「
沙羅樹の 花はなけれど 桜満ち 棺の中に 涙の献花」
、「涅槃図の 釈迦のごとき 母の身に 沙羅双樹の 白花衣」
、「母の顔 一歩下がりて 撮りたるも 吾一瞥で 心に刻む」
一昨日「風風の湯」で85歳のMさんから北海道で桜が開花したことを耳にした。京都よりも1か月遅い。今年の嵐山の桜の写真は4月7日に投稿した。お釈迦さんの誕生日の1日前だが、上の妹が4月8日生まれで、これは覚えやすく、縁起もいいように思う。今日の写真は3枚とも3月25日の夕方、嵐山の中ノ島公園で撮った。今は新緑で桜の写真はふさわしくないが、中央に月を捉え、またそれなりに特別の思いがある。ちょうど1か月前の
3月28日に母が病院で亡くなったからだ。その日の投稿は短歌のみとし、今日もそのつもりでいたが、少しは書く気になった。今年の桜の写真は近日中にもう一回投稿するが、それを撮った翌日に母は逝った。話題転換。さきほど「風風の湯」に行って来た。雨が強く、緊急事態宣言が出たこともあって、また午後8時までの営業となったので、客はとても少なく、85MさんもFさんも来ていなかった。露天風呂にひとり浸かりながら中ノ島公園方向を見ると、塀のすぐ向こうに左右に立つ桜の木が若葉ばかりとなって、しかも雨天の夕暮れのため、水墨画のように見えた。一方、サウナ室の前の植え込みに桜の老木と若木があって、後者の枝の曲がり具合がとても面白く、それを屏風作品にするにはどういう構図がいいかなどと楽しくあれこれ想像しつつ、そろそろ鶏冠鶏頭の種子を蒔かねばならず、また蘇鉄も気になっていて、やりたいこと、やらねばならないことの山積に気が重くなり始めた。実際はその思いは常にあって、改めて思い出すという表現は嘘なのだが、湯の中に気分よく浸かっていると普段から思っていることの行く末をどうするべきかという気持ちになりやすい。話し相手がいなければなおさらだ。その意味で今日の「風風の湯」はさびしい反面、自省するにはよかった。去年は今時分に振袖を染め始め、年末にその仕立てが完成した。そのことを思い出せば、今も同じコロナ禍であり、何か作品を作ろうかと思う気持ちはあるが、それとは別に早く済ましてしまうべき執筆があって、その資料まとめがあまりに困難で、なかなか気持ちが乗らない。とはいえ、つい先日、何年も気になっていた資料が運よく手に入り、もうこれでいいかと思えるほどになった。筆者は勘が働くことがよくあって、長年の望みが必ずと言っていいほどかなう。それはお金があればどうにかなるものではない。運、縁としか言いようのないことで、狙いを一旦定めたことは必ずいつか現実化する。もっとも、それは有名になりたい、金持ちになりたいといったこととは別次元、つまり他者にはどうでもいいこと、あるいはごくささやかなことで、筆者は自慢する気は皆無だ。それでも一言しておくと、筆者は祝福されていると思う。
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