「
飴と無知 ともに与えて 並み親子」、「親子丼 親子でひとつを どんと分け」、「どんと来い DON‘T来いとの 本心や」、「本心は いつかやるぞと 吾老いし 鼓舞する鞭を 失くし飴舐め」

ヤノベケンジは2018年の夏に全国的に名前を知られた。その事件によってその後活動がどうなるのかと、筆者は心配と言うほどではないが、気になっていた。その後の新作を見ていないが、今回の「渡月藻庵」は旧作を用いながらコロナ禍を念頭に置いて新たな意味つけ加えたもので、相変らず社会の大きな動きに際して美術がどうあるべきかを考えたものとなっている。そのことが鑑賞者の好悪に晒されやすいと言えばおそらく反論がある。どのような芸術作品においても鑑賞者は好きか嫌いかの立場を取るからだ。芸術家が社会の大きな出来事を強く意識するか、逆に無視するか、そのどちらが正しいとは言い切れない。無視しているように見えて、作者は心を痛めているかもしれず、そのことが表向きはわかりにくい形で作品に込められている場合はある。次々と起こる大災害のたびにそれに対して何かを主張する作品を制作することには限界がある。大災害とは何かという問題があるからだ。ヤノベが2018年夏に批判の的になったのは、東北の大震災の時に復興への望みを託して作った「サン・チャイルド(太陽の子)」という、高さ6メートル少々の子どもを象った立体作品を、その胸に放射線0を表示するガイガーカウンターを取りつけるなど、全体にわずかに見栄えを変更して福島で展示したからだが、その行為は今回の「渡月藻庵」とだぶる。旧作をわずかにアレンジして新たな文脈に置くからだ。震災直後は「サン・チャイルド」に対して批判が起こらず、ヤノベの名前はさして有名にならなかったのに、7年後に同じ作品をわずかに変えて展示した時には、同作品はマスコミからかなり叩かれた。ヤノベが声明を発したかどうか知らないが、筆者が当時ネットで見かけた論調はほとんどがヤノベやその作品を無神経であると糾弾するものであった。福島ないし日本は、被災地の除染が進み、放射線の問題をことさら取り上げてほしくなかったからと言ってよい。ところが一昨日は政府は福島原発のタンクに蓄積して来た汚染水の置き場についに困り、希釈して海に捨てる方針を発表した。もちろん福島の漁業関係者は反対しているが、一方では元首相は人が飲んでもどうもないと発言し、真実がどこにあるのか誰にもわからない。あえてそのように隠されているとすれば、政府や大企業につごうの悪いことは隠しておけばよいという考えがあるからだ。コロナ禍で政府のやることを信じない人がネットで見る限りは激増していて、その伝で言えば福島の原発は「統制下」にないと思うのがまともだろう。それでコロナ感染者急増中の今でも東京オリンピックを開催するというのであるから、「まとも」が何かもうわけがわからなくなっている。

話のついでに書くと、福島の除染は森林地帯に手をつけておらず、そこに降り溜まった放射線が除染が済んだとされる地域に風で運ばれているという記事を最近読んだ。また、汚染水を大いに希釈して海に流すのであれば、なぜ最初からそうしなかったのだろう。これまで無数のタンクを造って蓄えて来たことは無駄ではないか。小学生でも考えるそうしたことを無視して海に捨てるのであれば、また飲めるのであれば、政治家が率先して自宅の庭に巻き、日々の飲料水にすればよい。話を戻して、「サン・チャイルド」に除染服を着せ、放射線0のカウンターを取りつけ、そして頭部を剥き出しにしたのは、ヤノベはそういう日がいずれ来ることに希望を託し、また放射線0は自然界ではあり得ないことを知ってのことだ。批判した人たちは、特に放射線0が気に食わなかったのだが、ではヤノベは最初に作った「サン・チャイルド」に手を加えずにそのまま7年後に展示すればよかった。あえてそうしなかったのは、大阪人のサービス精神ゆえと筆者は解したいが、そういういわば洒落が東京や福島では通用しなかった。そのことは、相変らず放射線が「統制下」にないことを地元の人も東京の政治家も知っているからで、7年も経ってすでに寝た子を起こしてほしくなかったのだ。ところが汚染水の問題を見ても、放射線に対する危惧が国民から拭えていない。全く問題ないと言う人は個人的な希望観測で、希釈したところで海流は予想がつかずに動き、あるいは投下量によって生物にどれほど蓄積されるかは誰にもわからない。汚染水を海に投下してよければ、廃炉から取り出したデブリもいつかそうするはずだ。「水に流す」とはよく言ったものだ。放射線という汚物も海に捨てても当然という意識が日本にはある。福島の汚染水よりはるかに放射線が多い汚染水を韓国は海に流しているという意見がネットにあるが、韓国憎しゆえにろくなデータが入手出来なくても信じ込み、いい加減な意見を垂れ流す輩がいる。繰り返すが、放射線に関しての正しいデータは、日本のコロナ感染者と同じく、ろくに調べていないので誰にもわからない。それは厳密に調べたくなく、また調べる手段もないからだ。東京オリンピックは震災からの復興が題目であったが、コロナ禍が襲い、その二重の災禍の統制は取れていない。それは為政者による人災の部分が大きく、今は三重の災禍のさ中にある。そういう現状にヤノベがどういう希望を持ってそれを作品に託そうとしているのだろう。現在の社会に意見する芸術の中でも現代美術は風刺的なものが多いが、ヤノベの作品にはそういう棘はあまり感じられず、むしろ能天気、楽天的だ。「渡月藻庵」はサザエとするには棘が尖り過ぎていて、そこにろくでもない人物を象った人形を何体も串刺しにすれば面白い。サディスティックな筆者はそう思う。

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