか画廊にいなかったが、彼女は沖縄美人で、キモノもパネル作品にも沖縄特有のからりとした明るさがあった。技法的にK先生の影響を受けることは仕方ないとして、彼女が紅型をどう思っているかが気になった。その時筆者は
シュマイサー展を別の画廊で見るために先を急いでいて、彼女とゆっくり染色論を交える時間がなかった。そう言えばK先生とも長年そういう話をしていない。すいません。話を戻して、儀間が友人の紅型工房を覗き、本書で「継承は大事だがその上にたった創造もなければ、発展はおぼつかない」と書いた時、どのような新しい紅型を見ていたのかと思う。1枚型による染色が紅型の基本として、それを複数枚数使えば複雑な画風になることは自明の理だが、複雑になって何事もいいかとなればそうとは限らない。筆者の友禅は複雑の果てを狙ったものだが、基本は重視している。宇良さんの作は紅型からもはや遠く、染織の本場の京都の最前線の洗礼を受けたものだ。それがいいかわるいかは別として、沖縄らしさが自ずと出ているのであればひとつの正しい道だ。ただし、そういう見方も狭いかもしれない。沖縄にこだわらず、国際的であるべきという観点に立てば。そこを儀間や岡部がどう思ったかだが、おそらく自らのルーツが作品に滲み出れば、そのことがそのまま国際的になると信じていたであろう。それは正しい。あるいはそれ以外の国際性などない。
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