「
操りて 操られる 人生は 時間切れにて 終わる演技や」、「終わりとな 名残惜しくも 座を譲る 尾張名古屋に 選挙占拠」、「偉ぶれば 選ばれるとは 限らぬぞ 神の僕の 紙の依り代」、「美を求め いじり倒して 苦笑い 整うほどに 味気なき面」
、「適当に 敵に当たりぬ 戦争と 同じ出会いの 恋愛市場」、「犬歩き蘇鉄に当たり卒倒す」とうのは本当で、それほどに蘇鉄の葉は尖っていて扱いに困る。その葉先が黄ばむのは枯れている状態で、霜に当たればそうなりやすいのだろう。それで冬場は葉をまとめて紐で縛る保護をするのがいいが、以前書いたようにわが家の2鉢の蘇鉄はそんなことをしない。それでも葉先が黄色になることはない。ただし、根元に近い古い葉はすっかり枯れてしまうことがあり、それは根元から切り取るが、毎年幹のてっぺん中央に幼場が掌をいくつも合わせたような状態でにょっきりと生え出て来る。生育は陽当たり、土の養分、水分が大きく関係するが、それぞれの蘇鉄の潜在力の差もあるのではないか。人間と同じで、生命力の差があって、同じ条件で育てても成長や寿命は違うと想像する。さて、昨日は丸太町通り近くの嵯峨の喫茶店について書いたが、今日の2枚の蘇鉄の写真はその店の近くにある。最初の写真は2月21日に撮った。霜が降りるのを防ぐ網で覆われていて目立ちにくかったが、先月それが取り外された。2枚目の写真は気になりながらようやく一昨日に撮った。建物の壁が迫っているのが残念で、蘇鉄は仕方なしに葉を伸ばせる右手に勢いを増そうとしている。この蘇鉄の土地を所有する人はせせこましい、またごちゃごちゃとした場所だが、蘇鉄を大事にしていることがわかって、通りがかるたびに見る。その気になる存在に対しての本心が何かと自問すると、「頑張れよ」というのは当たっておらず、「どうにか生きてるな」というのが正しい。植物が存在しなければ動物もいないが、与えられた環境で枯れずに生きている植物を見ると、「勇気づけられる」ほどではないにしても「自分もしゃんとしていたい」と思う。その思いの植物の最たる対象として筆者は蘇鉄が好きなのだ。それで樹齢数百年という豪勢なものがいいに決まっているが、買い物がてらに民家の前で見かける、誰も気に留めないような鉢植えもそれなりに愛おしい。そしてそういう蘇鉄を見かけて撮影している最中で、その変哲のない育ちぶりに添えるこの文章もさらにどうでもいいことを連ねるが、最低限「生きてるな」あるいは「しゃんとしている」と自覚出来ることではあり、自分の姿を見るような気がする。そうそう、一昨日は路上で出会った見知らぬ男に絡まれ、筆者は日本刀の小刀を鞘から抜いて相手に「刺したろか」とゆっくりとすごむ夢を見た。その光る刃は蘇鉄の葉先の尖りの比喩だろう。夢判断によれば、刃物の夢は「高い能力に自信を持って物事に挑んで行く」ことの暗示で、なるほどと納得した。
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