「
腐敗から 新芽はいずる これ不敗」、「築9年 ある日突然 崩壊の 腐敗ハウスは 時代の鑑」、「鏡餅 コロンと転げて ミカン落ち 餅はコロコロ ミカン ブスっと」、「コロンブス ブスをコロンと 転がせり」、 「コロンブス ブスにコロンと 殺されり」
築8年のアパートの階段が落下して50代の女性が頭を打ち、先ほど死んだというニュースがあった。設計ミスなのか、手抜き工事なのか、いずれにしても国の劣化はそういうところに表われていると思える。同じような脆弱な施工は日本かくちで行なわれているのではないか。今日は「風風の湯」でFさんが、「新築の家はプラモデルみたいなもんや」と意見した。今はそういう薄っぺらな家に住み、夫はプラモデルが趣味、子どもはレゴでハウスを作る。それはまだましで、家族全員スマホに食い入っている。それにしても鉄の階段を取りつける壁面が木材というから、雨で腐敗が早まることを施工者がわからなかったとすれば、よほど無責任だ。昔のニュース映像で見たが、朝鮮戦争の特需で沸いた日本は、輸出用の洋服のボタンを縫わずに糊で貼ったことがあった。その後の日本製品の評価が低かったのも当然だが、そういう手抜きがまた蔓延して来ているのだろう。見栄えだけがよく、売った後はどうなろうと知らない。築8年は寿命ですと言えばよく、手抜き工事と文句を言われればエビデンスを見せろとすごむ。腐敗は伝染する。トランプ大統領がコロナ・ウィルスを中国由来と発言してから、思考停止連中がそのことに喝采を送り、アメリカでは道を歩いている女性が男に突然蹴られて大けがをした。男はまた獄に舞い戻ることになったが、憂さ晴らしは連鎖しやすい。やられたらやり返すという思いもそうだ。社長の不満は社員に、社員の不満は配偶者に、配偶者の不満は子どもに、子どもの不満は弱い子に、そして末端のその弱い子は最悪の場合は自殺する。アメリカの黒人は白人に迫害された歴史があるので、アジア人を蔑視しやすいだろう。元はアメリカに白人も黒人もいなかったから、歴史的な長い時間で見ればほとんど同時に白人も黒人もアジア人も同居し始め、またそれは先住民を追い出してのことだ。鶴見俊輔はアメリカにヒスパニックの住民が急増していることを当然のように思っていた。プレコロンビア時代に思いを馳せればそれは納得出来る。大昔からの住民が元の土地でふたたび大いに繁栄しても、それは自然の摂理からしてもあたりまえではないか。40年ほど前、ブタクサが大繁殖し、秋の桂川の河川敷はその実った穂で黄色に染まった。それが2,3年続いて旧来の雑草が勢力挽回、今はブタクサはごくわずかだ。コロンブス以後のヨーロッパ人移住はそのブタクサと思えばよい。二、三百年の一瞬は大いに栄えたが、その後は元の住民が圧倒したというように、いずれ教科書に載る可能性がある。そうなっても誰も困らないと言うか、困る者の声は小さく、無視される。
圧倒的多数の民族が世を謳歌し、いずれ他の民族が圧倒する。それを国に置き換えてもよく、強い者が〇と言えば、弱者はそれを受け入れざるを得ない。表面は受容しても内面は拒否する自由があるし、誰もそれを見破れず、結局〇は〇でありながら、〇とは限らない。ところで、移民を大いに受け入れて来たアメリカは人種間の競争がある分、並みの能力の人には生きにくいかもしれず、それは図抜けた才能は目立ちやすいことであって、やる気の旺盛な者が日本から脱出して行くことは当然であろう。今後ますますそうなるのではないか。そこに日本独自のよさを持ち出すとして、香り高い文化や芸術を必要とする人はごく一部で、大多数はそんなことはどうでもよく、それで前述のような欠陥住宅を建てて恥じない者が出て来る。それはいつでもどの国でも同じと見るべきという意見があるが、植物のように人間や国家にも成長期があれば腐敗期もあって、腐敗期にはあちこち綻びが目立ち、それでは駄目だとやがて自浄するか、あっさり滅亡するかとなれば、今の日本がどっちに近いかだ。今夜「風風の湯」で85歳のMさんはそういう話をしながら、もう日本はとっくに壊れていると意見したが、それでもどうにか国は動いて行くし、腐敗の中から新芽は出て来る。ところがその出て来たばかりの新芽がすでに腐っているという状況がなきにもあらずで、緊急事態宣言がまた発出される様子を見ながら、コロナが政治家のあまりの無能ぶり、無責任ぶりを露呈させる効果があったことはよかったように思う。その一方でネット社会がさらにいっそうひどい為政者を生みかねないが、周囲の事故はどうでもよく、あるいはどうすることも出来ず、自己に沈潜するしかないという気持ちが勝る。さて、ようやく本題。「〇は〇か」の投稿は
2019年8月11日以来だ。忘れていのではない。写真はたぶん10数回分はある。大半は5、6年前のもので、投稿の機会を逸した。それで投稿を諦めていたが、一方で新たに見つけて撮影し、またその写真を使いたいと思いが高まる。今日の最初の写真は2月3日、丸太町通り沿いのガソリンスタンドの片隅、2枚目は2月5日、嵯峨の油掛町の路面、3枚目は3月9日、これも嵯峨のスーパーへの途上で、白と桃色のサクラソウが上から見て輪を描き、接している様子が面白い。「〇は〇か」としてではなく、別の題名の投稿に最近写真を使った例として、
2月12日の投稿「節分に 運気変わりて 吉事あり」がある。先日のヤノベケンジの
「渡月藻庵」の丸い出入り口や木製の看板のひまわりの中心部もそうで、それらの写真を「○は○か」の投稿に使おうかとも思った。断っておくと、「○は○か」は「まるはまるか」と読むが、ネット検索では「 は か」と表示される。○は記号と漢数字の区別があるが、筆者のパソコンではどちらも〇と表示され、区別出来ない。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する